あーあ、一歩近付けたと思ったのになあ。アスファルトの堅さを背中に感じながら、彼、折原臨也はそんなことを考えていた。これまでは彼女に一方的に嫌がらせを仕掛けるだけだったが、あの一件以後、彼女からも彼の元へ嫌がらせが届くようになった。これは大きな進歩だ。彼女は大変忙しい人間であり、無駄がない人間である。だから彼の嫌がらせを未然に防ぎ、その手間にため息を漏らすことはあっても(実際はなかったかもしれないが)、仕返すことは決してなかった。無駄なことだと、認識していたためである。彼女は彼に興味がなかった。興味のない人間に反応を返すことほど、無駄なことはないのだ。

しかし、今となってみれば、それでさえも演技であったのかもしれない。本当は彼女も彼に興味があったのだが、それを知られるのを拒み徹底した無視を決め込んでいたのではないだろうか。彼女が俺と同じ、このくそったれな仕事をしているということは、相手に頭の中を悟られることを何よりも嫌うはずだからだ。彼らの仕事は情報を操り、人間の先を先を読むことである。決して読まれてはいけない。つまり、彼女は俺に興味があったが、仕事柄なんとか自制していたものの、先日の一件でそれを隠すことをやめた。なんて、これはさすがに、自意識過剰が過ぎるかな。彼には彼女の手が読めない。読めたことがない。敗北を認めるようなものだが、彼女の前ではそれを厭うことでさえ、悪あがきにしかならないのである。あーあ。

まあ、なんにせよ、近付けたことに変わりはないのだ。彼にとって、彼女への嫌がらせはスキンシップである。彼女もそれを理解していたはずである。その彼女が、同じく嫌がらせを返したということは、どういう意図であれ、意思であれ、彼がそのように受け取ってもいいということなのである。きっと、そうだ。そう、やっと近付けたというのに、こんなところでくたばるのか、俺は。

彼は現在、池袋のとある路地裏に転がっていた。全身がひどく痛み、頭が重たい。あーあ、彼は思う。彼が転がる理由は、先ほど届いた彼女からの贈り物という名の嫌がらせにあった。それはひどく簡単なもので、彼は事前に防ぐこともできたが、あえてそれをしなかったのは、いっそそれを利用して遊んでやろうと思ったからである。自分の強さを、たまには彼女に誇示してみせようとしたのである。実際、それは叶ったように思う。しかし誤算であったのは、そこに池袋の自動喧嘩人形が通りかかってしまったことである。いやはや、偶然とは恐ろしい。いや、まさかそれさえも計算していたとか?あまり考えたくない発想である。彼女がシズちゃんと一緒に組んで俺をはめようとした、とか。

実際は、ちがうのだろう。彼女は自分との会話の中で平和島静雄の名前を出すことはあっても、仕掛けるようなことはしなかった。静雄自体、彼女の口から自分の名前が出ることをひどく嫌っている節もあったようだし。では、今日の自分の運勢を恨むことに徹しようか。あーあ、まだ動けないや。シズちゃんってば、まさか公衆電話ボックスを投げてくるとは思わなかった。というか、池袋にまだ公衆電話のボックスなんてものが存在していたなんて。ああ、考えが飛躍する。頭を少し打ったか?まとまらない。えーと、ああ、そうだ。その公衆電話ボックスを投げてきて、俺は軽く数百メートルは飛んだのだろう。したたかに体を打ち付けて、空を見上げなきゃならなくなってる。このままもう少し休めば、すぐに良くはなるだろう。俺を投げ飛ばしたことで、シズちゃんは満足しただろうか。ああ、もしかしたら追いかけてくるかもしれない。早くここから移動しなきゃな。そう思うのに、だんだんと意識は遠のくばかり。ああ、くそ。すぐにまた彼女が、浮か、ぶ。

顔に影が差すのがわかった。あ、まずいかも。目を開かずに、頭の中に映るのは青筋を浮かべた最強の男。そっとナイフに手を伸ばそうとすると、その腕をとられた。冷たい手のひらは、彼女を思い浮かばせた。ああ、俺はバカだ。こんな時まで。その腕はもがれると思ったが、意外にも事務的に脈をとっている。

「生きてるね。立てるなら、自分で歩いてほしいんだけど」

声を聞いて、薄っすら目を開けた。そこには白衣をまとった、一人の男が立っていた。

「俺は、よっぽど運がいいのかな。偶然にも、こんなところで新羅に出くわすなんてさ」
「自分で自分を皮肉ってどうするのさ」

きしむ体を抑えつつ、立ち上がると、目の前の友人は彼に手を貸すこともなく路地を抜けていく。そこには一台のタクシーが止まっていた。タクシーに乗っている時に、偶然自分を見つけたのだろうか。いや、しかしあの奥まった場所はこの表通りからは見えないはず。では、俺を見つけてタクシーを呼んだのか。死んでいるかもしれない友人を目の前に、悠長にタクシーを止めていられるのか。まあ、やりかねないやつではあるが。不思議そうに見つめてくる彼に、新羅は困ったように微笑んでドアを開けて見せた。

「僕がここに来たのは偶然じゃない。ある人にお願いされたからさ」

それだけで、十分だった。彼は口角が上がるのがわかる。思わず笑い出しそうになったが、腹筋が痛み、頬がひきつり、それは叶わなかった。おかしな顔を見せている同級生に対して、新羅は遠慮なく、気持ち悪いと言い放ったのだった。









強運なる薄幸男 // 120416