びゅう、と吹き抜ける風に身を震わせて、耳に押し付ける生ぬるい温もりの携帯電話。コール音はまだ止まなくて、私は気を落ち着けるようにそっと目を伏せた。目を閉じたくらいで何が変わるわけでもなし、ぶるぶると震えだしそうな四肢に嫌気が差して、もういっそ座り込んでしまおうかという考えをもたらす。電話なんて、こんなところでするものじゃないな。自分自身に言い聞かせるように思って、ふうと息をついた。もうすぐ、もうすぐだから。

「もしもし」

気だるそうにつぶやかれた一言は、私の胸に響いて涙を誘う。

「別れてください」

ぐっと携帯を握る手に力をこめてそういうと、その声は思った以上に掠れて、格好の悪いものになっていた。次の言葉を待ってごくんと唾を飲み込んだら、ため息混じりな声で、あきれたように携帯が震えた。

「なんだァ?俺のこと嫌いにでもなったか」
「…っがう」
「じゃあなんでだ?」
「………」
「なんで別れよう、なんて言い出す」

私は、自分が思う以上の弱虫だったらしい。声が聞こえるたびに、微かに揺れる携帯。私が晋助の声にびくびくしているからだ。そして晋助の言葉を聞けば聞くほど、涙がこぼれて仕方なかった。私はこんなにも泣き虫だっただろうか。泣き虫だった。だけど、決めたはずだった。もう泣かないと決めたはずだった。決意がこうも簡単に崩れてしまう。涙を堪えなかったわけじゃない。堪えても堪えても、それでも堪えきれなくなる。晋助の声を聞いていると、私の決心がすべて、揺らいでしまう。だめ、だめ、だめ。

「俺が頷かなきゃ、別れらんねェのか?」
「…っ、…」
「なら俺の答えは、いいえだ。俺と別れてェんならそれ相応の理由を持ってこい。なァ?

名前を呼ばれたとたんに、ぐらりと揺らいだ。何が?すべてが。いけない、いけないよ。だめ。もう、疲れたんだ。

「それでも、さよならだよ。晋助」

そういって、一思いに電話を切ってやった。そのとたんに、涙がどんどんあふれてきて、私はどうしようもない馬鹿だと自覚した。知ってるよ、私は馬鹿だ。いいの、これでいいんだよね?疲れた、疲れたんだもの。さよなら、さよなら晋助。

「ひでぇことするな、一方的に電話切るたァ」
「しん、すけ…?」

電話みたいに直接鼓膜に響く声じゃない。ちょっと大きめな声がこの場に響いて、私に耳に届いて。思わず膝が折れてその場に座り込んでしまった。振り返ると、屋上の扉から顔をのぞかせた晋助がいて、こっちを見ていつもどおり楽しそうに笑っているんだから、驚いた。どうしてここにいるんだ。どうして。そんなことはもう、どうでもいい。顔を見たとたんに、すがりついてしまいたい気持ちがあふれ出す。たがが外れたかのように涙は止まらなくて、晋助の顔がぼやけてもう見えない。ひどいや、ひどい。何がひどいんだかわからない。びゅうと、さっきよりも強い風が下から吹き上げて私の前髪を浮かす。もう、なんで、なんで来るのよ。

「なんで、別れようなんて言ったんだ?」

いつもどおり、なんて、嘘だ。晋助の声はいつも以上に優しく響いて、私の心をやっぱり揺らす。優しく聞こえるのは私がそれを望んでいるからなのか、それとも晋助がこの状況を少しでも危ないと感じているからなのか。真偽なんて私にはわからなくて、でも、錯覚でも優しく感じる晋助の声が心地よくて、幼い子のようにわあわあ泣いてしまいたくなった。晋助がこっちに向かって歩いてきて、体がびくりと震える。近づいてきてほしくないのか、もっとそばにきてほしいのか、自分で自分がわからない。晋助がフェンスに手をかけると微かにカシャンと鳴って、私の顔をのぞきこむ。フェンス越しのあなたの顔が、恋しい。

「別れ、ないと、死ねないの」
「なんで」
「晋助といると、もっと生きたいって、思っちゃう。だから、だから」

私は死にたいのに、晋助のことを考えると、死ねないの。この世は暗くて冷たくて、もう私は疲れてしまった。だから死にたい。だけど私はまだあなたが好きで、あなたとこの世界を生きたいと願ってしまう。この世を生きることは辛くて苦しいってわかってるくせに、それを望もうとしてしまう。ちがう、私が望むのは世界じゃない。晋助を望んでしまう。晋助がいるこの世界を、望んでしまう。だけどね、私はもうそれにも疲れてしまったんだ。苦しいの。死のうと何度も思ったのに、よぎるあなたの顔や声や仕草が邪魔して、今までできなくて、じゃあもういっそ生きてしまおうと、同じく何度も思った。でも、何度も挫折した。疲れたよ、晋助。だからね、だから。

「お前が、俺を理由に死ぬことができねェなら、俺は絶対に別れてやらねェよ」
「だって、晋助」
「いくらでもなろうじゃねェか。お前の、生きるための枷によォ」

胸が苦しくなった。苦しくて、息ができているのかどうかもわからないくらい苦しくて、気付けば私は首を横に振っていた。ぎゅう、と心臓をわしづかみにされたみたいな感触に、吐き気がした。生温い風が私の頬を撫でるのが気持ち悪い。やめて、やめて。生きたくなっちゃう。生きたくないのに。私は、もう。

ガシャン、ガシャンと不格好な音を立てながら、晋助はフェンスをのぼって私の横に降り立った。何十分か前に、自分があれだけ苦労したフェンスを軽々のぼって軽々おりてしまう目の前の男に呆然として、私は開いた口が塞がらなかった。フェンスを越えるの、すごく早かった。ふう、と息をついて、ポケットに手を突っ込んで、縁から下を覗き込んでひゅーと口笛を吹いている。

「この高さなら、死ねるな」

改めて言われて、体がぶるりと震えた。ここは六階で、落ちたら確実に死ねるだろう。晋助はこっちを見て、目を細めて笑った。

、お前本気で死にてェか」
「う、ん」
「じゃあ俺が先に死んでやる」
「な、なんで!」
「お前の死ぬとこなんざ見たかねェよ。だったら俺が先に死ぬ」
「や、やだ!やめて、死んじゃだめ!」
「なんでだよ、俺の勝手だろ?」

にやりと笑う顔、知ってる。だって付き合いは浅くない。この顔は、本気だ。本気で死ねるんだ、晋助。ごくりと唾を飲み込んだら、思った以上にその音が大きくて驚いた。

「し、んすけ、死にたい、の…?」
「死にたかねェよ。まっぴらごめんだ」
「じゃあ、なんで」
「死ぬのはごめんだが、さっき言ったことは嘘じゃねェぜ」
「そん、な」
「お前が死ぬなら俺も死ぬ」

頭が、スースーする。吹き抜ける風は生温かくて、むしろ暑いはずなのに、背中や額に流れる冷や汗はとまることがなくて、ぶるり、寒気さえする。

「なに、戸惑ってんだ?お前は自分の好きにすりゃいい。ほかのやつのことなんて気にする必要ねェよ」
「そんなこと、いわれて、も」
「俺ァ、知ってるぜ?お前が死にたくねェことくらい」
「!…」
「人に流されんじゃねェ」
「しんすけ」
「人に左右されて、自分が死ぬか生きるか選ぶんじゃねェよ」

晋助の顔はもう笑っていなくて、真っ直ぐな瞳が私を貫いて、鋭いその目に、私は瞬きさえ忘れた。

「てめェで選べ、生きることをよォ」

怒ってるんだと、このときはじめて知った。涙はいつの間にか止まっていたらしく、私はまたぼろぼろと泣き崩れてしまう。さっきよりも熱く感じる目頭と、妙にすっきりする頭が、晋助を好きだと叫んでいた。心が、あいつを求めてる。地面にへたり込んで泣きじゃくる私のそばにくると、晋助は私の頭を抱えて、痛いくらいの力で抱きしめる。痛くて痛くてたまらない心が悲鳴をあげて、生きていることが苦しいと泣いているのがわかるのに、死にたくないよと無意識に口から出たのはなぜだろう。心のどこかで、痛いよ苦しいよ、助けて晋助と泣いていたからなのかな。どうしようもなくこの人を求める自分が、酷く浅ましいと感じた。

「次に、本当に死にたいと思ったときは、俺に言え。俺がお前を殺してやるよ、



あなたをめてがなくから
20070717