めずらしく依頼が入って、俺らのうち二人が借り出されることになった。こんな雨の中、仕事に行きたいと自分から言い出すやつがいるは ずもなく、誰が行くかをじゃんけんで決めたところ見事に勝利したのは俺一人だった。今日の星座占いは確か最下位だった気がするけど、 案外あたらねぇなと笑って二人を見送り、ソファに寝転んで睡魔にもまれているときだった。静かな部屋に、電話の音が響き渡る。無視を 決め込もうにも、しつこくなり続ける電話はいいかげん鬱陶しい。覚悟を決めて受話器を取ると、意外にも仕事の依頼だったのだ。

一日に二件も仕事が入るなんざ、どういうことだ。通された客間を見渡しながらそう思った。いつから万事屋はこんなに有名になったのか ね。金が入るのは嬉しいが、なにやら気味が悪い。電話の依頼で依頼主の家まできてみれば、そこは商業関係で有名なの本宅であったと いう。あんな金持ちのご主人が万事屋にどんな依頼をされるのやら。頭をわしわしとかくと、遠くのほうから足音が聞こえてくる。雨の音 も入らないくらい密閉されたこの静かな部屋に響くのは、畳の軋む音だけだ。すっと引かれた高そうな襖の奥には、一人の男が立ってい た。

「突然お呼び立てしてもうしわけありませんね、万事屋さん」

なにやら男はこの家の主人というわけではないようだ。彼はこの家で秘書を務めているらしく、まず最初に主人が多忙のため顔を出せない ことの非礼を詫び、俺に仕事の内容を話した。依頼の内容は、お嬢さんの護衛らしい。

「今日一日で結構です。今日一日お嬢様のお傍を離れず、お嬢様の行かれる祭りに同行していただきたいのです。その際、あやしいやつが 一切お嬢様に近付けないようにしていただきたく」
「祭り?あー、あの神社でやる。確か今日だったな」
「お嬢様は年に一度のあの祭りをとても楽しみにしていらっしゃいまして。今日これから一日護衛をお願いしたく」
「なんで俺に?ボディガードでも雇えばいいじゃねえか、金ならいくらでもあるだろうに」
「何ゆえ急なことでして、手配が間に合いませんでした。それに、あの白夜叉が護衛であれば心配はいらぬだろうと、主人は言っておりま す」

いやな、目だ。舌打ちをしそうになる衝動を抑え、頬杖つくと秘書の男は不安そうに苦笑した。懐からそろばんを取り出して適当にはじく と、俺のほうに向けてにんまりと笑う。ふう、と息をつくと俺はこう告げた。

「お引き受けしましょう」








秘書につれられ、お嬢さんの部屋へ行くとそこはもうもぬけの空で、秘書はあわてて探してきますと廊下をかけていった。広い部屋に、 縁側までついてやがるよ。襖を開けて縁側へ出ると、雨音が俺をむかえてくれた。部屋中に響き渡る雨音と湿気は俺のテンションを著しく さげてくれる。こんな天気じゃ祭りも何もないだろうに。今日は一日この雨が続くでしょうってお天気お姉さんも言っていたことだし。 じゃあ俺が雇われる意味はないだろうに。それでも今日一日はお嬢さんについていろという意味は、なんだろう。広い庭に目をやると、川 というには幅のせまい、池というには少し広い水の通りをみつけた。さすがの本家ってことか。庭も広いし池もでかいし、すげぇなあ。 池の上を遮るような橋をみつけ、その上に傘も差さずに突っ立っているおかしな女をみつけた。目を擦ってみるがどうやら幻ではないらし い。人間?縁側に立てかけられた傘を差して、ゆっくりと歩み寄ると橋がぎしぎし軋む。雨音に混じって、水がばしゃばしゃ跳ねる音が 耳に響いた。

「なに、してる」
「鯉が楽しそうに跳ねているから」

池を覗き込めば、高そうな錦鯉がばしゃばしゃ水面を叩いて跳ねている。餌をやっているわけでもなさそうだ。もう一度顔をあげて雨に 濡れるやつを見れば、それは女のようで、紺色の高そうな着物を雨でぐしょぐしょに濡らしてこちらに背を向けている。すると、女が動い た。ゆっくりとこちらを振り返るその動作はとても優雅で、天女でも見ているかのようだ。

「あなたが、万事屋さん?」

真っ白な顔で、真っ青な顔で、薄ら笑んだその顔に俺は背筋が震えるのを感じた。








自然と、幽霊かもしれないという考えは浮かばなかった。なぜならその女はとても人間らしい人間だったからだ。女のどこに人間らしい 部分を見出したかは俺自身、自分でもわからねぇ。だがその女は幽霊やらお化けやらなどではなく、ちゃんとした人間だったのだ。まった く説明になってねぇ。とにかく直感的にわかった。こいつは人間だと。

その女はやはりというか、俺が護衛をすべきお嬢さんであったらしい。俺が質問に答える前に女は橋を渡って縁側から自分の部屋に入り、 畳が濡れるのも構わず部屋の中を歩き、何の躊躇もなく着物を脱ぎだした。襖も閉じず、俺はその姿に驚きながら見入るしかない。雨に 打たれているのが傘なのか俺なのか、もはやわからない。あの女を見つめるだけで、精一杯だ。女がこちらを一度見て、俺を確認したはず なのに着物を脱ぐ手はとまらなかった。一番下に着る薄い白い衣までべたべたに濡れていて、女の体に張り付く様はとても扇情的だ。天女 が羽衣を着ているかのごとく美しいが、やはり女は人間だ。最後の一枚を脱がずにそのまま部屋を出て行ってしまった。それからも、俺は 当分の間その場を離れることはできなかった。

秘書が女を連れて戻ってきたとき、女は赤い浴衣を着て頬は上気していた。風呂にでも入ってきたのだろう。さっきのように真っ青な顔は していないが、真っ白な肌はかわらない。少し着崩している浴衣からのぞく白い首筋は儚げで色っぽい。秘書が俺にお待たせしましたと 告げた言葉など耳に入ってこず、女は俺なんか気にしない様子で窓際により、窓の縁に腰掛けた。

「こちらがお嬢様の、様にございます」

女から秘書のほうに視線を戻すと、また苦笑を浮かべて首を傾げていた。この女の不思議な行動に俺が戸惑っているとでも思っているよう だ。俺が何も答えずにいると、秘書は少し頭を下げて、それではよろしくお願いしますといってさっさと部屋を出て行ってしまった。縁側 へ続く襖が開けっ放しのせいか、雨音と湿気がこの部屋には満ちている。閉めようかと視線をそちらに流していると、ふと耳に声が流れ 込んできた。

「お祭り」

窓の外を眺めながらつぶやかれたその一言は、かろうじて雨音にまぎれずに俺の耳まで届いた。

「こんな雨だ、今日は中止だろうよ」

俺がそういうと、女はこちらを振り返って何を考えてるんだかわからない顔で、目で、こっちをみつめてくる。その視線に耐え切れなく なって口を開いたのは、俺だった。

「なんで、祭りなんか」
「お母様が生きていたときは毎年つれていってもらっていたの。お母様が死んでからだって、お祭りだけは快く外に出してもらえた。私が お母様との数少ない思い出の地を望んでいると勘違いしたのね」
「本当は?」
「外に出られる理由なら、何でもよかったの」

死んだ母でさえ、口実にできる。言わずとも伝わるその意味に、なんとも感じなかった、いや、感じられなかったのは言葉の意味にこもる 悲痛さに気付けたからだろうか。ゆっくりと、言葉は続く。

「毎年、護衛なんかなしにもお祭りには行かせてもらえていたのよ。でも、今年は馬鹿なことをしてしまった」
「何を」
「最近やけに縁談の話が多くてね。わたし政略結婚させられるのがいやで、お父様に言ってしまったの。私には想いを寄せる方がいるから お父様の選んだ方と結婚できませんって」
「へぇ」
「お父様はお怒りになった。お祭りで二人で会うんだろうと思ったのね、だからあなたをつけたの」

秘書の言葉が頭をよぎった。あやしいやつが一切お嬢様に近付けないように。あれは虫除けという意味だったのか。近付いてくる男はきっ と娘と恋仲の男にちがいないから、あやしいと判断すれば即座に切り捨てろと。瞬きを忘れたかのように、女の赤い唇に見入ってしまって いた自分を恥じて、俺はゆっくりと目を伏せた。乾いた目がじくじくと痛んだ。衣擦れの音が聞こえて目を開ければ、女は膝を抱えてまた 外を見ていた。

「でもね、こんなこと何の意味もないの。だって、私が想いを寄せる方なんていなかったんですもの」

こんなことになるなら嘘なんてつかなければよかった。ため息混じりに小さくつぶやかれたその言葉はとても無機質で、俺の心にはじーん と響くことになる。俺が言葉もなくして、ただ黙っていると、鈴を転がしたような小さな笑い声が耳に入ってきて、何かに化かされている 気分になった。それでもこの女は、人間だ。

「お父様も馬鹿ね。万事屋さんだって、男の人なのに」

するりと軽い浴衣が引きずられる音がして、畳の音は俺の耳には入ってこなかった。頬に添えられた白い手は、指は、ひんやりと冷たく 俺の背筋をぶるっと震わせるには十分すぎた。

「ねえ、私と万事屋さんが恋をしたら、お父様はどんな顔をするかしら」

微笑んだ顔は妖艶に輝いて、吸い寄せられるように俺たちはキスをした。まるで呪いにでもかかったみたいに、心がざわつく。どちらかと いえば不愉快なその感情の名前を、俺は知らない。

「望んでも、いないのにか」

一瞬驚いたように大きな瞳を見開いて、それからより一層楽しそうに微笑んでそうよと告げた。こいつは別に俺のことが好きだとか、俺に 一目惚れしただとか、実はずっと前から俺のことを知っていて想っていただとかそんなことではまったくなく、ただ、単純にすべてが憎い んだ。憎いという感情すら忘れるまっさらなところまで達し、ただ憎むべき相手であろう父親を、あっと驚かせたいだけなのだ。なんて 優美な罠にはまったのだろう。









籠鳥は死んだ



20070827