少し前までは、結婚願望なんてさらさらなくて、俺はきっと一生独り者で近藤さんの隣に座って散っていくんだと思っていた。だが、アイ
ツが死んで、一つのわだかまりのようなものが解けた気がした。結局俺は最後までアイツを忘れられなかったということだ。俺もいつかは
結婚するのだろうかという不思議な疑問が浮かぶくらい、俺の心境は変化していた。どこかしらの女と恋に落ちて、結婚して、ちっぽけで
も家庭を築いて俺はこの真撰組と真撰組以外に大切な場所を残し、死んでいくのもいいか。そう思えるほど、俺の心は幾分柔軟してきてい
たようだ。 だがしかし、女というものはおっかねェ。近藤さんを見ていると、交際だの結婚だのでさえも恐くなる。あれだけ散々な目に合わされても 手にしたがるものとは何だ。あの女が、そこまでして手に入れたいと思える女とも思えねぇ。だがこれは、俺の勝手な判断だ。きっと近藤 さんの目には、あんな女でも絶世の美女のごとく、美しく写っているのだろう。不憫というよりも、ここまでくると酔狂なやつだと笑いた くなる。俺らの大将は、こうだからいいのか、と。しかし、女はおっかねぇ。 周りの女があんなのばかりでは、俺はやはり生涯独身で終える気がしてならない気持ちもわかってほしい。今の生活に不満を抱えているわ けじゃない。まあ、このままも悪くはない。 ある日、ひとりの女にあった。この江戸の町を一望できる丘の上には、一本の木が植わっていた。名前も知らねぇ、花が咲くのかも知らね ぇ。妙にでかく太く空に向かって伸びる木は、俺のとても好きなもののひとつだった。この木の下で腰を下ろし、煙草をふかすのが最近の 俺の楽しみになっていた。なんだか年寄りくせェというのは、あえて口にはしない。その夜も市中見回りのあと、屯所にそのまま戻る前に ふとこの木が見たくなった。この木と、華々しく輝く江戸の町を、見下ろしてみたかった。空を見上げるより、町を見下ろすほうが明るく まばゆい。空には星など見えず、星が全部町に落っこちてしまったかのようだ。ふう、と吐き出した煙はその光を一瞬薄くして、すぐに空 に消えていった。いつもと同じ、夜だった。 「あれ、先客がいるようだ」 とっぷん、とっぷんとひょうたんの中の水が揺れる音がする。振り返れば一人の女がふらふらとこっちに向かって丘を登ってくる。片手に ひょうたんを持って、その格好は女というにはいささか乱れすぎている。目を細めて女をよく見れば、頬が赤く足元もおぼつかない。完璧 に酔ってる。ひっく、と肩を揺らしながら俺の隣にきて、木にもたれかかるように座り込んだ。ふわり酒の匂いが鼻につく。顔をしかめて 女を見るのに、女はこっちを見ようとしない。暗い空を見上げて、とろんとした目でどこか一点を見ているようだ。その瞳が、一瞬揺れ た。 「煙草を消してくれないかい?嫌いなんだよ」 「俺ァ酒が嫌いだ」 くすりと鈴を転がすような笑い声に、俺は舌打ちを隠さずすると女は自分の足元に視線を落とした。酒が、嫌いというわけではない。強く はないが嗜む程度には飲む。ただ、今の気分に酒が合わなかっただけだ。ポケットから吸殻入れを取り出して、吸っていた煙草をその中に 放り込んだ。口の中に残る煙をふうっと夜空に飛ばせば、残り香を漂わせて藍に溶けた。横目で女を見ると、目をつむって死んだように頭 を垂れている。口元は微笑を浮かべ、腕と足はだらりと地面に投げ出されている。本当に、死んじまったのか?ある疑問が浮かび、そのま ま横顔をみつめていると、まぶたが微かに震えるのを感じてまた視線を戻した。女が口を開いたのはそれと同時だった。 「あんた、お役人さんだね」 「あ?」 「帯刀してる」 自分の左腕を乗せている愛刀をちらり見て、女のほうに顔を向けた。よく見ると女の目の下には濃い隈ができている。白い肌のせいかよけ い目立つそれは、なぜだか色気をかきたてた。乱れた着物からのぞく白い首筋よりも、だ。俺の視線に気付いたのか、だるそうに目だけを こちらに向かせて口角を上げる。赤い紅が、際立つ。前髪がさらりと退いて、顔の色がさっきよりも鮮明になった。白というより、青白 い。 「テメェ、その隈…」 「おや、化粧でも落ちたかねぇ」 艶のあるしゃべり方だ。どこか妓楼の女か?ひょうたんを持っていないほうの手で目の下を擦るも、取れる気配はない。女はそれが化粧の せいでないことは最初からわかっているようだ。擦るというよりは隈をいたわってさするようなその行為に、なぜか胸騒ぎを覚えた。その 意味を理解できぬまま、かける言葉を探して頭の中をひっくり返している途中で、女が今度は首ごとこっちを向いた。ぱらりと落ちるとて も長い髪が女の上体に流れ込んだ。 「お役人さんは、何を見ていたんだい?」 「町、だ」 「おや、もったいない」 「何が」 「こんなにきれいな空があるのに、そんなちっぽけな光に目を奪われるのかい?」 きれいな空なんて、どこに。見上げても、とても濃い藍色が空を包んでいるようだ。輝く星なんていくつかほどしかみつからない。町を 見下ろせば闇も隠してしまうほどの光が満ち、それはとても優雅で誘引しているようだ。この空のどこに、町の光をも凌ぐ輝きがあるとい うんだ。変な女だ。もう一度女のほうを見ると、もう女はこっちを見てはいなかった。ずるずるともたれる木からずり下がって、半ば寝て いるような体勢になる。もうさっきのように頬も赤くない。息は荒く、顔は土気色をしている。驚いた。さっきまで大きく燃えていた蝋燭 が気付けば小さな灯火程度になっているのだから。 「私はあんたが嫌いじゃないよ」 「お、おい、お前」 「だって、私の言うことをちゃんと聞いて考えて、返事をしてくれた。これがどれだけ大きなことか、わかるかい?」 さっきまで鈴を転がしたような声で笑っていた女が、今では息も絶え絶えに話しているようだ。どうしたというんだ。俺が何も言えずに 固まっていると、女は視線だけをこちらに向けて、目を細めた。そのとき女の口から顎にかけて、一筋の赤い線が引かれた。口に引かれた 紅より赤いその色に、俺は目を見開いた。すぐに女の目の前まで移動して、様子をうかがう。正面から見た女の顔はひどいもんだ。今にも 死にそうな人間の顔をしてやがる。指の一本も動かせないのか、指先が白くなっている。全身に血が通っているのかと思わせるほど顔色が 悪い。顎を伝った血がぽたりと着物に落ちた。 「おい!お前、これはなんだ、どうした!」 「いたずらをしたら、ちょっとした魔法をかけられたのさ」 「何を、言って…!」 「空のお星様をね、盗んじまったのさ。そしたら魔女が怒って、私に魔法をかけた。寂しい魔法さ、誰にも相手にされないの。魔女もひ どいことするねぇ」 人事のように、おかしく笑うその姿は、美しかった。目を細めて笑う女は、もうそれ以上目を開けていることさえつらそうだった。とんだ 頭のおかしい女がいたもんだ。空の星を盗む?魔女に魔法?何を言ってやがる、いい大人が何を。ただ、女の顔色だけは何の偽りもない 事実で、だんだんと動かなくなっていく体と、静かになっていく呼吸に震え上がりそうだった。もう、なんと声をかけたらいいのかも、わ からない。 「逃げたのさ、私は。自分で自分に毒を盛ったんだ。死ぬときだって一人だと思っていたのに、ちがったようだね」 「嘘、だろ…」 「魔女はね、もう一つ私に魔法をかけたんだ」 「王子様に出会えば、幸せになる」 風が止んだ。何の音もしなくなった、ように感じた。俺の世界が、ある一人の女の言葉で、音を失ったんだ。なんてちっぽけな、世界。 「私は今、幸せになった。独りじゃない、この幸せ」 愛おしいものでも見るような、うっとりとした目で空を見上げると、女はふたつ咳をした。口から飛び散る赤い血が女の着物に落ちると、 小さな赤い水溜りがいくつかできた。ひどい、こりゃ、ひどい。 「できるならもっと早く、そして長く、味わいたかった」 伸ばされた指が俺の頬を一度ふれると、俺は無意識にその手を握っていた。それはもう、強くだ。それを幸せそうに見つめると、女の目か らは一筋の涙が零れ落ちた。それはまるで、流れ星のようだった。 20070901 |