世辞にもいい親とは言えない女だった。まだ未成年の息子を狭いアパートに一人残し、自分は落ち着いた収入もないままに毎晩飲み歩いて 朝になっても帰ってこない日も多いという、ある意味最低の親だった。しかしそんな最低の親が紛れもなく俺の親であり、最低と思われる ようなその行為のすべてが俺にしてみれば普通で、親なんて一人しかいないから誰かと比べることもできず、そんな最低な行為を繰り返す 親が俺の中での、普通の世界だった。世間体も悪く、近所付き合いなんてややこしいもんできるはずもなく、評判はとても悪かったらし い。俺のことでもいい噂を聞いていなかった周りは、俺とお袋を疫病神のように白い目で見続けてきた。気にするつもりもなかったが、こ んなところで気になることになるとは、誰が予想しただろう。

誰も泣かない、むしろ笑い声が耐えないおかしな場所だった。小さな狭いアパートの一室に、人が次々に出たり入ったりを繰り返してい る。通夜だった、お袋の。俺が瞬きをしている間にすべての話し合いがまとまったようで、通夜やら葬式やらは親戚が引き受けてくれるこ とになったらしい。それらは自分たちが何とかするから、これからの生活は自分でなんとかしろ。えらそうに見下された視線でそう言われ たときは、むせ返りそうなほどの吐き気が俺を襲った。未成年の親戚を平気でこの薄汚い世界に放り出せる大人がいるんだから、本当に この世界は腐ってる。いや、俺はそのほうがありがたいんだけど。小汚いくらいがちょうどいい。俺にはあってるんだ。誰か知らない他人 の通夜を遠くからぼんやり見ているような感覚だ。涙も出ねぇ。最後まで格好のつかねぇ女だ。急性アルコール中毒とやらで簡単に死んで しまった俺の母親は、息子に何の言葉を残すこともなくぽっくり逝きやがった。死んだと聞かされたときも、別に驚くことはなかった。 あ、そう。あまりにあっさりしすぎる別れには、何の未練も残らなかった。くすくすと心から楽しそうに笑う声が耳障りで、だけどあまり 気にならなかった。嫌いな相手の通夜になんて来なきゃいいのに。わざわざ笑いに来るなんて、趣味が悪いにもほどがある。よっぽど暇な んだろうか。俺には近所付き合いなんてさっぱりわからねぇが、くだらないものだということだけははっきりとわかる。頭は妙にすっきり していて、これが本当に母親をなくした息子の心境かと自分を笑いたくもなった。

さわさわ風に揺れる髪が、なんだか不思議な感じだった。どんな感情も抱けない自分が不思議だった。ぽっかり、清々しいくらいにきれい な穴が開いてしまったようだ。悲しいというには少しちがう、無機質な響きだ。何も耳に入ってこなくなった。世界で俺が一人だけにな ってしまったみたいに冷たくて、どこかすっきりしていた。そんな世界が急に崩れたのは、耳障りな笑い声を引き裂くような泣き声が耳に 飛び込んできたからだ。ざぱーんと突然波のように押し寄せたその悲鳴に近い泣き声の主がすぐにわかって、眉根をひそめて振り返ると 予想通りの人間が泣き崩れるようにその場に座り込んでしまっている。生真面目に、セーラー服をいつもよりもスカートを長めにして 着込んだ女は周りが不愉快になるくらいにわんわん泣いている。見かねた俺が近寄って、腕を引っ張って引きずるように立ち上がらせると 女、は涙でぐしゃぐしゃな顔して俺を見て何を思ったか即座に俺にしがみついてきた。痛いくらいの力で俺を抱き寄せる女に怒りよりも 戸惑いを覚えた。

「おい、テメェ。離れ」
「の、のりこさ、のりこさん…っ」

とは小さいときからの幼馴染で、家も近くてガキのときはよく遊んでいた。なんだかんだ腐れ縁で、幼稚園から今の高校まで全部同じ 学校に通っているくらいだ。のりこってのはお袋の名前だけど、俺も忘れかけていた名前を他人に言われるとなんだか不思議な感じだっ た。相変わらず俺が驚いているというかあきれているのに、はそれに気付かないのかそんなこと気にもしていないのかわからないが、と にかく俺のことなんか気にせずにしゃくりあげながら当分止まりそうにない涙をただただ流している。全身の水分が出尽くして しまうんじゃないかと疑うくらいの勢いだ。心から、悲しんで泣いているようで、なんだか不思議になった。不思議になることのほうがお かしいだろう。ここは通夜の場で、こういう態度が本来正しいはずなのに、なんだか特別なものに見えて仕方がなかった。どうしたらいい のかもわからず、ただしがみつかれたままぼんやりしていると、が何度ものりこさんと繰り返す。

「どうして、どうしてとつぜん、いきなり、しんすけをおいて」

生きているときだって、数え切れないくらい俺は置いてきぼりにされたけどな。今さら死んでしまったところで、これからの生活が変わる ということでもない。今までの生活が、親なんて生きていても死んでいても同じような暮らしだったんだ。今さら、何を言ってるんだよ。 不思議に思っていたはずなのに、の言葉を聞いているうちに不思議なことが頭をよぎるんだ。幼稚園に通っていたときか、その前か。 煙草を吸っていたお袋に絵本を持っていくと、楽しそうに笑って俺を手招きして自分の膝に誘うんだ。それがとても、好きだった、かな。 煙草のにおいはお袋のにおいだった。俺が煙草を吸い始めた理由は、そんなことだったのかもしれない。頭がずしんと重たくなって、その 力に対抗するつもりもなくだらりと頭を垂らしたら、俺にまだしがみついて泣いているの頭に俺の額がぶつかった。痛くもない程度だ ったはずなのに、なぜかその程度で涙がにじんで、涙の止め方を忘れてしまったんだ。

世辞にもきれいになんて言えるような泣き方ではなかったけど、それでも俺には輝いて見えたんだ。小汚い光が、見えていたんだよ。





あまりにあっさりしすぎているこの世界を、どうしたらいいものか。お袋と同じくらい簡単に逝ってしまったのは、世界で一番愛したいと 願った女だった。それでも泣くことができずにいるのは、俺に痛いくらいの力でしがみついてシャツを涙や鼻水でぐしょぐしょにするやつ がいないからだ。

世界でただ一人、愛そうと思った女はもう二度と俺にしがみついて泣くこともなく、簡単に死んでしまった。俺は泣けないまま、煙草を 手にする。








20071006//( 世界に問うた )