なんか音がしなかったか、と思って雑誌から顔をあげるとくぐもった音でピンポーンと聞こえるような気がする。だれだよこんな時間に。まだ朝の9時過ぎだぜ。無視するか。普段の俺ならこの時間家にはいないはずなんだから、とまた雑誌に目を戻すとそんな俺の心を読むみたいにピンポーン。勧誘もセールスもお断りだっつの。それならお隣の佐藤さんの家行けよ、あそこの奥さん人の頼み断れなくて有名なんだぜ。どうでもいいことを考えていると、またピンポーン。勧誘やセールスなんかじゃないことは、最初からわかっていた。扉の向こうで、誰がどんな顔をしてそこに立ち、寒いなか指をかじかませてインターホンを押しているかなんて。そんな姿を想像したら無視していることもできなくて、いまさら慌てて玄関へかけていく自分を笑ってみたりした。扉を開けると、予想通りの人間が予想通りの顔で突っ立っていた。鼻先を真っ赤にさせて、白い息を吐きながら上目遣いに俺をにらんでくる。怖くないっつの。

「遅い!チャイム聞いたらダッシュで玄関は鉄則でしょう!」
「あートイレに入ってたもんで」
「うそつけー!その手の雑誌はなんだ!」
「あートイレで読んでたもんで」
「お前はトイレで新聞を読むお父さんか!?」

こいつのでかい声はマンションの廊下にいやなくらい響いた。そのことに気付いていない本人はまだ高ぶっている気持ちを抑えられずにいるのか、ふーふーと威嚇するように白い息を吐いている。とりあえずこんな寒いとこに寝巻きでいるのも寒いしこいつの鼻先がこれ以上赤くなるのも見たくないし、の手を取って家の中へ招き入れると俺の手には冷たい温もりが迎えてくれた。冷てぇ手だな、手袋くらい持ってねーのか。今度、買ってやるかな。二股のやつで、ガキっぽい白くてふわふわなやつ。絶対うれしくて、似合うくせに照れて「こんな子供っぽいの選ぶなんてセンスないね!」とか言い出しそうだ。そこまで考えて、ひとりにやにや笑っちまってる自分を恥ずかしく思い急いで顔を整えた。俺がの手を引いて前を歩いていてよかった。あんな顔見られたら絶対に引かれそうだ。暖かい部屋に入るとさっきまで冷え切っていた手がじーんと震えた。だけどはというと、部屋に入る直前で足を突っぱねる猫みたいに仁王立ちをして、ぐっと俺の腕を引っ張った。

「私がどうしてここへきたか、わかってる?」
「おいおい、とっくに一限目始まってんぞ」
「一時間目が始まる前に学校飛び出してきたの。…あんたのこと、先生に聞いて」

あの銀髪野郎。あいつの口が軽いのは最初からわかっていたことだが、ここまで早いとは思わなかった。二、三日くらいは持つかと思えば一日だって持たねぇっつーのかよ。覚えとけ。俺は寒い廊下になんていたくなくて、まだ引っ張られたままだった腕をぐいと引っ張って、驚いているを引きずってストーブの前に座らせると怒ったように頬をふくらませている。俺はベッドに腰掛けてまた雑誌を読むのを再開させると勢いよく立ち上がって俺の雑誌を取り上げやがった。…めんどくせぇ、だからこいつにばれるの嫌だったんだけど。やっぱあの銀髪野郎は一遍しめなきゃなんねぇか?

「ケンカしたそうですね」
「おい、返せよー」
「しかもそれで停学喰らったそうですね」
「…ちっ」

べらべらと、銀八め…。まあ、言った場面は容易く想像できるけどな。どうせが、俺が学校を休んだ理由を銀八に問い詰めたんだろうが、それにしたっておかしい気がする。俺が学校をサボんのはめずらしいことでもないし、一日いないだけで心配なんてするもんだろうか。逆ならまだしも、俺の欠席をいまさら疑問に思うクラスメイトもいないだろうに。どうしてこいつは。俺の考えていることがわかったのか、は口ごもりながらもじもじと手をひらひらさせている。気まずそうな、気恥ずかしそうなその顔はどこか憂いを帯びていて色っぽかった。あの、と小さくつむがれた言葉に俺は首をかしげた。

「晋助が休みって聞いて、なんか胸騒ぎが、して」

停学ぐらいで胸騒ぎなんて、なんて大げさな心臓なんだろうな、こいつは。だけどそんだけでもなんだかくすぐったいような、心地いいような温かさを感じて笑いがこみ上げてくるのがわかった。だけどここで笑うのもおかしい気がして、何よりこいつを侮辱するようで俺はそれを必死で抑えて落ち着いた声でへえ、なんて答えたり。それでも口角はあがっちまったみたいで、がなんだか恥ずかしそうに顔をそらすのが見ていて楽しかった。と、笑っていられるのもここまでだ。なぜならさっき背けられた顔が、今度はものすごく怒った形相でこっちをガン見してくるからだ。こいつがこんな顔をしている理由はすぐにわかって、どうしたものかと心の中で小さくため息をついた。ケンカのことがばれないわけはないとわかっていたけど、それにしたって考える時間くらいほしかったわけで。俺の予定では早くて明日、が俺の家に押しかけてくるはずで、そうなるまで俺はなんとか策を練ろうとしていたわけなんだが、予定が色々狂いすぎだろう。

「ねえ、晋助は忘れちゃったのかな。約束、したよね」

切なそうに発せられた声に、思わず眩暈を覚えた。忘れるはずねぇだろうが、あんな大げさな約束。思い出すのも恥ずかしいくせに、忘れたらいけない事項のトップ3くらいに躍り出ちまうようなもんだ。あれは忘れもしない夏のこと。と付き合いだして間もないころで、お互いなんだか気恥ずかしくてしょっちゅう顔を赤くしあっていたり。それでも幸せで、のことをよけいに好きになっていて。だけどはしょっちゅう銀八のとこへ行っちまうし、銀八は銀八で俺に挑発的な態度取るしで嫉妬心やらプライドやらが煽られまくり、ある日ついに銀八を殴っちまった。それが原因で俺は自宅謹慎を喰らい、あとは退学が決定されるのを待つのみとなったとき、が俺の家へ今日みたく押しかけてきて、俺を殴ってこう言うんだ。「二度とケンカはするな。次したときは、別れてやるから」お前だって俺に暴力振るってんじゃねーかというツッコミはあえてしなかったが、俺は思わずぼろっと涙をこぼして、無表情のままでうなずいたのを覚えている。は銀八が大切で、その大切な男を殴った俺を怒っていたけど、がそんな約束を取り付けたのには別の理由がある。俺が退学になってしまうことが、怖かったそうだ。だって俺が退学になって一番悲しむのは銀八でもなくでもなく、誰でもない俺自身だから。結局、俺に殴られたことを大事にはしなかった銀八に助けられ、俺はこうしてまだ学校に通えているわけだが。…まったく、面倒なことになった。

「晋助、私のこと、どうでもよくなった…?」

びっくりしすぎて否定もフォローもできずに、驚いたような顔で俺は固まってしまった。不安そうなの顔はみるみるゆがんで、ぼろりぼろりと涙を流しだす。なんで、なんでそうなる!俺が約束を破って、何より浮かぶ可能性がそれか!俺ってそんなに信用ねぇのかよ。いや、約束破っておいて信用も何もねぇけどよ。だからって、俺がお前のことどうでもよくなったとか、そんなことを思われたのかと思うともう自殺してやろうかと思うくらいに切なくなった。バカか、そんなにありえねぇのに。お前のためならあんな約束ひとつ、あっさり守ってやれる。それくらい大切で、だからこそ今回犯した自分の罪に本当に後悔してる。でもしてない。だって俺は、あいつを殴ったことを後悔なんてできない。何にも言わない俺にあきれたのか、苦しそうに歯を食いしばって踵を返すを見て、あ!と思った。思ったときにははもう一歩目を踏み出そうとしていて、この家から駆け出て行ってしまうことがわかって、とにかく腕を伸ばしてをつかんだ。だけどその力はあまりに強すぎたらしく、反動では後ろへ倒れこんじまったんだから焦る。ガン!という音がした。きっと頭を打ったんだ。

「お、おい!だいじょ」
「何すんだバカ野郎!」

の足が俺の腹にクリーンヒット。ちくしょう、いい技持ってんじゃねぇか。かっこ悪い声を吐き出しながらその場にうずくまると、はっとしたが座り込んで俺の顔をのぞきこんできた。自分の蹴りがどれだけの威力を持っているのか自分でもわかっているらしい。それでも謝るのもおかしい気がして、わたわたと慌てて俺の顔をのぞきこむくらいのことしかできずに戸惑っているようだ。痛みを吐き出すかのように、息をゆっくりと吐くともそれに合わせるかのように肩を上下させた。涙はまだ止まらないらしく、たまに聞こえてくる嗚咽が可愛くて、かわいそうで、俺まで泣きたくなった。

「悪口、言われて」
「晋助の?」
「ちげーよ、俺は悪口言われたくらいじゃ殴ったりしねぇ」
「じゃあ誰の」
「お前のだよ」

びっくりしたように目を見開くと、目じりに溜まっていた涙がきらきら光ってみえた。

「かっとなって、思わず殴っちまった」
「あ、え、うそ」
「悪かったと思ってる。その証拠に、昨日のうちに反省文書いて停学も3日だけになったし」
「ちょ、待って、しん」
「だから、別れるなんて言うなよ」

自分の頭を抱えたら、涙が落ちてきそうだと思った。ばか、大の男が泣くか。そう思うのに、なぜだか俺の膝には小さな染みがいくつかできて、かっこ悪すぎだろうと思う。こんな情けないやつじゃ、があきれんのも無理ねぇかもな。ふと、小さくて温かい手が俺の手のひらをつかんだ。

「ばか、こういうときはちがうでしょう」

頭を抱えていた手が、の背中にまわされた。こんなとこまでかっこ悪い。こんな俺でも、お前を守れてんのかな。


ありがとう





おおさじスプーンいっぱい

20080221