男が誰なのかは、いまだに知らない。それにあまり興味もなかった。男に連れられたのは大きな屋形船のような戦艦。私には一室が与えられ、そこでは何一つ不自由はしなかった。男のことで知ったのは、名前だけ。高杉という名は男から聞いたものではなく、男と一緒に歩いているときに部下らしき男がそう呼んでいた。私はあまり部屋から出ない。出られないというわけでなく、あまり出歩こうという気にならなかった。繰り返される毎日に、私は初めて退屈を覚えた。私の日常で食事と風呂以外の行動は、ほぼ毎日部屋をのぞきにくる高杉との会話くらい。しかもその会話といっても極わずかなものだった。疑問に思う。高杉はなぜ私をここへ連れてきたのだろうか。

「抱かないの?」
「生憎、セックスには飽きてる」

変わった人。そんな人、この世にいるんだ。しかし私は数日後に真実を知る。私に言ったあの言葉は嘘で、高杉はやはり私の知る人間であったようだ。夜中に廊下を歩いているときに女の嬌声を聞き、襖の隙間からは情事に耽る高杉の姿が見えた。なぜあんな嘘を?相手の女を見て、色気がないからだろうかと思った。こんなやせ細っただけの体では欲情できないということだろうか。大きな鏡の前で服を脱ぎ、自分の体を眺めながらそう思った。別に、色事をしないのならばそれに越したことはない。ただ、無条件でこれだけの生活を与えられていると思うと少し疑問にも思うが。情事のあとに吐き気を催してしまうこんな体では、あの男もいやだろうと考えるとこれは正しい選択に思えた。理由はわからないが、ただで置いてくれるというのなら、甘えておくのが賢いだろう。胸に残るわだかまりの名前はわからないが。

ガラリ、どこか遠慮するように襖が開かれて、私は驚くでもなく振り返るとそこには眼を見開いた高杉の姿があった。

「まだ、起きていたのか」
「どうかしたの」

さっきあんなものを見たせいだろうか、高杉がどこか気だるそうにみえる。高杉は私の質問に答える気はないのか、口角を上げて部屋に入り、襖を閉めた。そういえば、私は裸だった。男ならば何か思って、抱くか?疑問に思いながらその行動をみつめていると、興味がないというように煙管に火を落として吸い出した。やはり、私の体には興味などないようだ。

「いい格好じゃねぇか」

なんだろう、こちらを見られているというだけなのに、鳥肌が立ちそうだ。ぽっと体が火照るような感覚。これは、照れというやつだろうか。男にはいくらでも見られてきただろうに、どうしていまさら。慌てるでもなくゆっくりと服を身にまとっていく間も、高杉は私から目をそらさなかった。何を思っているのだろう。私はこの男にとっての、なに?そんなことを考えること自体、間違っているんだろうか。服を着終えてその場に座り、高杉のほうには目も体も向けぬままに口を開いた。

「わたしを、どうするつもり?」
「若い女の使い道なんざ腐るほどある」
「そう」

あまりに簡単で当たり前な答えに、私はつい笑い出しそうになった。楽しくもないのに、笑い出しそうになった。ああ、やっぱり。絶望に似た色をするその感情の名前さえ、私はしらなかった。

しかし三ヶ月経った今でも私はこの生活を続けている。売られるわけでもなく、娼婦とされるわけでもなく、ただ生かされ生活をさせられている。私は疑問に思うほかなかった。三ヶ月前にあの言葉を言われたとき、いやその前から私はどんなことをされてもきっとまた恨めはしないだろうと思って生きている。だが、何も起きないのはなぜだ。もっと先に私の使い道があるのだろうか。明確な答えを求めても返事はないまま、また数ヶ月が経った。ここ数日、高杉が私の部屋へ訪れない。こんなことが前にもなかったわけではない。遠くの町へ祭りを見に行くと言っていたときも数日姿を見せなかった。しかし、それにしては日が経ちすぎている。高杉が私の部屋を訪れなくなった日数が両手の指では足らなくなった頃くらいから、私は夜が寝付けなくなった。だからといって昼に眠れるわけでもなく、奇妙な寝不足に悩まされていたある日、高杉はふらりと私の部屋を訪ねた。ひどく疲れたような姿と着物の間から見える白い包帯をみて、私は無意識のうちに男に駆け寄っていた。

「悪いな、土産は忘れたぜ」

頭に乗せられた冷たい手。私は自分の感情に戸惑いながら高杉を見上げていると、少し笑んで部屋の奥へ進んでいった。高杉が座るので、その隣へ腰掛けるとすぐに私の腿に寝転がられて、私は思わず飛びのきそうになった。目を伏せた顔がとてもきれいで、頬を覆う絆創膏が痛々しく見えた。恐る恐るそれに触れても高杉は何も言わず、ただじっと目を閉じていた。何か、事故にでもあったんだろうか。このとき初めてこの人のしていることに興味を持った。どんな仕事をしているんだろうか。この男の興味がわく。こんなことは、初めてだ。どうして、どうして。たくさんの疑問が生まれて頭がいっぱいになるのに、高杉がふと目を開いただけで頭は真っ白になってしまう。

、好きだ」

久しぶりに呼ばれる名前に、胸がどくりと跳ねた。この温かいものはなんだろう。ぽっと熱くなる心はなんだろう。誰かに好きだと言われることが、こんなにも温かくて心地よくて、どこかくすぐったいものだったなんて、知らなかった。布団の上での情事の間、どれだけその言葉を吐かれても気持ち悪いものでしかなかったのに。どうして、どうしてだろう。あなたに言われるのがこんなにも嬉しくて、恥ずかしくてたまらないなんて。高杉はまたすぐに目を閉じて私を困らせた。逃げてしまいたいような感覚に戸惑いながら、私は時が過ぎるのをゆっくりと感じていた。

「抱かないの?」

いつか聞いたときとはちがう。この言葉に込める意味が、ちがう。

「処女は抱かねぇ」
「わたし、処女じゃない」
「じゃあ今までの男の顔、覚えてるか?」

客の、顔?一人として浮かばないのは、私が人間として彼らを見てこなかったせいだろうか。そして私が人間として生きてこなかったせいだろうか。有象無象を相手にしていると考えねば自己を保てないと、人間を捨ててまで生にしがみついてきたんだろうか。私は何も答えることができず、ただ黙って男の顔を見つめていると男はまた目を開いて私の眼をみつめてくる。黒い瞳が強く私を捉えて離さない。

「それは、数にゃ入らねぇよ」
「で、でも」
「てめぇは処女だ」

理由はわからない。涙がこぼれた。わたしは、あんな生き方がいやだった。母のような生き方はしたくない、気持ち悪いって思っていた。でも結局は同じ生き方しかできず、あんなことを繰り返す自分がいやで、毎回情事のあとには嘔吐していた。自分は最低なものだと思い、人間として認めることを私自身が許さなかった。でも、そうしていないと生きることはできなかったんだ。ああでもしないと私はいっそ自分で自分を殺してしまいたくなるから。でも、私はどうしてそこまでして生きていたかったんだろう。いつか抜け出せると信じたかったからだろうか。高杉は私を責めない。むしろなかったことみたいに言ってくれる。それがとても心地よくて、こんなにも愛しい。あなたはこんな私でも認めてくれるのか。

高杉の頭を抱えて着物に顔をうずめた。

「処女でも、抱いてくれって言ったら」









有象無象の成れの果て // 091208