「切ってくれ」

私の部屋の襖を開けるなり口を開いた彼、高杉はいつもの冷えた目で私を見下ろした。私が返事をせずに立ち上がると、彼は今まで私の座っていた場所にどかりを座り込んで、頭に巻く包帯をほどきだす。彼に自殺願望があったわけではない。切ってくれ、というのは、散髪を意味する。しかしここで注意したいのが、私が理容の資格を持っているわけでも、誰かに教わった経験もないということだ。彼に初めて同じ言葉を告げられたとき、私が思わず返した言葉は「3日待って」ということだった。彼のしっとりと垂れた黒髪は、その顔によく映えた。その髪を、何の経験もない私なんぞがいじってしまうことに、少しどころかだいぶ躊躇してしまったのは仕方のないことだろう。断ればよかっただろうと言われればそれまでだが、彼には有無を言わさない空気を持っていたし、それに事情が事情なだけに、協力という名の庇護欲がふっと沸いてしまったのも、これまた仕方のないことだろうと思うのだ。

「毎度言うけれど、どうなっても知らないからね?」

彼は何も言わず、煙管に火を落とした。桐のたんすの引き出しから櫛と鋏を取り出すと、いつものように息を呑んだ。数度目になるこの行為は、なぜだかいつまで経っても慣れる気配がない。彼の髪に触れる瞬間、いつも私は戸惑ってしまうのだ。なんだか彼の神聖を侵すようで。3日の期間、私は色々なものを切って試した。かつらはもちろん、自分の髪でも試した。初めて使う、散髪用の鋏はどっしり重く、なんだか責任まで乗っているような錯覚を起こした。その成果はといえば、初めては失敗に終わった。しかし高杉は、特に気にしたふうでもなくふらりと出て行って、その数ヵ月後にまた私の部屋を訪ねた。切ってくれ、と。

彼が私に信頼を寄せているだとか、未知の力を感じただとか、そんなことではない。とても単純で、複雑な理由だ。高杉晋助は、人に触れられることをひどく嫌う人間だった。嫌うというよりも、むしろそれは怖れに近かったのかもしれない。何が原因なのかは知らない。いや、何か原因があったのかは知らない。彼は人に触れられると、理不尽な暴力でそれに応えた。何か意図があってしているというよりも、無意識的なその行為に、恐怖よりもむしろ、母が子を思うような愛に近い情がわいたのだ。そしてどんな縁か、彼は私に触れられることを厭わなかった。そのことに、私以上に驚いたのはもちろん高杉自身だ。私に触れられるとわかった当初、その事実を確認するように恐る恐る私に触れ、呆然とする、というだけを繰り返す日々が一週間ほど続いた。想像できるだろうか?世に恐れられている高杉晋助が驚き、目を丸くして人の顔を見上げる姿が。私も最初にそれを見たときは、何より先に笑みが浮かんだ。

「今回は少し短めにする?これからだんだん暑くなるし」
「いらねぇ」

正直、高杉のこの言葉には助かった。いつもとちがう形に挑戦するのはいささか怖いものがある。ではなぜ提案したかというと、ただでさえ暑さには弱い高杉の頭は、包帯を巻いているせいでよけい暑いように見えるのだ。というのと、短くした分、私の元へ散髪を頼みに来る間隔を伸ばしたかったのだが。しかし、いらぬ提案だったようだ。

高杉は、私に触れられることが平気とわかった今、それでもあまり触れられたくはないと思っているんじゃないか。元来人に触れられなれていないため、私に触れられるのが大丈夫だからといって、触れること自体に慣れたというわけではない。そう思うと、できるだけ私の役目は少ないほうがいいのではと思うのだ。私がする、怪我の手当てや看病や、散髪などは、高杉にとっては煩わしいことではないのだろうか。しかし、高杉はその様子を見せない。嫌なことは、たとえば誰かを殺してしまっても自分から遠ざけるような人だ。これは、私に触れられることに慣れたい、もしくは慣れたと思っていいんだろうか。

「お前を抱きてぇ」

実は、さっき例に挙げなかったが、もうひとつ、私の役目がある。高杉に抱かれることだ。はじめに言われたときは驚きと勢いで何も言う間もなく持っていかれてしまい、それ以降はなんだか拒む機会を失ってしまったように、それに応えている。いや、ではないんだと思う、私は。私は初めてで、相手もそうかなんていうことはわからなかったが、異様に長い愛撫はまるで、誰かに触れられるという事実を時間をかけて確認するようで、それはそれは私を辱めた。そして、それは未だに続いているのだから驚きである。その行為にどんな意味があるのか、未だにはかりかねている。だってそうだろう。彼は私に愛を囁くわけでも、永遠を誓うわけでも、むしろ遊びだと言い切ってしまうわけでもない。ただ触れるのだ。まるでそれが、はじめから決まっている当然の行為のように。そんな彼に対して、私は自分の立ち位置を、いまだわからないでいる。

散髪の途中だというのに、そんなことは関係ないというようにはじめられた情事は、私を熱に落とした。思考が、まだうまく定まらない。ぼんやり天井を眺めていると、私の前髪をすく手に気づいた。覗き込む顔。やっぱりその目からは何も読めない。ああ、前髪がだいぶ目にかかっている。どうせならちゃんと散髪が終わってからすればいいのに。邪魔そうな前髪に触れると、高杉はそっと目を伏せた。とりあえず、今日はもう何もしたくないな。

「続き、明日でもいい?」
「まだし足りねェのか」
「そっちじゃなくて」

いま私がここを飛び出して、どこか遠くへ行ったとする。もちろん高杉には黙って、だ。高杉はどうするだろう。私を探すだろうか。それともまた自分に触れられる存在を探すだろうか。いや、高杉はそんなことしないか。髪が伸び放題になるのも構わず、煙管に火を落とすのだろう、いつものように。そして邪魔になった髪を乱暴に、自分自身で切ってしまうんだ。ああ、もったいない。ざっくばらんになった頭でもきっとあなたはきれいなんだろうけど、やっぱりそれは許せない。そんな姿は見たくないから、やっぱりまだいてあげることにしよう。この不透明な関係を続けることに、嫌気が差すまで。私の胸を指す痛みには目を瞑るとしよう。

「髪、やっぱり散髪屋に頼んだほうがいいんじゃない?きっともっと機能的できれいにしてくれるよ」
「お前がいい」
「もうちょっと、他の人に慣れることを覚えてもいいんじゃないの?」

そうしたら、私はあなたから逃げられる。自分から、逃げられるのに。

「お前しか要らない」

まるで、愛の告白だ。









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