電話が鳴った。



うだるような暑さは日に日に増していくように感じるものの、自然の前には成すすべもないというのが人間だ。なんて、ちょっと頭のよさそうな言葉を並べてみたものの、理屈じゃない。夏だから暑いのは当たり前と言われればそこで終わりなんだけど、今年の暑さは異常じゃないかと毎年思ってしまう。地球温暖化がどうとか、そういう問題じゃない。適正温度をプラスでもマイナスでも超えれば、人間誰しも異常だと感じるものだ。そこらへん、人間の体っておかしい気がしてならない。クーラーなしにはやっていけないような当たり前に暑い夏。どうしてクーラーが壊れてしまうんだ。なんてベタな。いやいや。お母さんが言うには、私が一日中つけっぱなしにしていたのが原因らしい。そんな嫌味は言われなくとも感じておりますよお母様。だから反省して新しいクーラー買ってなんて無茶は言わず、ただ黙って扇風機にあたっているじゃないか。暑いーとか、死んじゃうーとか、言うくらいは許してほしい。暑いのがいけないんだ。結局は黙ることなんてできないんです。



電話が鳴った。



確か、さっきも鳴っていた気がする。長い間鳴っていて、切れた。お母さんが取るだろうと思って取らなかったんだけど、どうやらお母さんはいないらしく、さっきよりも長く電話は鳴り続けている。面倒だけど、動くしかあるまい。電話のコールというのは暑さでまいっている頭に響くととても不愉快になるものだ。かけ直されてまた不愉快なコール音を聞くのも面倒だ。さっきから面倒、面倒といっているけど、これもすべて夏のせいだと思う。私は夏があまり好きじゃない。夏は頭の奥の奥をぼんやりさせる。果たして頭の奥の奥というのが私にはどこだかわからないけれど、本当に頭の中にある器官やらのことを指しているわけではない。頭の中にありそうな、心の奥に似た部分が冬眠に入ってしまったみたいにぼんやりする。つまりはよくわからない。私はこれを五月病にちなんで夏病と呼んでいる。センスも何もあったもんじゃない。やけに重たく感じる受話器を持ち上げて耳に当てた。生温い感じが私をよけい不快にした。ああ、取るんじゃなかったかな。


「もしもし、です」



黒い服を着た人たちだけが、選ばれて吸い込まれていくかのように、ひとつの建物の中に入っていく。不思議な光景だ。夏休み中。出校日でもないのに制服に袖を通すというのは不思議な気分だった。今日はいつもよりも頭がぼんやりする。今日は一段と暑いせいだろうか。嫌味なくらい透き通った青い空を見上げてみたら、白く輝く太陽が視界の端に入って、足が消えてしまったみたいな感覚に襲われた。なんだろう、これ。自分の体がつま先からすうって消えていくみたいな感じ。変なの、暑いからか。


二日前の取った電話の相手は、担任の先生だった。先生が最初に「並盛中学二年A組担任の前田ですが」なんて言うから、私は何かやらかしただろうかと変な汗を背中にかいたけど、内容は私とはまったく関係のないことだった。まったく関係のないことといったら、少しちがうのかもしれない。関係のないことではないからこそ、私は今日、こんな暑い日に、火であぶった鉄板のようなアスファルトを踏みしめているんだから。内容は、こうだった。同じクラスの山本武くんのお母さんが突然亡くなられて、そのお葬式に出席しろ、と。できることならクラス全員で出向きたいのだが、そんな大勢では迷惑になってしまうかもしれないから、生徒を代表してクラスの学級委員が行くことになったと。残念なことに、前期の学級委員は私だった。人のお葬式を面倒と思うほど非道な人間でもない。山本くんの気持ちも考えると、ここはこれから支えてやろうと思わなければいけないところだ。一緒に頑張っていこうと慰めなくてはいけないところだ。嘘。面倒と思っています。大嫌いな夏に太陽の下を歩くなんて、できればしたくなかった。これがまだ、親しい友達の葬式であれば、自分の中で義務化して進んでここまでくることができたかもしれない。だけど私と山本の関係は、何もない。話した記憶でさえ、ないんだから。


参列している人たちに続いて後ろに並んだ。一番前にくるとみんな、同じようなことをしている。お辞儀をして、お焼香をあげて、またお辞儀して。はじめてみた。お葬式に参列するのは生まれてはじめてだった。昨日のうちに母からどんなことをするのか説明されて、お焼香の上げ方も習った。わからなくても前の人に続けばいいと言われていた。お辞儀をして、お焼香をあげて、またお辞儀。これを繰り返すことにどんな意味があるのかは知らない。この行いを繰り返す人たちのうちどれだけが、本当に死んだ山本のお母さんのことを考えて、哀れんで、惜しんで、手を合わせたりお辞儀をしたりしているんだろう。頭がぼんやりする。今日は特に。もうすぐ私の番だというのに、私の足はふらついているようだ。視界にもやがかかっているみたいにぼんやりして、はっきりしない。あれだけ長く、私の前に続いていた人の列は、もうなくなって、今ではもう私が一番前にきた。まず、お辞儀をしなくちゃ。視線を横に流したら、山本武の姿が見えた。横顔もしっかりしていて、泣いた様子なんてまったくない。どこを見ているんだろう。ぼんやり、思って、視線を追ってみた。お母さんの写真だろうか。よく、見えない。









どんなやつかと聞かれれば、どんなやつなんだろうかと頭の中で記憶を探る。人よりも少し多いと思われる、記憶の中に出てくる人々。その中であいつのことを思い出そうとしても、できるはずもない。俺とあいつは話したことさえない。葬式にきている人たちを横目で一瞥してからもう一度お袋の写真を見上げた。参列の中に、中学の制服が見えた。確か昨日の電話では、担任が学級委員と一緒に葬式に出るといっていたっけ。学級委員。佐藤と、。佐藤は話したことある。は?わからない、思い出せない。ああ、まあいいか。


言葉にできないような音がして、小さな悲鳴みたいのも聞こえて、ぼんやりと顔を上げてみれば、が倒れていて、一瞬俺はここがどこで何をしているのかさっぱりわからなくなった。ああ、が倒れたのか。だったら側にかけよって声をかけなきゃ。義務的にそう思って近付いた。おい。大丈夫か。どうした。いたるところで声がする。体勢を仰向けにして、頬を叩いてやっても反応がない。この症状はしっている。部活で同じように倒れたやつは何人もいる。「暑さにやられたんだと思います」そう言ったら、とりあえず場所を移そうということになって、俺がを抱えて葬式の会場を出て行った。顔を見てみたら死んだ人みたいに青白い顔をしていて、前髪がさらさらと揺れていた。どことなく、お袋に似てるかもな。そんなことを思った自分を心の中で笑ってまた前を向いた。


が目を覚ましたのは夕方頃だ。葬式も終わって、場所がないからとりあえず俺の家に運ばれた。俺の部屋に布団を敷いて寝かせて、窓を全開にして、の額に濡らしたタオルを乗せた。抱く女以外を自分の布団に寝かすのは初めてかもしれない。頭の片隅で小さく思った。目を開けたは、またいつ閉じてもおかしくないくらい少ししかまぶたとまぶたの間をつくっていなくて、黒い瞳が肌色に隠されていた。大丈夫か?義務的な声をかける。貼り付けたような笑顔を浮かべている自分を今鏡で見たらきっとすごく気持ち悪いだろうなとぼんやり思いながら布団のそばによっていった。少しだけまくれあがったスカートから伸びる白い足が扇情的だった。こんなときまでこんなことを考えるなんて、俺もやっぱり男だということか。


「やまもと」


まだ意識がはっきりしていないのか、口調があまりはっきりとしていない。ゆっくりと起き上がると額に乗っていたタオルが自分の腹の上に落ちて、でもそれに気付かないようにそのまま背中を丸めた。濡れていたタオルの水分がのシャツに染みていく。こちらとしては好都合というかなんというか。だからといってここで襲ってしまうようなけだものでもないし、だからといって紳士でもない。ああでも、紳士を気取るくらいはいいか。心の中でそう笑って、の腹の上に乗っかるタオルをちょいとつまんで横へおいた。これが紳士的な行動かはわからないけど、そのままにしてシャツが濡れていくのを見るよりはよっぽどいい。


「見たことがないからはっきりしたことは言えないけど、山本のお母さんに会ったよ」


山本に似ていた。美人なお母さんだね。何を言い出したかと思えば、夢の中で俺のお袋に会ってきたという。知らなかった、は脳に障害でもあったんだろうか。俺が驚いて、というかあきれて目を見開いたまま固まってをみつめていたら、は控えめに笑って、信じてないでしょう、と言う。その微笑は自虐的なものなんだろうか。信じられるはずもない。俺は幽霊やらユーフォーやらを信じているわけもなく信じてないでしょうと言われたらうなずくしかない。そのときの俺も自分に素直にうなずいたのだが、俺から視線を外してどこか遠くを見るような目は、別に信じてもらわなくても構わないというように感じて、少し悔しい気持ちになった。どうして悔しいんだろうか?


「武は、頑張ってしまう子だから、心配だって。肩の力を抜いてほしいって」


武、そう呼ばれた。その響きが、お袋にとても似ていて、一瞬錯覚した。俺の布団で寝ているのはお袋なんじゃないかと。声も顔も何も似ていないのに、そう感じた。似ていない。嘘だ。そんなはずはない。の戯言を信じるなんて俺は馬鹿だろうか。色んなことを思って、思って、思えなくなる。馬鹿でもいいだろう。信じてみたくなるだろう。お袋みたいなことを言う、お前。泣きたくなった。小さなガキみたいに、うわあああんって、泣き叫んでしまいたくなった。お袋、お袋。俺が泣かないのは決して、決して悲しくなかったからじゃないんだ。これから俺が頑張っていかなきゃならないから、親父を支えていかなきゃだからって思って涙を堪えたわけでもないんだ。ただ、わからなかった。泣けなかった。泣き方を知らなかったんだよ。忘れてしまった。親父の涙、はじめてみたよ。でも、俺は泣けなかった。お袋、最後に聞いた言葉はなんだったかな。



「武、ただいまくらい、言いなさい、って」



気付けば俺はを思い切り抱きしめて、泣き叫んでいた。






逃げ



20070401