ゆらゆら揺れる船の上



水面に浮かぶ月ひとつ



静かな静かな夜だった。街灯は揺らめく夜を明るめ、雲はゆらりと月や星を隠しては見せ隠しては見せを繰り返していた。月や星が空の藍に妙に際立つ不思議な夜。世界中の誰もが、この瞬間は息を潜めているではないかと思った。いや、それにしては緩やかな風が吹く。こんな静かな夜に眠るのはひどく勿体無い気がしてならない。静かに流れゆく雲を見上げ、黒い厚紙に茶色い絵の具をこぼしたような色をしているコーヒーを見下ろし、カップに口つけた。ソーサーにカップを置き、砂糖もミルクも入れていないコーヒーが揺れるのを見送ってから僕は手元に視線を戻した。ぱらり、空気を切るような乾いた音が静寂をさえぎるように響く。エコーするまでもなく消えていったその音は耳障りよく、しかし僕の心はもうその場にない。手に持つ本の中へ頭や心は持っていかれてしまっている。さっきの乾いた音は、別世界への扉を開く音だったんだろうかと頭の隅でそう思った。別世界、だって。僕らしくもない。そんな言葉を使うのは、きっと人生で数えるほどしかないだろう。片手の指で足りてしまうほどの数だろう。いいかげん本に集中しようかと、目を細めて活字を追った。今日はあまり、眠りたくない。


静寂をさえぎる音だった。しかし聞きなれたベル音。いつまでも鳴り響くそれに顔をしかめ、小さくため息をついて本を閉じた。ああ、しまった。栞を挟むのを忘れてしまった。もう一度本を開いてどこまで読んだかを探るよりも先にしなくてはならないことが起こった。舌打ちをして受話器をあげると不機嫌を隠す気もなく低い声音でなに、と小さく問いかけた。僕に電話をよこすくらいだ。あまりよくないことが起きたんだろう。まったく、無粋なやつがいたものだ。こんなに静かな夜に。いや、静かな夜だからこそ、こんなようなことは予想していた。静かすぎる夜というのは、心地良いを一周して心地悪くなるものだ。静寂を蹴破る足音は聞こえていたのかもしれない。今日は満月だ。狼男でも暴れだしたか。そんなものがこの世界にいようはずもない。ただいるのは、狼男よりもたちの悪い、人間という生物だけだ。厄介なやつらがまた厄介事を起こしたか。何にしても面倒だ。早く済ませて帰ってきて、それからまた本を読む時間があるだろうか。 いや、愚問だ。


人間はもしや誰もが狼男なのかもしれない。童話のように、満月を見ると姿形がかわるわけではないが、内面的なものが騒ぎ出す。疼きだす。それのきっかけが満月だ。月にほえる狼のように、人間は月を見上げて微笑むのだろう。暴れだすきっかけを求めて。目の前の人間を見下ろした。ひどく冷たい壁で覆われたこの部屋と呼ぶには悲しい空間は、人間の内面的なものをくすぐる。言うなれば月とは対照的な意味でだ。冷たい壁はこの空間の温度も著しく下げ、ジャケットを着てきた自分を自分でほめてみた。ここは簡単に言うならば拷問部屋だ。別に拷問のために器具がおかれているわけではない。簡素な空間。何もない。あるのは硬いコンクリートの寝台と冷たい空気だけ、小さな小さな窓は壁の天井付近にひとつつけられているだけで、それには鉄格子もはめてあった。その空間は人の精神を壊す。一週間も閉じ込められれば精神崩壊を起こすだろう。ただの刑務所ならいい。この空間があるのは、あのボンゴレのアジトの中だ。その事実が罪人を追い詰めていく。精神がもろい人間の特徴だ。しかし、目の前の人間はちがった。女は、僕には薄く微笑んでいるように思えた。


「なぜ殺した」


僕のほうを見上げると、背中を丸めて頭を下げた。ゆっくりとした動作はまるで僕を馬鹿にしているかのようで、少し腹が立った。質問に答えろ。苛立ちを隠すでもなくそういうと、頭を上げてまた僕を見上げる。奇妙な女だ、気持ちが悪い。電話の内容はこうだ。僕の直属の部下である者が殺された。犯人はもう捕らえてあるから、そいつが何者か、殺した動機などを調べろ、と。どこかのファミリーである可能性があった。殺されたその部下というのはもう名前も思い出せないが、確か有力な戦力だったと思う。ボンゴレに喧嘩を売ったんだ、この女の未来はもう決定している。 僕が殺すんだ。


「何よりも先に、謝ろうと思いまして」
「悔いる気持ちがあるのかい?」
「いいえ、悔いてはございません」


まったくおかしな女だと思った。悔いてはいない、後悔はしていないというのに何を謝る必要がある。命乞いがしたいのなら悔いていると嘘でも言うものだろうに。この女はおかしい。満月がそうさせているのか。この部屋に窓などいらない。見張られているように、月が窓からのぞいていた。薄暗いこの部屋は、この女よりもむしろ、僕を責めているようだった。


「もう一度だけ聞く。なぜ殺した」
「苦しんでおられたからです」
「何に」
「人としての性にです」


ぼんやりと、殺された男について思い出してみた。僕の直属の部下だった男だ。関わりがなかったといえば嘘だ。確かあの男は、いつでも笑っている男だった。いや、任務をしているときはどうだかしらないけど、普段は明るくて周りから慕われていた存在だった。僕の嫌いな部類だ。なぜ任務のときの彼が思い出せないかと言えば、僕がいつも任務のときは周りなんか見えていないからだ。ただひたすらに、遊ぶみたいに任務をこなす僕。そういえばあいつは、僕とは正反対だと、いつかボスである綱吉に言われた気がする。


「あの方は、殺しなど望んではおりませんでした」
「なぜわかる」
「泣いて縋ったのです。私に」
「なんと」
「殺す日々、殺される夢を見る日々。疲れたのだと」


マフィアというのは危険が隣り合わせの職業だ。殺す日々は当たり前。殺される危険にさらされているのは当たり前。そういうものだろう。男がそれを望んでこのボンゴレに入ったのではないのか。


「殺されるのが恐いから殺す。あの方はそれを繰り返していただけなのです」
「嫌だったのなら、マフィアなんてやめればよかっただろう」
「マフィアというのはたくさんの秘密を抱えるものだと聞きました。一度入ればやめるなんてことはできず、やめるというのは死を意味する、と。震えておられました」
「ずいぶんと、詳しいじゃないか」


女の言う通りだ。確かにその考え方はあたっている。僕はマフィアを辞めたいなんて思ったことはないから考えたことがなかったけれど、マフィアはやめたいからってやめられる職業でもない。逃げれば反逆とみなされるし、やめたいといえばほかのファミリーに寝返るのかと疑われる世界だ。やめることはイコールとして、死を意味する。女は真っ直ぐに僕を見て、それからここへきてはじめて悲しい顔を見せた。薄く開いた唇からこぼれる吐息。


「あの方は私の兄でした」
「君は実の兄を殺したのか」
「義兄にございます。姉の夫です。しかし姉は二年前に他界しまして、義兄弟でありましたが二人で暮らしておりました。しかし、最近のあの方はまともに食事もせずに、思いつめているように思えました。日に日にやつれていくあの方を見ているのは耐えられなかったのです」
「だから殺したの」
「自殺しようとしておりました」
「ワオ」
「最初、あの方を見つけたときはとても驚きました。ベッドの上は血まみれであの方は手にナイフを持ってさめざめと泣いていたのですから。すぐに駆け寄り医者を呼ぼうとすると止められて、泣きながら私にこう言ったのです。殺してくれ。殺してくれ。腹を切っても苦しいばかりですぐに死ぬことができない。私はもうこの世界に未練などない。やめさせてくれ。やめさせてくれ。あの仕事を。つらい日々から逃げ出す私を許してくれ。解放してくれ、と。大変苦しんでおられました」
「それで君が?」
「首にあの方が手にしていたナイフを突きつけました」


光景を思い浮かべてみると、ひどく滑稽だった。自分の腹を切って泣く男。それを見て同情し、首を切ってやる女。兄に頼まれたからといって殺す女もほかにいないだろうに。まったくおかしな話だ。話を聞いていてもこの女は別に兄を恨んでいたわけでも、殺したことを喜んでいるわけでもなさそうだ。ただ本当にかわいそうと思い、殺したんだと。だから悔いはないと言ったのか。人間そんなにも簡単に人を殺せるものだろうか。自殺現場を目撃して、殺してくれと縋られたからといって、殺すものだろうか。それでも生きてほしいと思うのが親しいものの性なんじゃないのか。こいつの基準はほかとは少しずれて見える。普通の基準とかけ離れた僕が思うんだからよっぽどものだろう。


「君が嬉しそうにみえる」
「嬉しいのかもしれません」
「兄を殺して?」
「いいえ」
「ではなぜ」
「私はあの方を殺したこの世界を憎んでおります。この世界に一秒でも留まってはいたくないのです。しかし私はあの方のように自殺をする気にはなれません。誰かに殺してほしかったのです。あなたが、あなた様が私を殺してくださるのでしょう」
「なぜ、そんなに簡単にこの世界を見放せるんだ」


「あの方を、愛していたからです」







高瀬舟



20070402