しとしとしとしと。似合わない効果音。この雨が落ちていく音をどう表現したらぴったりだろうか。雨が落ちて、地面を叩く音のひとつひ とつはとても短い、パタンって音なのに、それが重なって連なっていくうちにどんどん長い音に聞こえる。ザーザーザー。空は真っ暗、な んていうほど真っ黒になっているわけでも、夜みたいに濃い紺色の空をしているわけでもない。どちらかといえば、真っ白な絵の具を 溶かした水に、青い絵の具をたらしたみたいな、青みがかった白い雲に覆われた雲は、細かい白い糸をたらしている。その白い糸は一瞬 のうちに地面に落ちて見えなくなってしまう。地面は黒に近い茶に色を変えて、まるで眠っているようだ。雨に叩かれた草木も眠ってい るみたいに、されるがままに葉を下にさげていた。雨を降っているこの場所すべてが、眠っているかのように感じた。起きているのは私 だけなのかもしれない。


窓は閉めきってあるはずなのに、外に流れるザーザーという雨音のメロディーは微かに教室に響き渡る。雨のせいで下がった気温は、この 教室内の温度まで下げて、頬にふれる空気がひんやりした。湿気をたっぷり含んだ空気は、なんだか水の中にもぐっているかのような錯覚 に陥れる。私はどちらかというと水泳やらプールやらは苦手なはずなのに、水の中でぼんやりと泳いでいるような感覚だった。
帰れないわけじゃない。傘はないけど、別に濡れてもいいかというくらいの気持ちでいる。今朝に見た天気予報で降水確率80パーセントと いう数字を聞いても傘をもってこなかったのは、荷物になるなと思ったから。私は両手がふさがるのがあんまり好きじゃない。水泳とかは あんまり得意じゃないけど、水にふれているときの、あの体が溶けて水に混じってしまうようなあの感覚が、どちらかといえば好きだっ た。服がびしょびしょになってまとわりつくのは嫌だけど、濡れるくらいは苦にならない。じゃあどうして帰らないのかといえば、私にも よくわからない。でも、この広い教室に一人雨をながめているのはとても心地よく感じた。さっきから廊下を歩く足音さえ聞こえない。 学校から、誰もいなくなってしまったみたいだ。どこもかしこも静かで、本当に水の中にいるみたいだ。ぼーってすっごく低い耳鳴りみた いなものが響く。


「あれ、


やけに静かなこの教室に響く、声。聞きなれているはずの声。だけど深い記憶をたどってみれば、似ても似つかないくらい低くなったその 響き。足音も、聞こえなかった。さっきの耳鳴りはもう聞こえない。私は今眠っていたんだろうか。それとも頭だけがどこか別の世界に いってしまっていたんだろうか。何も聞こえなくて、耳鳴りだけが響いていたのに、今の言葉で急に現実に戻されたみたいに、ぱりっと スイッチがオンになるみたいな感じになった。変なの、変なの。でもひとつだけわかった。ああ、ここは海の中じゃなかったのか。 当たり前のことを当たり前だと思うのが、なんだかおかしい気がする。
沢田、沢田綱吉。が、こっちを見ている。中学のときに比べて背がとても伸びた。獄寺とか山本とかには全然敵わないけど、普通の、平均 的な身長の女子たちを悠々と見下ろせるほどの高さ。顔立ちだってすっきりして、手足も大きくなって、全然面影ない。中学のときの。 私と沢田は小学校から同じ学校に通っていて、獄寺よりも山本よりも古い関係なんだ。でも、及ばない。あいつらには敵わない。私がいく ら沢田のことをわかっていると言い張ろうと、事実やつらには敵わない。だって、私は沢田のことを何一つ知らない。


「なんか、久しぶり。なにしてんの?帰らないの?傘ないの?」
「一気に質問しすぎ。逃げやしないから」
「そっか、ここのクラスだったっけ」


人のクラスを物珍しげにきょろきょろしながら私の前の席の椅子を引いて、後ろ向きに腰掛ける。何も知らない沢田。私は知ってるよ? いろんなこと。沢田が見てこなかったものを、私は全部見てきた。同時に、私はあなたが見てきたものを何一つ、知らない。小学校、 中学校、高校。ずっと一緒っていうのは本当に偶然で、公立の小学校から私立の中学に入ったとき、沢田が一緒でとても驚いた。高校 だってそう。中学三年生のときに同じクラスでなかったせいか、沢田がどこの高校を目指しているかなんて知らなかった。だからこそ、 驚いて、そして、嬉しかった。でも、沢田はちがう。同じ学校に私がいようといまいとなんら変わらない。あなたの人生の中で私の存在は きっとどうでもいい存在。将来、大人になったら忘れてしまうような存在。卒業アルバムをみて、ああこんなやついたなと思い出すくらい の、存在。


「背、伸びたね」
「高校生だしね。もうよりだいぶ高い」
「ダメツナのくせに」
「うわ、そのあだ名なつかしい」


今はもう、誰一人沢田をダメツナなんて呼ばない。ドジだってめったにやらかさないし、先生に怒られているところだってあんまり見な い。成績もそこそこみたいだし、昔のダメツナの面影なんて、もうどこにもない。ああ、私はどれだけ沢田をみてきたんだろうか。こんな ふうに比較してしまえるほど、沢田のことを見続けていたのか。沢田の好きなものも、嫌いなものも、何も知らないくせに、でも知って る。あなたのことを見てきた。沢田はもう、覚えていないかもしれないけど、私たちは小学校からの付き合いだったんだよ。小学校から 私は沢田のことをずっと見てきて、そして、好きだったみたいだ。あなたと私は、すごく長い付き合いのくせに、すごく仲が良かった というわけでも、すごくよく話したというわけでもない。それでもあなたしか見てこれなかったのはなぜだろう。いつまでもこの関係が 続くはずもなくて、続けたいとも思わなくて、どうすればいいのかわからない。ただ優しいあなたを想って私は死んでいくんだろうか。 水の中におぼれて沈んでいくみたいに、私はあなたにはまっていく。陥れるあなたの笑顔が、とても憎い。


「彼女、できたんだってね」
「な、なんで知ってんの!?」
「一緒に帰ってるとこみたから」
「う、うん、そっか」
「可愛い子だった」
「うん、俺なんかと付き合ってくれる、いい子、だよ。俺は幸せ者、です」


王子さま、あなたが幸せというのなら、私はそれを壊そうとは思いません。喜んで、泡になりましょう。振り向いてもらえることなど 私は望んでおりません。私はただ、あなたをずっと見つめていられれば幸せなのです。あなたの幸せそうな顔をみているだけで、それだけ で私も幸せになれるのです。
人魚姫はとんだうそつきだ。だって、強がってばかり。自分以外の女の子の隣で笑うあなたの姿なんて 見たくない。そんなものを見るくらいなら、殺してしまいたいくらいよ。殺すくらいなら、自分が消えてしまえと思ったんだろうか。 結ばれないことに苛立ち、この世界を呪って死んだのかもしれない。少なくとも私は、そうだ。何もしなかった自分を悔やむんじゃなく、 世界を、そして神をうらんでいる。とても醜い私を、どうかみないで。


しとしとしとしと。この雨が汚い私を溶かしてくれればいいのに。泡になるように。







溺れた人魚姫



20070421