目を開けると、そこはやっぱりいつもと変わらぬ天井が広がっていて、それに私は安堵だか失望だかして体を起こす。私の体重を責める みたいにぎしぎしベッドのスプリングが軋む。朝だった。眠ったときが夜だったのか、昼だったのか、それとも朝だったのか、よく覚えて いない。どのくらい眠っていたんだろうか。ここは時間を感じさせない。眠っても眠っても、眠たくて、一日のうちで寝ている時間のほう が多いんじゃないかというくらい寝ている気がする。事実、眠っているんだ、そのくらい私は。眠って、起きて、眠って、起きて。起きる たびに私はどれだけ眠っていたのかを考える。考えてもはっきりした答えなんかでないくせに、考える。この部屋に時計はない。ずっと カーテンの引かれた窓から漏れる光をたよりに、私は朝なのか昼なのか夜なのか、大まかな時間を考える。そんな日々にももう慣れた。 今ではもう、今日が何月の何日なのか、まったくわからないようになってしまった。知るすべを知らない。知ろうとする気もない。ここに は私一人だけだ。

ここには私一人だけだと思っていたのに、いつの間にか一人ではなくなっていた。私が日の昇っているうちに起きると、そこにはなぜか 一人の男の人がいた。それを最初は不思議に思い、起きるたびに不思議に思い、しかしそれもそのうちになくなってしまった。男の人は 何をしているわけでもない。ただ窓際に座って、窓の外をながめているだけだった。目を合わせたこともない。言葉を交わしたこともない。 だけど、その人がそこにいるという事実は、私の心に何かを植えつけた。そのせいかはわからない。私が目を覚ます時間帯が、朝だったり 昼だったりする割合が増えたのは、あの人のせいだろうか。

「どうしてここにいるんですか」
「ここの空気は清浄だから」

はじめて声をかけた。ずっと不思議に思っていることを、はじめて聞いてみた。返事はかえってこないような気がしていたのに、意外にも 早くかえってきた返事に、少しだけ戸惑いを感じた。清浄という言葉に、なぜだか私はうれしくなった。私の存在でさえも、清浄と感じて くれているのかと考えるだけで、私の心はゆっくりと浮かんでいった。目を覚ますのが、私のひとつの楽しみになっていた。

「私とあなたはどういう関係なんでしょうか」
「名前も知らない相手に関係性を抱くというのは、不思議な話だと思うけれど」

確かにそうだと思った。私は男の人の名前を知らない。そして男の人は私の名前を知らないだろう。なぜなら名乗ったことはない。もし私 が同じことを聞かれたとしても、わからないと答えるしかない。だけどその事実が、ひどく寂しく思えた。どうして寂しいのなんかわから ない。けれど心のどこかで感じた違和感を、私は拭い落とせないまま、眠りに落ちた。それから、私の目覚める感覚はどんどん長くなって いったように思える。次に目を覚ましたとき、めずらしく月が白くぼんやり輝いていた。もちろん男の人はいなくて、私の心はどこか遠く へ飛んでいってしまったかのような、ぽっかりした気持ちを抱えたままもう一度目を閉じた。いるはずがない。あの人と私には何の関係も ないんだから。ただ、あの人は気まぐれに私の部屋をおとずれるだけ。夜までなんて待ってくれるはずがない。私の目が覚めるのを、わざ わざ待ってくれるはず、ない。ふと、普段は目に入らないサイドテーブルに目がいって、薄茶色のそれの上に乗った白い紙切れが目に入っ た。「眠っているようだから、起こさず帰る。」簡素な文章だった。でも、それだけで、たったその一言で、私の目からは温かい水がこぼ れおちた。喜びなのか悲しみなのかわからない。ただ、心が温かくなって、温かくなりすぎて、その熱が涙になってこぼれてきたみたいだ と思って、私は、はじめての感覚に戸惑いと喜びを感じた。これが、やさしさというものか。

次に目を覚ましたとき、いつにない気だるさを感じて私は胸を押さえた。吐き気がする。また、夜だった。その事実にがっかりしつつ、 私はサイドテーブルに目をやった。この前の白いメモは引き出しにしまってある。それとは別の紙が3枚重なっていて、それに手を伸ばした ときだった。意識が、揺らいだ。目の前が真っ暗だか真っ白だかになって、あれ?と思ったのまでは覚えている。そのあとのことが、いま いち思い出せないんだ。

目を開けた。はじめてだ、起こされたのは。自分で目を覚ましたんじゃない。名前を呼ばれて、何度も呼ばれて、それに反応して私は目を 覚ましたんだ。名前を呼ばれるのも、久しぶりだ。だけど呼ばれるその名前に違和感を覚えるのは、聞き覚えのない声音だからだろうか。 低い、特徴的な男の人の声。その声に呼ばれると、自分の名前がとても愛おしく感じた。なんて、素敵な目覚めだろう。


「あなたの、名前をおしえてください」
「雲雀、雲雀恭弥」
「ひばり、さん」

どうして名前を知っているのか、とか、気にならなかった。名前を知ることができた。それに喜びを感じている間もなく、私はまた、意識 を落とす。眠りたくなんかないのに。眠ってしまうことが怖いのに。いつか、いつか私は眠ったまま、起きなくなるんじゃないかと不安に なる。前までは不安になることなんてなかったのに、あの人に出会って、ひばりさんに出会って、不安を知った。起きられなくなる不安、 恐怖を教えてくれた。それだけでも感謝して、感謝しきれないほど感謝しているくせに、欲がでてしまう。起きたい。あなたのことを もっと知りたい。名前を知れた。名前以外のことも教えてください。もっと、名前を呼ばせてください。わたし、私は、あなたに感謝して います。あなたを愛おしいと思うことができたのに。

「私が、お姫様だったら、王子様のキスで、目覚めることができたのに」
「残念だけど、僕は王子でもないし、君は姫でもない」
「眠ることが恐いと感じたのは、はじめてでした」

「さようなら、ひばりさん、ひばりさん」

惜しむように、慈しむように、何度でも名前を呼んだ。




彩喜


20070520(おやすみと告げて、あなたは私に口付けをする)