泣きたかった。まだ、痛いことはされていないっていうのに、泣きたかった。痛いことはこれからもう少しあとにあるはずで、今はまった く痛くない、むしろ善がるべきところのはずなのに、なぜだか私は、泣きたくてしょうがなかった。


私には大好きな恋人がいる。山本武という人で、私たちは本当に好きあって付き合っている。今日は、学校の帰りに武の家に遊びにきてい て、武の家に来るのは別にはじめてでもなんでもないからまったく警戒も緊張もしていなかった。いつもと同じように玄関をくぐって お邪魔しますと小さく言うと、武は「今日うち親いねえんだ」と言うものだから、私ははじめて背中に嫌な汗をかいた。少しだけ照れたよ うな、くすぐったいような、恥ずかしいような、じれったいような、うかがうように目をそらして言う武が、こわくなった。武の部屋に 入って、いつもと同じように少しだけ話をして、どちらからともなくキスをした。いつもよりも余裕のないキスに、私はよけいにこわく なった。あせっているのか、あせってしまいそうになるのを抑えているのか、武のようすはやっぱりおかしくて、その時点でたぶんもう 泣きたくなっていたんだと思う。それでも拒絶することなんかできなくて、私は、ただされるがままに、なる。


泣いてしまえばよかったのかもしれない。きっと私が泣けば、武は心配するようにやめる?だとか、痛い?だとか、言葉をかけてくれる はずだ。でも私はきっと、そんな言葉をかけてもらったら首を横に振るだろう。縦に振ることなんてできない。武はそれを望んではいない から。震えるような恐怖じゃない。すがって泣きたくなるような静かな恐怖を押し鎮めて、私は唇を噛んだ。どうしてこわいのか、わから ない。まだ痛いことなんてされていなくて、むしろ苦しそうなのは武で、あせってしまいそうな自分を必死で抑えて苦しんでいるのは武 で、私は何もこわがることはないはずなのに、なんでだろう。この先に待つ痛みへの恐怖ともまたちがう、静かな恐怖。なに?なんだろ う。こわいよ。助けて、助けて助けて。たけし。


ぐ、ぐ、と私の中に押し進められるものを感じながら、さっきよりも強いのか弱いのかわからない恐怖を抱きながら、今度こそ涙を流し た。痛みへの涙半分、恐怖への涙半分だった。何をやっているんだろう。私は望んでもいないのに。武は何にも悪くない。だって、武は 何度も私に確認してくれた。大丈夫?痛くない?こわくない?いい?すべてに私はうなずいた。苦しそうな、心配そうな、だけどぎらぎら した目の武をみていたら、拒絶も否定もできなくて、私はそっと涙を押し隠した。私が悪いのはわかってる。それでも、それでもまだ、 こわい。もう、武がこわい。


終わって、ほっと息をついた。私を抱きこんで眠ってしまった武からそっと抜け出し、私はひとりすすり泣いた。どうか、どうか武が起き ませんように。どうか武に気付かれませんように。そんなふうに、祈りながら。そんな私に神様だけは優しく、武を起こすことも、 気付かせることもなくて、武は満足そうに、幸せそうに私に微笑んだ。私は、胸が苦しくてしょうがなかった。大好きでしょうがない彼の 存在が、こわくて、こわくて、しょうがなくて。そんなふうに思ってしまう自分がむしろ憎くて、武に愛してもらう資格なんてないように 思えて、いつしか私は武にどう、別れを告げようかと考えるようになっていた。


もう痛みなんて感じなくなったはずの情事でも、私は、まだ泣きたい気持ちを抱えたままだった。気持ち良いはずのその行為に、恐怖しか 得られないのはなんて悲しいことだろう。物理的というか、ぼんやりと気持ちいいとは感じるものの、私の頭を埋め尽くすのは恐怖ばかり で、武に、とても申し訳がなかった。愛しているからこそ、拒絶できない。相手の残念そうな顔や、悲しい顔をみたくなくて。失望される のがこわくて、できなかった。でも、そんなの本当の愛だろうか?愛なんてわからない。なぜなら私はまだ子供で、子供ながらに必死で 愛せる人をみつけているつもりだった。事実私は武を愛している。これは疑うことのない真実だ。だって、私はほかの男の子となんか比べ られないくらい武のことが好きで、好きで、好きで。いつでもそばにいてほしいと思うし、手を握りたいとも思うし、抱きしめてほしいと も思うし、キスをしてほしいとも思う。でも、こわかった。どうしてだろう、相手は大好きな武なのに。それなのに、私は、こわかった。 久しぶりに泣いた。最中に、だ。そんな私に驚いて、今まで動いていた武が動くのをやめて私の涙をふいてくれた。どうした?どうした? って聞いてくれる武の優しさが痛くて、痛くて、こわくて、私はもう首を横になんか触れなかった。なんでもない、と、言うことができな かった。ああ、終わる。なんとなくそう思って、まだ元気な武が自分の中から出て行く感触をしみじみ感じていた。


「 わかれてください 」


武は驚いたように目を見開いて、それから、私を思い切り抱きしめた。まだ硬い武の持つこわいものが私のお腹のあたりにあたって、少し 嫌な感じがしたけど、武がぎゅっと強く抱きしめてくれるぬくもりが、私をもっと泣かせた。泣かせてくれた。今まで我慢していたぶんを 全部消費するみたいに、いっぱい、いっぱい泣かせてくれた。武は何にも聞かないで、何にもしないで、ただ私をぎゅうっと抱きしめて いてくれて、私が泣きじゃくりながらこわいこわいというのを、黙って聞いてくれていた。もうこわくない武に抱きついて、すがりつい て、こわいこわい、たすけてたすけてと泣きついた。


「なんで、別れたい、の」
「わかれたくなんかない」


ずいぶんと落ち着いて、私がまだ肩を震わせているとき、武が小さくそう言った。不安そうに、弱々しく発された声が悲しくて、私はまた 泣き出しながらわかれたくないとすがる。わかれようと切り出したのは私のほうなのに、きっと武は困っているだろうに。ろくに説明でき る理由も、理論もわからないまま、私はこわいこわい、たすけてたすけて、はなれたくない、と繰り返した。武はただ私を抱きしめて頭を 撫でてくれた。私が今度こそ泣き止んで、泣きつかれてうとうとしていたとき、武は私に服を着せてくれて、涙でぐしゃぐしゃな顔を タオルで丁寧にぬぐってくれて、それからもう一度ぎゅうっと抱きしめてくれた。その温もりに安心して、私はゆっくりと、眠りに落ちて いった。眠る前に、武が言ってくれた。


「もう二度と、のこわいことしないから。が嫌だと思ったこと、もう絶対にしないから」



「俺は、を怖がらせるくらいなら、男やめる」


愛おしい彼を、そっと、笑った。








こわがらせ


20070618