死んでみようと思う



どうして私は服を着たまま風呂場になんかいるんだろう。浴槽の横に座り込んで、揺れる湯の波を眺めているんだろう。おかしな光景だな あと思いつつ、そこから立ち上がろうとしない私は変人だろうか。うん、確かに変人だろう。どうしてこんなときに、白いTシャツなんか 着ているんだろう。絶対に汚れる。そして絶対に次から着られなくなる。そう考えて、自分を笑った。次に着ることを考えるなんて、変だ ね。次なんてあろうはずもない。だって、今日が最後なんだもの。

右手に剃刀を持った手が震える。いやだなあ、できることならしたくない。じゃあやめればいいくせに、どうしてやめないんだろう。そん なに強い決心というわけでもないくせに。変に頑固な自分にまたもや笑みが浮かんでくる。愛おしいというわけではない。滑稽だと、おか しく思うんだ。左手の手首にそっと刃を当ててみた。ひんやり、そこまで冷たくもない温もりが肌にふれて、背筋がぞくっとした。怖いか と聞かれれば、怖いと答える。じゃあやめればいいくせに、どうしてやめないんだろう。もう一度そう思って、それでも右手は剃刀を 締めたままで、今度は笑えなかった。ぐっと力を入れて、思い切り引いた。ゆっくり引こうかとも思っていたけど、実際にやってみようと なると怖くてしょうがなかったから、勢いにまかせてすばやく右手を動かしてみた。やりきったとき、後悔した。あーあ、やっちゃった。 左手首を見るときれいに引かれた一本の線から赤いものが湧き出しているところだった。痛みを感じたかといえば、よくわからない。赤い 血を見た瞬間に頭がすっと冷たくなった気がする。リストカットなんて、はじめてだ。多大な後悔と微少の達成感を噛み締めながら、握り 締めたままの剃刀を床に、落とした。

ちゃぷん、湯の波が大きくなる。温かい湯に手首をつけた瞬間全身がぶるりと震えた。おかしな感覚だ。手首がしびれるように少しだけ 痛んで、それからそれも感じなくなった。透明な、白い浴槽を反射している水面に、赤い濁りがゆっくりと広がる。私の左手首の周りだけ その濁りが濃くて、私がこのきれいな水を染めているのかと思うと、おかしな優越感が私の頭を揺さぶった。ぐらりと視界が揺れて、誰か に突き飛ばされたかのようにだらりと浴槽にもたれかかった。お湯の熱に煽られて、汗ばむ背中がなぜかひんやりする。額もそう。汗をた くさんかいて、熱くてしょうがないはずなのに、むしろ肌寒さを感じてしょうがない。不愉快な吐き気に見舞われて、なんだか馬鹿馬鹿し く思えてきた。というのは強がりで、単に恐怖が増したんだ。

やめよう、死ぬの。そう思って湯船にとっぷりと浸かった左腕を持ち上げようと力を入れた。はずなのに、まともに持ち上がらないまま 赤い濁りを少しかきまわした程度で湯船に大人しく沈んでいる。やばい、かもしれない。自分の腕一本まともに持ち上げられないなんて。 今まで自分の腕を重たいなんて思ったことなかったのに、変な感じだ。もうお湯の温かみでさえ感じられない。どうしよう。もう、だめか なあ。死ぬのをやめようとあきらめたのに、それができなくて今度は死なないことをあきらめる。最後まで、後悔ばかりの人生だ。

かたい浴槽の縁に頭を乗せて、ゆっくりと目を閉じてみた。意識が朦朧としてる。これで、次に目を覚ますことはない、な。頭がすうっと 冷たくなってきて、死ぬのが少し、怖くなった。ばしゃああ、とお父さんがお風呂から上がったときみたいな勢いの良い水の音が頭に響い て、うっすらと目を開けたら私の左腕をつかんで高く上げている指が見えて、顔が見えて、何事だよとまた目を閉じようとする。


「聞くけど、 何してる、わけ」

荒い吐息と声が私の朦朧とする意識を揺らしているようで、目を閉じてられ、ない。めずらしく乱れた呼吸が、あんたらしくないよ。

「しのう と、おもって」

私がつぶやくように口を動かして、のどから声を通したとたんにぼかり、肩をどつかれた。ありえない。頭がぐらりと揺れる。

「や、や、あの、ひばりくんまじであの、いまうごかされたらあたしやば」
「なんで、なんで死のうとか思ったわけ」
「ひばり、ひばり」
「こたえろよ!」

せっかく人が意識飛びそうで、ああもうだめ飛んじゃうとか思って目を閉じようとしてるのに揺さぶらないでください。さっきまでは意識 的に揺さぶったくせに今度は物理的に、ってああもうなんか言葉にならない死にそうってことは確かなのに、君は何をしたいわけ雲雀くん お願いだから、私を助ける気があるというのなら押し問答してないで私を助けてくださいよ。あれ、というかあなた、どうしてここにいる んですか。家族は今ごろリビングで談笑しているはずですよ。家族じゃないあなたがどうしてうちのお風呂場にいるんですか。これって、 不法侵入。まともなことを考えられなくなったとたん、私の意識はワープしたみたいにびゅんと飛んでしまった。

目を開けたらベッドの上で、おかしなことに生きていて、見上げれば雲雀が相変わらず顔をゆがませたまま明後日の方向を見ていた。私の こと、あきれてる?目に涙が浮かんできて、同時に笑みも浮かんできて、ばっかだなあと思った。あたしばっかだなあ。雲雀も、ばっかだ なあ。

「どうしてうちにいたの。あれって不法侵入じゃ」
「あんなメールもらったら、法も越えたくなるだろう」

ポケットから携帯を取り出して、開いたかと思えば私のほうに突きつける。見せてくれなくともわかるよ、送ったのは私なんだから。雲雀 の携帯には一通の受信メールが表示されていた。本文も白紙で、ただ件名のところに「死んでみようと思う」とだけ表示されている簡素な メール。確かに私が送ったメールだ。今思えば、どうしてこんなメール送ったんだろうなと恥ずかしくなる。でもこのメールを見て、冗談 かと流さずに、真に受けて不法侵入してしまうような雲雀が可愛いと思った。馬鹿みたいに素直な雲雀が、愛おしいと思った。

「ひばり、そんなに私が好きか」
「黙れなんて死んじゃえ」

死んでやらないよ!と大きな声で言おうと思ったのに、頭がぐらっとして声が出なかった。そのかわりじゃないけど、手を伸ばしてみたら 雲雀が仕方がないというような顔をして、指を絡めてくれて、その温もりに、安心した。



でも、


あなたが死ぬなというからやめようと思う