なんてひどい人だろう。さん、と名前を呼んで手を伸ばしたら、妖艶に微笑んで伸ばした俺の手を自分の頬へ導いた。その上に自分の手を重ねて、ゆっくりした口調でこういうんだ。どうしたの?ひどい人だ。

具合が悪かったわけじゃない。ちょっとした寝不足で、どうにも体がだるくて授業サボって保健室のベッドのひとつを占領しただけ。だけど俺は後悔した。何を後悔すればいいのかもわからなかったけど、後悔した。寝不足を理由に保健室で昼寝なんかしていたことが間違いだったのか、それとも昨日の夜に眠れないことを理由に古いゲームを取り出して熱中してしまったのか間違いだったのか、そもそもこの人を好きになってしまったことが間違いだったのか。目が覚めて、まぶしい視界に目を細めると、ベッドの縁に腰掛ける人がいて、こっちを向いて微笑む人がいて、俺は、後悔したんだ。

さんを好きになったのはいつなんだか、もうよくわからないけど、一目惚れだったことは確かだ。外見がずば抜けてきれいというわけでも、可愛いというわけでもないくせに、俺は一目見て、この人が好きだこの人がほしいこの人を手に入れたいなどと思ってしまった。今考えると、やっぱり惚れるんじゃなかった。彼女を好きと感じなければよかった。俺たちの出会いから、もしかしたら間違いだったのかもしれない。さんにはすでに、男がいた。

「なん、スか。なんでここに…?」
「聞いてよ武くん。きょーやがひどいの」

ふざけた口調で、足をばたつかせる姿を可愛いと思ってしまうのは、惚れた弱みだろうか。強調するように口に出された「きょーや」という言葉に、俺は眉をぴくりと動かせた。さんの笑顔が深くなって、俺はひどい人だと思った。意図的なのか、無意識なのかは知らないけれど、そんな顔はずるい。ひどい。俺があんたを好きってこと、わかってんだろう?そのくせ名前を出すんだ。自分の男の名前。俺を傷つけて楽しい?楽しいからこそこんなとこまできて、雲雀の名前出して、俺を遊んでるんだろう?

「今度はどうしたんすか」
「仕事の邪魔だからあっちいけって」
「また、そんな…」
「あ、武くんひどい!今くだらないって思ったでしょう!」

この人はいつも、くだらない理由で俺のところへきては、俺の心をもてあそぶような言葉を発していくんだ。ほっといてくれりゃいいのに、どうしてわざわざ俺のとこへきて俺をあざ笑っていくんだよ。素直に憎めたらいいくせに、俺はこの人から馬鹿みたいに目が離せなくて夢中なんだ。好きで好きでたまらない。さんが俺のとこきて雲雀の文句や惚気をいうたびに、もっとあんたが好きになる。馬鹿みたいに欲しくなって、いつだって理性はぎりぎりで。できることなら無理やり抱き寄せてキスしたりそれ以上のことしたりしたい。何度だって考えた。妄想癖があるのかと疑われそうだけど、そんくらい好きで、異常なくらいに好きすぎて、何度だってあんたをオカズにしたさ。なあ、それが狙いなの?あんたはひどい人だ。
思わずため息をついたら、そんな俺をみて頬を膨らませて可愛い声で文句を言った。それにもあきれて、でも本心ではキスしてえなあとか思っていたら、さんは俺が横になってるベッドのすぐ横に寝転んできた。意味、わかんね。お前なにしてんだよ。ここベッドだぞ。それわかってんのかよ。すぐさま起き上がってさんの顔をみたら、ちょっとびっくりした顔をしていた。でもすぐにまた、楽しそうな意地悪な顔になる。どうしよ、俺ちょっと泣きそうだ。

「どうしたの?たけしくん」

いつだって、この人の言葉は扇情的だ。見上げてくる視線も、この光景も、全部が俺を煽り立てる。歯を食いしばってさんに覆いかぶさるとさっきよりもびっくりした顔で俺をみつめる。やめろ、やめてくれ、見るな見るな。俺を見ないでください、お願いだから。

「俺はあんたが好きだよ」
「たけしく」
「知ってんだろ!なんでこんなこと、すんだ、よ…っ」

あ、やべ、本気で泣きそうだ。涙出てきそうになって、どうしていいのかわかんなくてさんを抱きしめた。とたんにいい匂いが鼻をくすぐる。そして俺はまた、後悔する。やっちまった。抱きしめちまった。ばっかだなあ。ベッドの上で好きな女抱きしめるとか、何してんだよ。我慢する?できるか、ばか。でも今めちゃくちゃにせず、大人しく抱きしめたままでいられるのは俺が泣きそうだからか。俺の中で男としてのプライドが存在していてよかった。とりあえず、落ち着け。これ以上後悔しないためにも、落ち着け。後悔ばっかだよ、俺の人生。あ、また泣きそうだ。涙お願いだから引っ込んでくれよ。

「武くん、馬鹿だなあ、私なんて、すきになるから」

さんの声はいつもどおりで、だけどわかったのは、その声がどこかしら悲しげだったことだ。顔がみたいのに、見れない。さん、あんた今どんな顔してる?なんで拒んでくれないんだよ。ちょっとだけでも、拒絶を見せて?そしたら俺、俺はもっと傷ついて、あんたを忘れられるかもしれない。お前なんか嫌いだって言われたら俺、おれ、俺はそれでもあんたを好きでいられる自信、あるかもしれない。なんでこんなに好きなんだ。なんでこんなに好きなのに、あんたは俺のものにならない?雲雀のものなんだ。

「私のこと、嫌いになってよ。いっぱい」

体を勢いよく起こしたら、涙でいっぱいの顔で驚いているさんの顔が見えて、それに俺まで驚いて、さんはすぐに顔を隠すように体を転がした。なんだ、なんで、泣いてるの?なんで嫌いなんて言うんだよ。そんなこと望んでないくせに。ばか、ばかだな、さん。俺があんたを嫌いになんかなれるはずないのに、なんでそんなこというの。わかった、わかった。俺はひとりで傷ついているのかと思ってた。でもちがうんだ。あんたも同じくらいに傷ついてたんだ。そうやって、自分傷つけて楽しいかよ。なんで、こんなことするんだ。ただ、声を押し殺しながら泣くあんたが、俺のシャツの裾を思い切りつかんで離さなかったことがなんとなく、理解できなくて、なんとなく、自分が誰かに俺のこと嫌いになればいいのにと思うときを考えてみた。だけど、思い浮かばなかった。俺は、好きなやつだろうと嫌いなやつだろうと、嫌いになられたらおもしろくないから、そんなこと思ったことはなくて、だからこそさんがどうして俺に嫌いになれなんていうのかが理解できなかった。

「たけしく、たけしくんなんか、嫌いだ。きらい、きらい」
「ああ」
「後悔、してるんでしょう?私と出会ったこと、後悔してるんでしょう?」

さんの顔は悲痛そうにゆがんでいた。それが、俺の胸を苦しめて、よけいに好きだと思わせる。

「じゃあ、じゃあ後悔しなかったらあんたは俺のものになってくれんのかよ!」

うわああと泣き出したさんに、もう俺は何にも言えなくなってしまって、少しだけ、気持ちがわかった気がした。出会ったことを後悔なんて、本当に、本気で、心の底から思ってるはずないのに。勝手に想像してこの人は苦しんで、どんだけ不器用なんだ。俺はあんたが好きだから、愛しいと思わせてくれるあんたに感謝してるんだよ、これでもたくさん。出会わなきゃよかったって思う日も、そりゃあったさ。なんてったって、俺はあんたが好きだから。雲雀よりも愛せる自信あるし、雲雀よりも大切にできる自信がある。でも俺は感謝してる、あんたに出会えたこと。それでもあんたは、俺じゃなく雲雀を選ぶんだろう?

「なんで、なんでわたしを、すきになるのよ」

あんたがそれを、否定するなよ。





片道切符


20070713