薄暗い廊下の前に白い襖がそびえ立つ。そう高くもないひとつの襖がとても大きく見えるのは、その敷居の高さを感じているからだろう か。そっと膝をついて頭を床につきそうなほど近付け、そっと目を伏せた。最初の一言がなかなかのどを通らずに、私の胸の内でぐるぐる と回っているようだ。心を決め、一度口元を締め直して声に出した。冷たい空気が張り詰める廊下にぴんと響くのが、なんだか心地よく 思えた。

です」

短くそう告げると、まるで私の声を待っていたかのように中からくぐもった声が返ってきた。入りなさい。その一言だけで、私の心は湯を 注がれているように温かくなる。何に対してなのかもわからない。疑問を持つよりも先に私は頭をあげ、立ち上がらないままで襖に手を かけた。そっと引くとするするとすべり、部屋の中の明るさが外に漏れて廊下が少し明るくなった。広く続く畳の先に、一人の横顔を見 る。凛としたその顔は私が最後に見た顔と何ら変わりはなく、美しさを保っている。いや、むしろ以前よりも輝いてみえるのは私のエゴだ ろうか。瞬くことも忘れ見入っていると、ふいに横顔が動いてその目が私を捉えた。しかし声をかけられるわけでもなく、私の姿をじっと 見ているだけ。体温が上昇するのを感じながら、私はもう一度頭を下げて口を開いた。

「おかえりなさいませ」
「挨拶はいいから、早く入りなさい」

そこでやっと私は立ち上がり、ゆっくりと襖を閉じてそばによると今度はすぐに座りなさいと促された。自然と背筋が伸びるのを感じなが ら、目の前の大きな背中をほうっと見つめるほかなかった。久しぶりに見るそのお姿はとても凛々しく、美しい。思わずその横顔を見つめ てしまっていると、私に視線に気付いた旦那様が口元に笑みを浮かべてこちらを向いた。そのお顔は、どんな女性でも一目で魅了してしま いそうなほど艶めいている。顔が赤くなるのを感じて急いで指をついて頭を下げる。

「おかえりを心待ちにしておりました、旦那様」
「その言葉は、一人の侍女の言葉かい?それとも、の言葉かい?」
の、言葉にございます」
「じゃあ、その態度と言葉遣いを見過ごすわけにはいかないな」

低い響きが頭に溶け込んでいくようで、脳髄まで蕩けてしまいそうだ。頭を上げると待ちかねたように旦那様、雲雀様の指が伸びてきて私 の頬に添えられた。果たして雲雀様の指が冷たいのか私の頬が熱いのか、両方なのかはわからないけど、その温もりを心地よく感じて 思わず私はその手の上に自分の手を重ねてしまっていた。無意識の行動に戸惑う前に、雲雀様の反対の指が私の顎を捕らえて上を向かされ た。戸惑う間もなくお互いの鼻が重なって、雲雀様の息が私の顎に吹きかかる。雲雀様が楽しそうに笑うのを至近距離で見られる喜びと、 恥じらい。なんて甘美な時間なんだろう。ひとつひとつがとても長い時間に感じられるのはなぜ?反射的に目を閉じると、くすりと笑う声 が耳に転がってきた。

「僕が恋しかった?」
「はい」
「僕がそんなに好きかい?」
「はい」
「名前を呼んで、
「恭弥、様」

すべてを言い終える前に唇を重ねられ、小さな子供が交わす幼稚なキスを繰り返す。いつの間にか抱かれていた腰を引き寄せられ、簡単に その腕に抱かれてしまう。温もりもその匂いも、何一つ変わらない。着物をきゅうっと握ると、それを見て嬉しそうに目を細めた。そのま ま意識が途切れてしまいそうなくらいに頭がくらくらしている。幸せよりももっと幸せ。噛み締めるほど甘いその感情の名前なんて、もう 忘れてしまった。

「お会いしとうございました」
「僕のほしい言葉とは違うね」


「愛しております 恭弥様」








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