私は目を開けました。





目を開けた。さっきまで眠っていたのか、起きていたのか、私が今目を開けているのか、閉じているのか、わからない。きっと私は眠っていたんだろうが、眠る直前と今目を開いたこの景色がまったくかわっていなくて、眠っていなかったかのような錯覚に陥る。景色がかわらないという言い方はおかしいのかもしれない。目を開けていようとも、閉じていようともかわらない。真っ暗な闇が、私を包み込んで放さない。何も見えない、何も聞こえない、何も感じない。私の心はどこかに落としてきてしまった。光が少しも漏れないこの空間で目がなれることはない。なれたとしても何もないこの空間で、私の目が何かをとらえることはない。何も見えないこの空間は、私にとって逆にありがたかった。光のないこの空間に、最初は気が狂いそうになったけど、今では何も見えない、何も考えられないこの場だからこそ、できることがある。目を閉じて、頭の中で繰り返される、思い出の中の彼の、姿。何も見えないこの場所だからこそ、彼のことを強く思い出せるんだ。私の名前を呼んでくれる声。私をとらえて離さないその目。私を包み込んでくれる力強い腕。涙はもう、枯れてしまった。


唯一ある扉が、重そうな音を立てて開かれた。この部屋中にその音が響いて、私の耳にエコーする。そのとたん、私の感情はあふれ出しそうになる。恐怖なのか、悲愴なのか、わからない。人間の感じる負の感情すべてが溢れ出して、私を満たして、私を壊す。入ってきた光に目を細めることもできない。全身が石にでもなってしまったのか。まったく、動くことができなかった。さっきまで私の頭の中を埋め尽くしていた彼の姿はもうない。何も考えられなくなる。私はただの、人形になる。


「こんばんは、。あなたを食べても、よろしいですか?」


愛しているからいいでしょう?


あのセリフは、いつかを思い出す。それがもう遠い日なのか、近い日なのかはわからない。ここは時間を感じさせない。言うならば毎日が夜。明けない夜。暗澹とした、黒い影をぽたりと落としたような夜。私がここをいつも夜だと感じるのは、あの人が私に会いにくるたびに、「こんばんは」と微笑むからだろうか。冷たい微笑。貼り付けた表面上の冷たい笑顔。最後に光を見たのは、いつだっただろう。何もない日だった。彼が家まで送ってくれるというのを、めずらしく断った日だった。彼の誕生日プレゼントを買いに行こうと思っていた、あの日。あの人が、きた。彼という光を見なくなって、どのくらいだろう。


ドウゾ、ムクロトオヨビクダサイ。あの日のことを思い出していたら、今まで忘れていたあの人の名前まで思い出した。ムクロ。その響きに何も感じない。どうしていまさら、名前なんて思い出したんだろう。不思議な話だ。抱かれているあいだ、私の体は生理現象として熱くなる。なのにこんなときほど、私の頭はいつも冷たくなっていた。目を閉じていれば、何も感じない。心を閉ざせば、何もわからなくなる。ただ従っていれば、何も恐いことはない。何も、何も。頭の隅に、彼の顔がちらついた。静かなこの空間に、風を切るような音が響く。左頬は熱くなって、ひりひりして、久しぶりに痛みを感じた。驚いて目を丸めた。人に叩かれるなんて、どのくらいぶりだろうか。ムクロを視界に入れると、ムクロは顔をゆがませて笑っていた。下半身が熱い。感じたくなかったものを感じ始める。気にしていなければ、感じなかったこと、もの。とたんに私の心を恐怖が満たす。いや、いや、恐い、やめて、離して。ムクロの手が、私の首に触れた。冷たい手の感触に、首から上の血の気が引いた。これから起こることを想像するのが恐い。声さえ出せない。そのとたんにムクロの腕に力が入る。何が起きているのかわからないほど馬鹿でもないし、目の前に何が待ち受けているのかわからないほど心が死んでもいなかった。死んでもいいと思っていた。こんな毎日を続けるのなら。もう二度と光を見られないというのなら。死んでも構わないと。だけど、恐くなった。目の前に死という凶器を突きつけられて、私は臆した。恐かった。死にたくなかった。吐き気が私を襲う。


「愛していると言いなさい」


ムクロの声が酸素のまわりきっていない頭に響く。


「僕を、僕だけを、愛していると」


ムクロの手に力がこもる。


!」


意識が完全に飛んだ。目を閉じたら、必死そうなムクロの声が聞こえて、最期にめずらしいもの聞いたな、どうせなら顔を見たかったな、なんて、意外にのんきなことを考えていた。死への恐怖は今でも拭い去れない。だけど、なんだろう。もう、あきらめたみたいに頭は冷静。ああ、死ぬのか。最期に彼の顔が、見たかった。目を開けたら、実は何もなくて、全部夢だった、なんてこと。ないだろうな。私はもう死ぬんだ。死んだらひとりになっちゃうのかな。それは、恐い。死にたく、なかった。


目を開けたら、私はまだ生きていて、そこにまず驚いた。のどがかすれるように痛くて、私は軽くむせると、私を抱いていた腕がびくりと震えた。ムクロが顔をあげて、また驚いた。目からぼろぼろと涙をこぼし、自分の頬と私の肩を濡らしていた。私と目があうと驚いたように目を見開いて、それからまた強く抱きしめられた。よかった。小さくつぶやかれた言葉。なに?自分で殺そうとした、くせに。まったくもって、意味がわからなかった。力強く抱かれていて、息がつまるみたいに苦しい。温かい体に抱きしめられて、力強く抱かれるのが苦しいと感じる。生きていると実感できる。少なくとも、ここは地獄じゃない。あなたがいて、私がいる。私しか知らないあなたを、愛してみようかな。私で、いいのなら。私が、


「ムクロ、あなたを、愛してる」


一緒にどこまでも堕ちてゆきましょう。あなたに付き合う覚悟はできました。愛しています。愛して、





私は目を閉じました。


いただきます


20070313(relic)