シャワーの雨という名の透明な弾丸を頭から受け、まるでその圧力に耐え切れないかのように頭をうなだれると排水口の周りにぐるぐる渦 を巻きながら流れていく水が見えて、それを見ていると何時間でもそうしていられそうだと思った。妙に時間がゆったりと流れているよう に感じるその瞬間が、私はなかなか好きだった。時間を忘れられるというのはうれしいもので、今がいったい何時で自分がいったい何歳な のかということまで忘れられる。これは私にとって何より心休まる時間だ。頭がぼんやりしてきたところで背中がぶるりと震えた。 シャワーの吐き出す温かい水の噴射する範囲は、わたしの体全身からすれば狭い。いっそ湯船にでもつかりたいと思ったが真っ白な浴槽の 底が私を笑っているようだった。今から湯を張るのも時間がかかりそうだ。このまま出てしまおうと思い、シャワーのコックをひねった。

バスローブを羽織ってリビングへ戻るとおかしなものを見る。ソファに座るひとつの黒い頭があるのだ。ここは私の部屋で私しか住んでい ないはずで、合鍵なんて誰にも渡したことはない。しかしその黒い頭が誰か、即座にわかってしまったのだ。背後のそんな丸い頭だけでわ かってしまうほど、私はその人物を待ち望んでいたのかもしれない。手にしていたタオルを落とすと黒い頭がわずかに動いた。相手が 振り返る前に言葉が口を出た。

「何してるの、恭弥」
「それが二年ぶりに再会した恋人への言葉かい?

二年ぶり、そうだ二年ぶり。正確に言えば二年と数ヶ月ぶりに見るその顔も、声も変わっていないはずなのにどこか違和感を感じてしまう ほどに私たちの再会は久しかった。思えばこの二年、気が狂いそうなほど長かったようで実はあっという間だったのかもしれない。時間の 流れを感じさせなかったさっきまでの時間がなつかしい。シャワールームから出てこなければよかったのかもしれない。でなきゃ私たちは 再会することなんてなかった。恭弥、あなたはいつだった突然だわ。

「何のつもり、今さら。電話も手紙も、連絡を一切よこさずになに?私たちはまだ恋人と言えるのかしら」
「君は待つと言ったが、あれは僕の聞いた幻聴だったのかな?」
「たしかに、確かに言ったわ。その言葉に嘘はなかった。だけどあまりにこの二年色んなことがありすぎた!つらくて苦しくてどうしよう もないとき、一番そばにいてほしいはずのあなたはいなくて。電話をする、手紙を送ると言ったくせに二年まったくの音沙汰もない毎日が 私にとってどれだけ苦痛だったか、恭弥にはわからないわ!」

別れを告げられたときも、突然だった。待っているといった言葉に嘘はなかった。だけどこの二年、とても大変だった。一人じゃ乗り越え られないことや誰かに甘えてしまいたい、寄りかかってしまいたいときが確かにあって、私はそのときあなたを裏切ることをした。ほかの 男の人にすがってしまった。それに罪悪感を抱くことはあってもあなたを責めない日はなかった。私はどうすればよかったの?孤独に 苛まれようとも一人で生きていればよかったの?私にはわからない。そして恭弥にも、わからないわ。とっくに終わらせたつもりだったこ の関係が、今さら終わろうとしていることに私は身震いした。なんだかんだでこの人を待っていた二年は変わらない。もう知らないと そっぽを向いても、結局はこの人の帰りを待ちわびていたんだから。涙が溢れそうになる。この人の姿を見ていると、未練が募ってしま う。とっくに愛想をつかしたつもりだったというのに、まだまだ私は恭弥に惚れこんでいるようだから。

恭弥が立ち上がって、妙にゆっくり私のほうに歩み寄る。責められるだろうか。恭弥はプライドの高い人間だから、こんなふうに否定され たりましてや浮気の開き直りのようなことを言われて我慢できるような人間ではないと思う。怒って、いるだろうな。私たちはもう本当に 終わってしまうんだろう。しょうがない、しょうがないよ。そう思うのに涙をこらえて噛み締める唇は正直だ。目の前まで恭弥がきたと き、意外にもそっと抱き寄せられた。

「僕が悪かった、すべて僕が」

目の前にいる人間は、今私を抱いている人間は誰だろうと錯覚する。恭弥、あなたはこの二年で幾分成長したのかしら。それとも私があな たを見失っていた?答えの出ない自問に惑わされていると、口からすいと言葉が滑り出た。

「謝らないわよ」
「それでいい、僕が悪いんだから」

心が一気に溶かされていくようだと思った。張り詰めていた糸を、いとも簡単に切られるような感覚に驚きそして安堵した。恭弥の温かい 手が私の髪を撫ぜて、まだしめった一本一本の髪の毛が首に張り付いていくようだ。気持ち悪い。でも今はそんなことより気分がいい。な んだか変な薬にでもあてられたかのように頭がぼんやりして、このまま天国へでも旅立って行けそうな気さえした。それでも構わないと 思える自分がいて、きっと今がとても幸せなんだと実感する。幸せというよりも極楽というような、甘ったるい湯につかっているような 気分だった。

「恭弥は、私以外の女を抱いたことはなかったの?」

口から出たその言葉の意味をよく考えてなんかいなかった。これが相手に答えを求める質問だということも忘れ、眠気に近い気分を味わい ながら恭弥の首元にそっと頭を乗せた。恭弥は自嘲するように小さく鼻で笑い、告げる。

「ない」

たった二文字の言葉に、すべての魔法が解けていくようだった。今までゆらゆら浮かんでいた思いが一気に沈められるような、そんな気分 に私は絶望した。いや、実際に絶望したのは自分の愚かさにだ。この二年で色々なことがあった。しかしそれは人間なら誰しも持ちえる 苦難であり、誰もが乗り越えるものである。恭弥が同じくその苦痛に耐えなかったという証拠がどこにある。恭弥だってきっとつらい時期 があったはずだ。それこそ私よりもたくさんあったのかもしれない。それなのに、恭弥は流されず惑わされず私だけを一途に思ってくれて いたというのに、私ときたらどうだろう。ひとり悲劇のヒロインを演じ、すべて恭弥に責任を押し付けて。恭弥は私を責めずに受け入れて くれたっていうのに。この二年間の自分も、さっきまで自分の愚かな行いを開き直るように口走った言葉のすべてもけがらわしく思えて 自分のすべてが許せなくなる。自分ひとりが傷ついた気でいた。だけどそれ以上に傷ついて、私が傷つけている人がいたというのにどうし て気付けなかったんだろう。わたしは、馬鹿だ。

「わたし、わたしはあなたに愛される資格なんてない。ごめんなさい、ごめんなさい、あなたを責めることなんてできない。私はひどい女 よ。あなたには決してつりあわないほど醜い。ごめんなさい、あなたを愛していたはずなのにあなたに甘えるばかりだった。ごめんなさ い、恭弥」

恭弥は驚きも悲しみも、何の感情も読み取れないような表情で少しだけ首を傾げ、私の顎を掬った。

「気付けないままの馬鹿な女であれば、傷つくこともなかったのに」

私が自分の愚かさに気付いたことをひどく悲しむように微笑んで、そっと口付けを落とす。とてもきれいなその顔に見惚れる間もなく目を 伏せると、あまりに幼稚なキスが私を出迎えた。

「謝らないと言ったくせにね」
「わたし、嘘つきなの」
「まったくだ」
「あなたとちがって」

くすりと笑う声も顔もなつかしい。

「君が謝る必要なんか、本当になかったんだ。すべて悪いのは、僕だから」








謀略者は