親切な隣人がいた。おじさんとおばさんと、愛想の悪い小学生の男の子の三人で暮らしている隣はいつも笑顔でどこか楽しそうだった。お ばさんはとても世話焼きで、わたしをしょっちゅうご飯に誘っては「一人でご飯なんて寂しいでしょう?」と言うのだ。それがいつも、 いやだった。一人でご飯を済ませることを楽しいと思ったことはない。それはお隣でご飯を食べるときも同じ、楽しいなんて思ったことは なかった。だけど私は一人で食べることに不満なんて持っていなかった。お隣でのご飯は、とてもいやだった。私が不幸だということを 押し付けてくるようなあの、親切という名の嫌がらせに私がとった対策は、居留守。夜になっても家の電気をつけず、家の中に人がいると いう気配を消した。それでまた私はちゃんと、一人になれた。

一人が楽しいというわけじゃない。ただ、これが私の中での普通なだけ。隣のおばさんが私をかわいそうだという。こんなの普通じゃない という。自分は普通だという。私はおばさんのことをかわいそうだと思う。私はおばさんの家を普通じゃないと思う。私は私を普通だとは 思わないけれど。そもそも普通とはなんだろう。どこラインが普通かなんて、だれが判断するのだろうか。個人を普通という小さな枠に はめこんで満足してしまえるような人間を、果たして普通といえるのだろうか。私はそんな窮屈なもの、いらない。普通なんて私にはひと つもわからない。だって、おばさんは私に言ったわ。生まれたときから普通を知らない子だって。おばさんは私のことを抱きしめながら、 かわいそうだというような目でこちらを見つめながら。だから私は、普通という言葉が嫌いなのかもしれない。

光の灯らない家で、音の響かない部屋で過ごす毎日は私にとって、無だった。何も感じられない。これが私の普通であった。だって私はそ れ以外を、知らない。扉の開く音がして、私は顔をあげた。一人の人物が頭をよぎる。泥棒よりも、両親よりも先に浮かんだその人物に、 私は心に火を点した。逸る心を抑えて、ゆっくりと玄関をのぞきこむとそこには一つの頭があった。暗闇でもなお際立つ黒い頭は、きれい に闇に溶け込むくせに自らを主張することをやめない。同じく黒いスーツを着込んだその人は、自分の首もとに手をやるとしゅるしゅる音 を立てながらネクタイをはずした。もう片方の手でそばにあった電気のスイッチを探ると、何日ぶりかにこの家に光が灯った。そんな、な んでもない動作に目を奪われたのは言うまでもない。なぜなら玄関で立ちすくむ男は私の想像通りの人物だったんだから。電気をつけたこ とで、相手が私の存在に気付いた。目が合って、私はやっと自分が今まで瞬きを忘れていたことに気付いた。

「なんだ、そこにいたのか。

久しぶりに聞いた彼の声が私の耳を通り抜けて、通り抜けたはずなのに頭をぐるぐる回っているみたいだ。きれいに響く声は変わらない。 そして彼が口にする私の名前の響きの心地よさも、変わらない。おかえりなさいと言おう。そう決めて、私がおかえりなさいの準備を口の 中でしていると、彼はゆっくりと微笑んで私の気持ちを読み取ったみたいな顔をして口を開く。

「おかえりは聞かないよ。すぐにいってきますだから」

私の頭に手を乗せて、すぐにすれちがってリビングに踏み込んでしまった。私がお兄ちゃんとつぶやくと、思い出したかのように振り返 って、小首をかしげてこっちを見るんだ。恭弥お兄ちゃんは私と血の繋がらない兄妹で、私の大好きな人だ。二年も前に突然出て行って、 そのまま一度も連絡をよこさなかったお兄ちゃんに両親は見切りをつけるのにそう時間はかからなかった。そのお兄ちゃんが、二年ぶりに 帰ってきたと思えばただいまも言わずにすぐ出て行ってしまうという。私の唯一の救いは、お兄ちゃんの存在だったというのに。だからと いって何を言うこともできず、黙って立ち尽くしてしまう。そんな私にお兄ちゃんはあきれたのか、小さくため息をついて私のそばを離れ てしまった。両親が何日も帰らないときよりも、隣のおばさんにかわいそうといわれたときよりも、お兄ちゃんの言動ひとつでこんなにも 悲しい。寂しい。切ない。私の存在が薄れていくみたいだ。

恭弥お兄ちゃんのすぐは本当にすぐで、台所の冷蔵庫を開けてそこに入っていたミネラルウォーターに一口付けただけでまた玄関に戻って きてしまう。五分にも満たないその時間、わたしは瞬きを忘れた。お兄ちゃんが玄関で靴を履くあいだ、私はお兄ちゃんの背後霊にでもな った気分でお兄ちゃんの後ろにたたずんでいた。このまま本当にお兄ちゃんの背後霊になれたら、ずっと一緒にいられるだろうか。別に 話しかけてもらえなくてもいい。こっちを向いてくれなくてもいい。ただ、一人になるのがいやだった。誰でもいいからそばにいてほしい なんてことは言わないし、望んでもいない。私はお兄ちゃんのそばに、いたかったんだから。今度は声をかけたわけでもないのに、 お兄ちゃんが思い出したかのように振り返って不思議そうに私の顔をみつめる。

「何してるの?早く」
「早く、なに」
「靴を履きなさい」

お兄ちゃんみたいな、口調だった。

「連れて行ってくれるの?」
「うん」
「私をお兄ちゃんの背後霊に、してくれるの?」
「ちがうよ」

馬鹿にするみたいに笑うお兄ちゃんの声が、好きだ。

を、僕のお嫁さんにしてあげるんだ」

いつになく優しい顔をして笑うお兄ちゃんが、大好きだ。







霊安室に巣食う背後霊


20071201