「恋愛なんて、所詮はまやかしだ」


何も聞いていないのに突然雲雀がそうつぶやいて、手に持っていた日誌を閉じるものだから私もその手に持っていた手帳を閉じなくてはな らなくなった。くだらないというように、つまらなさそうな顔をして日誌を抛る雲雀を横目に私は自分の鞄を探ると、さっきの雲雀の言葉 に一向に返事を返さない私を不服に思ったのか、鋭い目でこちらを見てくる。すねているようなその態度がなんだかおかしくて含み笑いを みせると気分が悪そうに目を細める。こんな雲雀を見ていて、思い出したことがある。

「なんだかこのままだと、こんな言葉までつぶやきだしそうね。" 精神的に向上心のないやつは馬鹿だ "」

少し驚いたように目を見開くと、なんだか私を馬鹿にするみたいに顔をゆがめて笑うんだ。雲雀がこの言葉を知っているかな、という疑問 はあえて抱かなかった。雲雀が勉強できるということは知っていたし、何より雲雀は近代文学にとても興味を持っているようだったかだ ら。有名なこの作品を知らないなんてことは、ありえないと思っていた。予想通り雲雀はこの言葉も、この言葉の登場する作品も私以上に 知っているようで、意地悪そうな笑みを浮かべたまま私のことをせせら笑っている。

「君がその言葉を知っているとはね」
「いま現国の時間でやってるんだよ」
「僕はあの男のようにはならない」

捨て台詞のようにそうつぶやくと、雲雀は机の上に並ぶ書類の一つを手にとってペンを手で弄んでいる。そうだろうか。私はあの小説を 読んでいるとき、Kはとても雲雀に似ていると思った。もしかしてKという名前は「きょうや」だったかもしれないと思うと、Kイコール雲雀 という計算式が完成してしまって、私はその後その文章を読むたびに雲雀を想像した。

「私は、似ていると思ったけどな」

私のその言葉がよっぽど気に食わなかったのか、雲雀は早すぎるほどすばやく反応したかと思えばあきれたようなひどい顔をして小さく息 をついて私のほうをにらむように見つめてくる。

「僕はそもそもあの男が嫌いなんだ。くだらない恋や人間関係を理由にして自殺なんてするあんな男を、どうして好きになれるというん だ。馬鹿馬鹿しいとは思わないかい。人間は生まれたときも死ぬときもたった一人だ。そして生きているうちだって一人だ。、僕が草食 動物と群れることを嫌うことはよく知っているはずだろう。それなのに似ているなんて馬鹿馬鹿しいことを言われるのは、僕に対する侮辱 ととってもいいんだね」

そこまでいって満足したのか、雲雀はひとつ息をついてまた手元の書類に目を落とした。雲雀の言った言葉はあまりに雲雀らしくて、同時 にKを思い浮かべさせた。きっとKだってそう思っていたにちがいない。それでも最後にああなってしまったのは、やはり人間に関わったか ら?Kはそのことを後悔しているだろうか。お嬢さんに恋をしたことや、友達に心を許したことを後悔しただろうか。そうであったなら、 なんて悲しいことだろうな。誰とも関わらずにこんな寂しいことを言っている雲雀も、悲しい。人と関わることはくだらないだろうか。こ わいだろうか。確かに、怖い。それでも私は人に関わらずには生きていけない、寂しくて。それを馬鹿馬鹿しいという人もあるだろう。 間違いじゃない。私だって何度でも悩まされる人間関係に弱音を吐き出したくなるときもある。すべてを断ち切って、いっそ一人になって しまったほうが楽なのでは、と思うこともあった。それでも人間と関わっているのは、私がどれだけ嫌いだと吐き出しても心の奥底で人間 を好きだと思っているからだろうに。雲雀は、それさえもないんだろうか。そうだとしたら本当に悲しい。

時計を見るとそろそろ帰らなければならない時間で、テーブルに広げた用具を鞄に詰め込みながら横目で雲雀を見ると、なんだかぼんやり するような顔で書類に向き合っていた。あの一枚の書類に、いったい何十分かけるつもりだろう。きっと頭になんて入ってこないんだろう なと考えて私は立ち上がった。そんな私を目で追うように顔をあげて、またすぐに書類のほうを向いてしまう。なぜだかさっきの言葉を 思い出した。恋愛はまやかしなんだろうか。Kのあの切ない思いは、先生の逸る思いは、すべて偽物だったんだろうか。

「なに?」
「雲雀は恋愛をしたことがないから、きっとそんなことが言えるんだね」
「今後する気もないけれど、それがなに?」

恋なんて馬鹿馬鹿しい。心の底からそう思っているような顔に、私は本気で傷ついた。恋愛はそんなにくだらないものだろうか。不必要な ものだろうか。自分の気持ちを押し付けるつもりはないけれど、雲雀にはいつか素敵な恋をしてほしいと願うことくらいは許してほしい。 そして人間と関わることを煩わしく感じている雲雀が、私のことを少しでも大切に思ってくれるように願いたい。こんな私でもそばにおい て楽しいと思ってくれたら、こういうのも悪くないと思ってくれたら、私はもう満足すぎるほど満足なんだ。

「この気持ちはまやかしなんかじゃないよ」

捨て台詞のようにそう告げて、応接室を出て行った。雲雀のことが好きだと思うこの気持ちさえ、否定しないで。私はあなたを好きで後悔 なんかしたことない。苦しんだって、この気持ちはかわりません。









こころ // 071201