遠くに見えたその姿には、見覚えがある。
 たまたま歩道から何気なくそちら側に目をやったとき、それが視界に入った。
 遠目にはよくわからないが、彼は複数の人物に囲まれているようだ。せっかくなので声をかけていこうかと近づいていく間に、彼がどことなく動揺した様子で、ふるふると首を横に振っているのが見えた。
 その少年と目が合う。やはり見覚えのある顔だった。
「…バジル?」
「あ…殿っ」
 バジルは、鈍感な私から見ても明らかなほどに困惑していた。私は、その元凶であろう、バジルを取り囲む男たちを見上げる。 いかにも女好き、といったちゃらちゃらとした風貌の彼らに、会って間もないながらに深い嫌悪感を覚えた私は、渾身の力を込めて彼らを睨み付けた。
 しかし。
「うっひゃー、なになに君たち、知り合い?」
「睨んじゃってかっわいー。彼女たち、俺らと一緒に遊ばない?」
 どうやらこいつらに、私の威嚇攻撃は通用しないらしい。その上、私だけでなくバジルをも女の子だと勘違いしているようだった。一歩後ろに後退った私の腕を男の一人が掴んだ瞬間、私の全身は完全にこの男たちを敵とみなした。
 そしてその忌まわしき男の手は、私だけでは飽き足らず、あろうことかバジルまでもに伸ばされようとしていた。
 が、次の瞬間。
 私は男の身体に思い切り体当たりをぶちかました。
 突然の展開に呆気にとられた様子のその男は、よろよろとふらついたのち、派手に地面にしりもちをついた。
「バジル、行くよっ!」
「えっ…あのっ、殿?!」
 いまなお困惑の意が拭い切れずにいるバジルの腕をとり、私は走り出す。背後からは先ほどの男たちの怒鳴り声が聞こえるが、かまっていられない。一刻も早く、この場から逃げ出さなくては。






 窓の外では、雪がゆっくりと降り注いでいく。
 音も無く舞い降りていく雪は、日の光と同化するかのように、色彩も薄い。注意しなければ、空から降ってくるものが何かすらわからないだろう。
「あの…」
 小さな声に視線を上げれば、やはりというか何というか、バジルはしゅん、と項垂れていた。
殿、先ほどはありがとうございました。拙者の力不足のせいで…」
「何言ってるの、バジルは悪くないでしょ。」
―それにバジルは、自分の力があいつらを傷つけることを避けたんでしょう。
 紡ごうとしたその言葉は、手元のココアと共に喉の奥へと流し込んだ。
 今、私たちは近所のスイーツカフェに訪れている。先ほどのお礼を、と言い張るバジルにとうとう負けた私は、恐縮ながら彼にご馳走してもらう事になったのである。本当に恐縮だが。
「おまたせしました。チョコレートパフェのお客様」
 ひょいと手を上げた私のもとに置かれたチョコレートパフェは、この店の人気メニューである。ふわふわとした、口どけの良い生クリームに、チョコチップの散りばめられたビターテイストのチョコアイス、そしてグラスの底に敷き詰められたコーンフレークの織り成す食感のハーモニーは、訪れる多くの女性客を魅了してやまない。
 そしてバジルのもとに置かれたのはモンブラン。ここの店のモンブランには、本場イタリアのマロンがふんだんに使用されているらしい。 そんな品を頼んでしまうあたりに、バジルの愛国心が垣間見える。
 ごゆっくりどうぞ、と立ち去るウェイトレスの後姿を目で追う。紺色のドレスに白のレースエプロンがよく映える、可愛らしい制服だった。
(ここでバイトしてみようかなあ。)
 ぼんやりとそんな事を考えていると、隣のテーブルに座る女の子に目がいった。彼女の視線の矛先は、私の目の前に座るこの男だ。私はまたか、とため息をつく。何故ならば、こんな事は日常茶飯事だからだ。バジルのその端麗な顔立ちは大勢の人間の目を引く。先ほどの男たちも例外ではない。なにしろ、バジルが女の子と間違われることはよくある事なのだ。
 と、私の視線を追ったバジルが、モンブランを食べる手を止めた。
「…?殿、どうかされましたか?」
「あ、いや…なんでもないよ」
  視線に気づいたのか、女の子は頬を赤らめてバジルから目をそらす。私はその様子を見ながら、チョコアイスの乗ったスプーンをくわえた。
「……?」
 未だ私の行動に引っかかりを感じるのか、バジルはきょとんと小首を傾げる。どうやら彼は、自らに向けられた視線に全く気づいていないらしい。この無防備ともいえるまっすぐさが、彼らしいといえば彼らしいのだが。
「それよりバジル、あーいうときはあんな奴ら無視しちゃっていいんだよ」
「え、でも…いいんですか?彼らは一体…」
「気にしない気にしない。ただのナンパだから。」
 私は掌をぱたぱたと振ってみせたが、バジルは「ナンパ」という聞きなれない言葉に戸惑っているようだった。正直、首を傾げて考えに耽るバジルは、とても可愛らしい。そんな彼を見ていると、自然にふっと口元が緩む。
「大丈夫だよ。またあんな目にあってたら、私が助けてあげるから」
 私のその言葉に、バジルは複雑な顔をする。
「…殿」
「ん、なに?」
「拙者は、まだこの国についてわからない事も多々あります。親方様に習った知識だけでは、拙者はまだまだ未熟なのかもしれない。」
 私は、バジルの言葉の意味を汲み取る事が出来ない。バジルは続ける。
「それでも、殿に助けて頂く度に思うのです。」
 モンブランの皿に向けられていた視線が、真っ直ぐ私の瞳を捉えた。
「今度は拙者が、殿をお守りできたら―と。」
 バジルの口元に、小さく、笑みが浮かぶ。彼を知らぬ者がその笑みを見てどう感想を漏らすかはわからない。ただそれは、無感情な冬の空とは決して相容れない、春のようなあたたかさ。
 ああ。どんな砂糖菓子よりも甘いこの笑顔を見ることができるのなら、私は何度だって彼を守ることが出来るのだ。そう―相手がたとえ厳つい強面のお兄さんでも、魔法使いでも、はたまたモンスターだとしても。チョコレートシロップのたっぷりかかった生クリームを舌の上で溶かしながら、私はそう思うのだった。



(070130)