水の底にいるようだ。辺りはほの暗く、微かな風が髪をそよがせる。灰色の雲の隙間から微かにもれた陽光のスポットライトは湖のところどころに当てられていた。息苦しいまでのもやもやとした空気が身体に絡みつき、ボートはその空気の波間を縫って進む。動きはひそやかだ。 目を閉じた沖田のなめらかな頬を涼風がなでてゆく。それでもこのじっとりとした空気のため、広い額は少し汗ばんでいた。小ぶりの鼻や唇と大きなまなこが不釣り合いにも見えるこの少年の顔には、どこかまだあどけなさが残っている。 辺りは薄暗かった。自然、景色の色彩は落ちついたものになる。視界の隅、ボートに腰掛けている少女の帯の茜色が、この情景で唯一といっても過言ではないほどの明るさだ。目を眩ませるほどのその色にちらりと目をやった沖田は、すぐに視線をオールに戻す。すれ違うように、今度は少女が彼に視線を向ける。ゆっくりと弧を描くようにして口元を緩ませた少女の肌はきめ細やかで、まるで繊細に作られた彫刻のようだ。 その時少女は薄桃色の着物を着ていた。白の花模様が刺繍された上品なもの。その襟元から、彫刻のものではない、生きた首筋がわずかにのぞいている。 彼女は、名をという。 ふっくらとした頬はほんのりと薄紅に色づき、まるで異国に咲く美しい花弁のようだと沖田は思った。漆黒の髪が彼女の手によって肩からさらさらと落とされる光景はどこか凛々しい。その中に潜ませた清楚な美しさはまるで妖精が形をとって現れたように見えた。 「暑くないのかィ?」 「平気。私、これでも冷え性なのよ。」 ほら、と言い終わらぬうちに触れた彼女の手は氷のように冷たい。心が温かい人間の掌は冷たいという噂は本当なのだろうか。沖田は雪のように白く細い少女の指先を握ってやりたいと切実に思ったが、残念なことに今彼の手元にあるのはボートのオールである。彼女の指先には触れることが出来ない。 「やっぱり、湖は神聖なものだわ。」 何を思ったか、どこかを見つめ続けながら彼女は言う。 「冗談だと思ってるでしょう?本当にそう思ったのよ。それにね、こういうことって誰かに言いたい。」 どうしてでさァ。静かに問うと、彼女の大きな瞳はひとつ瞬きをする。 「・・・言わないと、すぐに消えてしまうから」 その途端、沖田は衝撃に近いものを感じた。空気を震わせるその言葉、開かれた彼女の唇、真摯で温かな眼差し。そういう様々なものの裏に含まれた彼女の感情と自分の感情の向きが、まるでジグソーパズルを嵌めこんだようにぴったりと合ったのだ。誰かと気持ちを共有したい。言葉に出したい。 そして沖田は思う。「本当にそうだ」と。 昼近い湖は波がほとんどない。ぼんやりとした空のグレーを映してはいるが、水面はとても澄みきっている。水位は浅く、底に沈む砂利石も手を伸ばせばつかめそうだ。沖田はそっと舟を止め、二人は光のたゆたう水面にしばらく見とれていた。 ―――湖は神様の涙で出来ているの。 昨晩のことだ。二人が縁側で、何をするでもなくただ同じ時間を共有していた時。彼女はふとそんな言葉を落とした。 雨を神様の涙と喩える者はいようとも、湖をそれと例える人物を沖田は見たことが無かった。そもそも沖田は、幼い頃からどうにも神という存在を信じることが出来ない。彼の現実的な性格がそうさせるのか、そういった宗教に対する知識や関心は皆無である。抽象的な存在を認めることの出来ない、ある意味真っ直ぐな人間だったのだ。 ―どこかの国のね、大昔の神話にそう書いてあったわ。 ―・・・どんな話なんでィ。 たいしたものじゃないのよ。そう前置きをして、彼女はぽつりぽつりと話し出す。まるで優しく囁くように。子守唄を歌うように。 むかしむかし、とある貧しい小さな村がありました。村人たちは心優しい人間ばかりで、食料や家に恵まれてはいなかったけれど、それはそれは幸せに暮らしていました。 ところがある時、村人たちの頭を悩ませる事件が起こりました。雨が全く降らないのです。農作物はみるみるうちに枯れていき、 川の水は驚異的なスピードで蒸発し、皆の貧しさに拍車をかけました。そして彼らが何より嘆いたのは、 村の守り神が住む湖の水さえもが涸れ果ててしまったということでした。村人たちは困り果てました。このままでは皆死んでしまう。何とかしてこの危機を脱することは出来ないものか。 そう悩んでいたある日、ひとりの若者が村を訪ねてきました。彼は言うのです。「もう半月も何も口にしていないのです。行くあてもなく困っています。一晩で良いので、どうか泊めてはくださらぬか。」 村人たちはとても困りました。ただでさえ食料が少ないのです。彼に与えるぶんの食料すら危ういのに、果たして彼を泊めてもいいものなのか。しかし村人は皆心の優しい者ばかりでしたので、すぐに彼を泊めることに決めました。 「何も無い所ですが、どうぞゆっくりしていってくださいませ。」 自分をもてなす村人の痩せこけた顔を不審に思った若者は、何があったのかと尋ね、事の真相をすべて打ち明けてもらいました。すると若者は顔をくしゃくしゃにして涙を流し出したのです。 「私には皆さんを救う力はありません。救う手立ても知りません。何も出来ないことが悲しい。せめてどうか、どうか、涙を流させてください。」 すると突然、外から轟くような大きな音が響き渡りました。何事かと焦った村人たちが家を飛び出すと、なんと大雨が降っていたのです。 湖の水は溢れ出さんばかりにごうごうと流れ出し、農作物には潤いが戻りました。村人は大喜びして、そのまま皆で宴を始めました。 歌い、踊り、笑い、心から喜びあいました。 ひとしきり皆で祝いの杯を交し合ったあと、村の長たちは、若者をひとり取り残して来てしまった事を思い出しました。 慌てて家に駆け戻り扉を開けると、皆は目を見開きました。 その若者は跡形もなく姿を消していたのです。 ―それはね、若者の姿をした神様だったのよ。雨は神様の涙だったの。その涙で出来上がった湖は、 どんなに掬っても、どんなに暑い日でも、涸れることなく溢れ続けていたんだって。 そこで初めては沖田の方に目を向けた。何かを問いかけるように。 ―だから湖は、神様の悲しみと祈りを運んでいるんだと思う。 沖田は正直、その話を聞いて拍子抜けした。自分が想像したものよりもずっとありがちな内容だったからだ。けれど、その時のの表情があまりに生き生きとしていたので、拍子抜けをした自分に少しの罪悪感を感じつつ、その感情を悟られぬように勤めた。が、それを見透かしたようには表情を崩す。 ―ね、ありがちでしょ? 怒るでもなく悲しむでもなく、彼女はけらけらと笑う。まるで彼がそう思うことを見越していたかのように。 ―でも私はこの神話がとっても好きでね。 ―俺にはよくわかんねェや。 複雑な思いでそう述べる。率直な感想だった。すると、再度彼女は微笑みを浮かべる。 ―あはは、そうだろうなって思ったよ。総悟はそういうの興味ないもんね。 は優しげな笑みを浮かべていたが、しばらくするとゆっくりとした動きですっと口元を結ぶ。沖田は彼女のこういった一連の動きのすべてを、心から美しいと思っていた。柄にもないということは百も承知の上で、彼女の横顔に見惚れる。長く色素の薄い睫が、色白い目元に影を落としている。 ―ねえ、総悟。 凛とした表情で、遠く彼方の方面を見据えて。 ―明日、あの湖に行きたい。 そう呟いた彼女の真意は、今の沖田には分かりかねた。 魔法の湖には、以前にも何度か訪れたことがある。 沖田と、そして真選組局長の近藤、副長の土方の4人で、こうしてボートに乗ってこの情景を楽しんだり、夏には水辺に足を浸して水遊びをしたものだ。 魔法の湖は一年を通して人が滅多に訪れないことで有名の場所である。かといって廃れた所なのではなく、むしろ美しい湖と森の木々が並ぶ光景は、まるで外国の一枚の絵画のようだった。4人は―特になのだが―この静かな湖畔をとても気に入っていた。 「魔法の湖」とは、周辺の町に住む人々がこの湖につけたあだ名のようなものであり、別に誰かがこの場所で魔法使いを見たなんていう話があったわけではない。あの森と湖が醸し出す神秘的で幻想的な雰囲気が、まるで魔法使いの隠れ家のようだというイメージを持たせるのだ。故にこの場所を怖がる人間も多く居る。それが、魔法の湖に人が寄り付かない大きな理由だ。 は、この湖から香る優しい匂いが好きだった。けれど、あれが何の匂いだったのかは今でもわからずじまいのままだ。 そして今、あの時とは違う鉄のような匂いが、冷たく記憶をかき回すように二人の間を漂っている。 思い出は優しすぎた。あの頃、皆で笑いあった日々に思いを馳せるだけで胸が締め付けられる。帰る場所はあるというのに、温かく迎え入れてくれる人たちが居なくなってしまったという冷酷さは、まだ幼い二人にとってひどく重い現実として圧し掛かっていた。幼い二人は、大事な仲間たちを失ってしまったのだ。同時に、思い出は切なさに支配される。 もう、4人で湖に来ることも、水遊びをすることもない。 喧嘩をする土方と沖田を宥める優しい近藤はもういない。文句を言いながらも、この湖につきあってくれていた土方はもういない。もう二度と帰ってはこないのだ。 湖面を雨が叩き始めた。空を仰ぐと、黒に覆われた雲が上空を覆っていくのが認められる。通り雨だ。 顔を打つ雨はさすがに冷たかった。は自分の濡れた身体を拭く為に、ポケットから小さなハンカチを取り出している。 「泣けよ」 感情の無い彼女の瞳がこちらを向いた。オールを握る掌にいっそう力が籠もる。 「泣けばいいじゃねえか」 は目を見開いた。予想外の言葉だったのだろう。瞬間、彼女の心の内を反映したかのように、湖を囲うようにして生い茂る森の木々の間からたくさんの鳥たちが舞い上がっていく。どれもこれも耳障りな鳴き声を上げながら四方八方へと飛び回る。 「…泣かないわ」 今度は沖田が驚く番だった。泣かないだなんて、何故そんな事を。そんなに辛そうな顔をしているのに? そんな彼の心中を悟った上でか否か、はなおも続ける。 「泣くわけないじゃない。言ったでしょう?私の代わりに、神様が泣いてくれてるのよ。」 気が緩んだのだろうか、からハンカチが離れていった。彼女の指先を離れ、ふわりと宙に浮く藍色のハンカチ。それは境界などない透明な水に柔らかく広がり、美しい波紋を描きながら水上をたゆたう。は、漣も立たない静かな水面に指先を浸した。そしてためらうかのようにその冷たさから引き上げる。ボートがうねるように揺れる。波打つ水。辺り一面に森のにおいが圧し広がった。 顔を上げた彼女の頬には、雨の雫が伝っている。 「これはお別れじゃないよ。少しの休暇だと思う。」 一呼吸おいて、彼女は一言だけ零す。 「だって、きっとまた会えるでしょう。」 彼女の頬を伝ったものは、本当に雨だったのか。 水面に揺れるハンカチの行方。 憂いを帯びた瞳の理由。 すべての答えは、白のオーロラにのまれた。 辺りは夜の海に沈んでいくように静かに暗くなっていく。 天から降ってくるのか、地から舞い上がってくるのか、二人の周りを白い霧が覆いだす。ミルクを流したようなそれは、互いの表情をぼやけさせるほどに深く濃い。 どこからともなく蒼く切なく小さな光が灯った。一つ、二つ、青白い小さな光がいくつもいくつもふえていく。ゆらゆらと天を頼って漂うのか、水の底に帰ろうとするのか。蒼く切なく漂っている。少女が手を伸ばしてその光を捕まえようとすると、その両手は宙を泳いだ。幾つもの小さな光はゆらゆらと天に向かって登っていく。――――そして、見覚えのある懐かしい人たちの影も。 そこでようやく、二人はあの頃に香ったやさしい匂いの正体を知った。 まぎれもなくそれは、誰かが放った魔法の匂いだったのだ。 優しい記憶の中に紛れ込んだ、懐かしい匂い。 誰も居ない湖で、二人は青白い光の中に沈んでいく。 「・・・・・・さようなら、十四郎さん―――」 ああ――やはりそうなのだ。 彼女が欲しているのは、目の前に居る俺なんかじゃない。 070307→修正 070821 |