クリーム色のカーテンの隙間から洩れる夏の強い日差しで、僕は目を覚ました。
 まどろみながらも、僕の目は現実を捉えていく。時計の針は午前11時を指していた。寝癖で乱れた髪を掻き毟って、生ぬるい水道水で顔を洗い、食パンを頬張る。19歳。希望も夢も眩しいだけで、僕の心までは揺さぶらなかった。
「不二くん」
 声をかけられて、はっとして僕は振り返った。合鍵を渡してあるのでインターホンを鳴らす必要がない。だから、声をかけられるまでまったく気づかなかった。
、何かあったの?」
「何かないと来ちゃだめなの?」
 少しだけ頬を膨らませて、彼女は僕を見つめる。来てくれてありがとうとは中々言い出せない。つい、曖昧な言い方になってしまう。
「おみやげだよ」
 そう言った彼女の腕の中には、コーヒーの香りが漂う紙袋があった。
「ここに来る途中にコーヒー屋さん見つけたから、買って来たの」
 僕は、これといってコーヒーが苦手なわけではない。けれど、どちらかというと紅茶のほうが好きだった。彼女もそれを知っているはずだ。
 ああそういえば、は紅茶が苦手なんだっけ―コーヒーの苦い香りに包まれながら、僕はその事実をぼんやりと思い出した。



「強く思えば、それは相手に届くのよ」
 は静かに、つぶやくようにしてそう言った。とぎれとぎれで、吹けば飛んでしまう枯葉のような、弱々しい声だった。
 は手を皿の端に軽くそえて、もう片方の手で皿の上に乗ったコーヒーをスプーンでずっとかき混ぜている。さっきからずっとそうしている。時々カチャカチャという音が聞こえた。
 この部屋には今、音楽が流れている。ショパンの別れの曲。彼女の好きな落ち着いた曲。それでも彼女の細々とした声は、その静かな曲にさえかき消されてしまいそうで、酷く聞き取りにくかった。
 彼女は顔をふせてコーヒーの渦の中心のあたりに視線を落としていたが、目は虚ろで、どこかもっと遠くを見ているような―あるいはどこも見ていないといったような―そんな感じがする。
 はコーヒーをかき混ぜながら話を続ける。話というのは彼女の祖母のことだ。は自分のことも、家族や友人のことも全くと言っていいほど話さないが、今日は特別だった。
 彼女の祖母は四年前に交通事故で亡くなったらしい。
 僕が知っているのはこれだけで、他には何も知らなかった。彼女と付き合い始めて半年ほどになるが、結局彼女について知っていることなんてほんの僅かだった。無論僕は、彼女の祖母には一度も会ったことはなかったし、顔さえも知らない。
「私とおばあちゃんはよく喧嘩をしたんだけど、あるときにね、一度だけ強く思ったことがあるの。おばあちゃんなんて居なくなっちゃえばいいって。そうしたら、その次の日、おばあちゃんは―」
 そこまで言って、はついに黙ってしまった。その手は相変わらずコーヒーをかき混ぜている。
 でもね、と彼女は言う。大切なおばあちゃんだったのよ、大好きだったの。
「…どうして私、あんなこと思っちゃったんだろう」
 泣きそうな声だった。
 は顔を上げて、コーヒーに向けていた視線を僕に移した。そして少しの間僕を見つめた後、今度は顔を右に向けて窓の外をじっと眺めはじめる。目も鼻も細い顎も、どれをとってもきれいに整っていて、くっきりとした輪郭を保っているのに、全体を見るとどこかおぼろげで、すぐにでも光の中に溶けていってしまいそうな、そんな印象を受けた。
 強く思えば、それは相手に届くのよ。はもう一度繰り返す。だからおばあちゃんは死んじゃったの、と悲しそうに笑った。



 その日の夜、彼女は僕の部屋に泊まった。
 僕は柔らかい布団の中で、折れてしまいそうな彼女の細い身体を抱きしめる。の身体を抱いているときが、僕の心が一番安らぐときだった。
 時々彼女が目の前にいても、本当にそこにいるのか不安になるときがあったのだ。ほんの少し目を離した瞬間にそのままどこかに消えていってしまいそうな、存在の希薄さのようなものが彼女にはあった。こうして彼女に触れて、彼女の体温を感じているときにだけ、は確かにここにいるのだと自分に言い聞かせることができた。
「不二くん」
 が僕の腕の中で寝返りをうつ。
「私ね、最近よく夢をみるの」
「どんな夢?」
 僕が笑うと、彼女も淡く笑った。
「真っ黒な世界に一人ぼっちでいる夢」
 でもね、とは続ける。
「声が聞こえるの。不二くんの声が。必死にね、私の名前を呼ぶ声」


 次の日目を覚ますと、僕は身体を起こして胸に手をあてた。鼓動が早まっているのを感じた。
 夢を見たのだ。が、泣きながら助けを求める声。
 横で寝ていたがどうしたのと尋ねる。僕が黙っていると、寝惚け眼のまま、悪い夢でも見たの?と訊ねてくる。
 僕は少し考えてから、真っ黒な世界に一人ぼっちでいる夢だったと呟いた。
 彼女はじっと僕の目を見つめた後、そう、とつぶやいてふたたび瞼を閉じて、そのまま眠ってしまった。
 ――強く思えば、それは相手に届くのよ。
 僕はのその言葉を思い出していた。
 そして穏やかに寝息をたてる彼女のあどけない顔を見て、僕は彼女のために願おうと思った。彼女が幸せになれるように。笑っていられるように。
 それは言葉にするとひどく陳腐なものに思えた。口に出しただけですべて嘘になってしまう、そんな気がしたから、僕はただ心の中で願うことにする。
 の細い指先を握りしめる。彼女のぬくもりがそこにあった。
 僕は願う。彼女のために、この願いが届くように、何度も何度も強く。




「ゆりかごのうた」
(070813 →140322修正)