もうじき冬が来る。はふと、そう感じた。
 凍えそうなほどの冷たい風が、色を失った草を揺らして、乾いた音を立てて通り過ぎていく。 冷え性の彼女は身ぶるいをひとつして、こすり合わせた小さい両手に温かい息を吹きかけた。
 は四季そのものを愛していたが、中でもよりいっそう冬の朝を好んだ。 柔らかい朝の陽が透明な空気に溶け込んで、半透明のオーロラの如く地上に舞うその情景が好きなのだ。
 まだ誰もいない庭。聴こえるのは自身の呼吸音、遥か遠くで鳴く鳥たちの声のみだ。 風の音ひとつない静寂の瞬間に、は目を閉じて身を委ねる。朝靄に溶け込むかのように。 冷たい空気と、ミルクを流したような白い靄が互いに結びあい、ビロードのカーテンとなって世界を柔らかく包んだ。
 戦いの間のつかの間の休息。ゆっくりと流れていく雲と時間にわずかな眠気を覚えて、はひとつ息を吐いた。 まだ朝陽も上りきっていない刻限である。
「やあ、早いな」
 背後から降ってきた聞き慣れた声に振り向くと、 障子を背に穏やかな笑顔がを見下ろしている。
「隊長!お身体に障ります、御戻りください!」
「今日は調子がいいんだ」
 隊長はの言葉に耳を貸さず、の隣に腰を下ろした。縁側の床が少しだけ軋む。
「……眠っておられるのかと思っていました。連日の戦いでお疲れでしょうに」
「俺の心配より自分の心配をしたらどうだい?顔に疲れが出ているよ」
 その言葉には慌て、咄嗟に自分の顔に手を当てた。隈でもできているのだろうか。 恥ずかしいものを見られてしまったという羞恥心と、この人には不格好な自分の姿を晒したくないという、 恋い焦がれるが故の感情が、ますますの頬を紅色に染めていく。
「…私、そんなに疲れた顔してます?」
 右手で顔を隠しながらそう問うと、隊長は表情を崩しながら、
「疲れた顔というよりかは、林檎のような顔をしているぞ、今のお前は」
 と、笑いを滲ませた声で告げた。
「か、からかわないでください!」
 はとうとう耐えられなくなり、顔を真っ赤にしながら思わず立ち上がった。 声は知らず知らずのうちに大きくなっていた。 しかし隊長は動じることなく、なおもおかしそうに彼女を見ている。
「すまないすまない。ほら」
 隊長は右手で自分の隣をぽんぽんと叩く。は口を尖らせながら、また彼の隣に腰を下ろした。

「…じきに冬が来ますね」
 は両の手を握り合わせた。その指先は、氷の粒に触れたときのような冷たさを帯びていた。
「最近、肌寒くなってきたからな」
「ええ。私、冬が一番好きなんです」
 空気が澄んでいる冬の朝は特に。
 なんとなしに理由は言わなかった。彼は理由を問うかわりに、
「これは奇遇だな。俺もだ」
 といって、静かに笑った。
 たおやかな気品を漂わせたその微笑みに、は言葉を返す術も忘れて見入ったが、 すぐさま唇を噛みしめて俯いた。そうしないと、今にも涙が零れてしまいそうだった。
 あなたはこんなにも、まばゆい。
 この人のことが、どうしようもなく好きだ。

 怪訝に思った隊長が、の顔を覗き込む。彼の目には、が無理をしているように映ったのだ。
「どうかしたのか、
「……何でもありません」
「顔色が優れないぞ。疲れが溜まっているなら、もう休みなさい」
 お前の頑張りようは、俺が一番分かっているんだからな。そんな言葉と共に、 の頭を隊長の大きな手が慈しむように撫ぜる。その眼差しも手の温度も、 ひどく優しくて温かいものだ。しかしは、彼の優しさに触れるたび、 悲しみに似た痛みをその胸に感じるのだった。
 隊長は事あるごとにのことを気にかけていた。 自身もそれを十二分に感じ取っていたが、彼女にとってそれは至福というよりも、 胸を痛める一因と言ったほうが正しかった。彼から見た自分はおそらく、 愛娘のような存在であるのだとは思っている。

(私の隊長への想いと、隊長の私への想いは違うんだ)

 この人は、私のことなど見ていない。
 がその事実に触れるとき、それは紛れもない痛みとなって彼女の心臓を刺した。
(仕方ないことよね。私はただの一隊士で、彼は隊長なんだもの)
 彼は謙虚だ。だから皆隊長を慕い、彼も皆に優しく平等に接する。それは部下であっても変わらない。 権力を振りかざし、驕り高ぶるなどもってのほかである。部下を見下すことなどしない人なのだ。
 それでも、の中に高く聳え立つその壁は消えることなく、鎖の如き重さで彼女の心を締め付けた。 変えようのない身分の違い、揺るぎ無い立場の壁を目の当たりにすればするほど、 眩暈を伴うほどの切なさに飲まれそうになるのだ。
「……隊長には、一生分かりません」
「何がだ?」
 が独り言のつもりで呟いた言葉―とても小さな、耳を澄まさないと聞こえない程度の音量のもの― を器用に受け止めた隊長は、すぐにそう聞き返した。
余計なことを言うんじゃなかったと、は瞬時に後悔した。
「いいえ、何でもありません」
 ううん、と隊長は心底困ったように首をかしげた。
「お前にそんな辛そうな顔をされて、黙って見て見ぬふりをするわけにもいかん」

(ああ。)
 は思わず目を閉じて、震える瞼の内に大粒の涙を閉じ込めた。

――なんて、
なんて、やさしいひと。

 その何気ない一言が、の心を柔く甘く締め付ける。


「……お慕いしている人がいるんです」
 隊長はほんの一瞬目を見開いたあと、少しだけ目を伏せて、そうか、と相槌を打った。
「私はその人のことがとてもとても好きなんです。けれど、とても遠い人なんです」
 私なんか、一生手の届かないくらいの。
「……その人、きっと私のことなど少しも見ていません。それでも、」
「好きなんだろう」
 言葉の変わりに、ゆっくりと頷く。
「そうか」
 隊長は静かな声でそう呟き、瞑想するかのようにそっと瞼を落としてしばらく黙りこんだ。 そのまなうらには何が見えているのだろう。は肩身の狭い思いをしながら、 膝の上の拳をぎゅっと握りしめた。沈黙が苦手なのだ。
「お前は、その気持ちが俺にわからないと言いたいのかい?」
 しばしの間をおいて口を開いた隊長の言葉に、は全身が硬直するのを感じた。 隊長の機嫌を損ねてしまったのだろうか。そう思い、震える手を握り締めて謝罪を口にしようと顔を上げた。
 しかし、その心配も杞憂に終わる。彼女の目の前には、いつもの優しい笑顔があったからだ。
「俺だって、十分わかるさ」
「…お言葉ですが、隊長には分からぬ事だと思います」
 軽薄で身の程知らずな発言だと知りつつも、はどうしても言わずにはいられなかった。
 ありったけの勇気を振り絞って、本人に気持ちを伝えたというのに― それはひどく遠回しな言い方ではあったけれど―彼はそれに微塵も気付いた様子はない。 彼女はそのことにほんの少しだけ、苛立ちに似たもどかしさのようなものを感じてしまっていた。
 隊長は、の言葉に目を丸くする。そしてしばらく黙って腕を組んでいたが、やがて
「俺も、随分と甘く見られたものだなぁ」
 と、ぽつりと呟いて朗らかな笑い声をあげて立ち上がった。
 は密かに左胸のあたりを握り締めた。彼の穏やかな顔を見上げることができないまま、ただ俯いている。
「……分からなくていいのです」
 たったそれだけの言葉を発するのに、幾分か時間を要した。
「分かるよ」
 想像以上に早い返事、むしろ即答といったほうがいいだろう。その迷いのない言葉に、 は思わず隣に立つ隊長を見上げた。先ほどまでの朗らかな表情はどこにもない。 そこにあるのは、いつになく真剣な面持ちだけだ。その双眸は細められ、唇は真一文字にきつく結ばれている。 その唇がもう一度、「わかるよ」と繰り返した。まるで自分自身に言い聞かせているような、 重く静かな声音。彼はのほうを見ようとはせず、ただじっと遠くを見据えていた。
。俺は」
 はすぐにその変化に気がついた。彼の声のトーンがいくらか下がったのと同時に、彼と、 彼自身を取り巻く目に見えない空気のようなものがわずかに揺れたのだ。 それはほんの微々たるものではあったが、同時に彼女の心臓を鷲掴みにするほどの力を持っている。 言わずもがな、それは霊圧などではない。
「――いや、何でもない」
 隊長はにぎりしめた拳を解いて、の頭を撫でた。
「隊長…?」
「すまない…忘れてくれ」
 彼は自嘲の色が浮かぶ瞳をこちらに向けて、薄く笑った。
 それでもは辛抱強くその言葉の先を待った。けれどそれきり、隊長は何も言わなかった。




Love for Captain Ukitake./08`01.20
(目映い…光り輝くほど美しい / 広辞苑より)