副長室と書かれたプレートの掛かっている部屋の前で、総悟は腕組みをして壁に寄りかかっていた。
 少しうつむくと、触り心地の良さそうな前髪がはらりと睫のあたりまで落ちてくる。彼はそれを鬱陶しそうに左手の甲で払い退けた。 鮮やかな色が太陽の光を反射してつややかに光っている。
 キャラメルをメープルシロップで薄めたような、甘くくすんだ色の髪からは、微かに梅の花のにおいがした。
 四月の日差しが柔らかく差し込む廊下は暖かさに包まれているが、それでも日陰に居るとひんやりとしている。

 軽い音を立てて、副長室の襖が開いた。中から出てきたのはだった。彼女は黒目がちの目で自分より少し背の高い総悟を見上げて、
「こんなとこで何やってんの?」
 と、いぶかしむ色を隠さず問いかけた。
「ちょっくら、姫様をお迎えにねィ」
 大きな目を細めて総悟は笑った。
 はますます眉を顰める。普段はめったに笑わない彼の口元に楽しそうな笑みが浮かぶとき。それは大方、自分がひどい目にあわされるときだからだと知っているからだ。
「私に何か用でもあるの?」
 恐る恐るそう尋ねると、総悟は答えを返す代わりに、腕に引っかけていたビニール袋からプラスチックのパックを2つ取り出してのほうに掲げて見せた。
 彼女はそのパックをちらりと見て、それから総悟の腕にかけられているビニール袋に目をやる。 半透明のそれには、でかでかとした文字に鮮やかな朱色で「魂平糖」とプリントされている。
(…サボりか)
 はその場でくるりとまわれ右をして、その場から離れようと足を 動かした。が、それよりも一瞬早く、背後から強く肩を掴む手があった。総悟はにっこりと笑い、ぐっと肩に置いた手に力を込める。それでも、女である彼女を思いやって のことだろう、力の加減は優しいものではあったけれど。
「…放してよ」
 それでもなおその手から逃れようと身体を捩るを見て、総悟はますます楽しくなり、悪戯半分に背後から目の前の小さな耳に唇を寄せる。
「逃がしやせんぜ」
 熱を含んだ低い声。意地悪な笑いを口元に浮かべながら耳元で囁く総悟の頬を、すぐさまの手のひらがぺちんと叩いた。 さすがの彼もそれは予想だにしていなかったのだろう、「いてっ」と小さく声をあげる。

「勤務怠ることなかれ。局中法度見てきなさいよ。私まで土方さんに怒られちゃう」
「…何でィ、可愛くねェや」
「可愛くなくて結構。私は勤務に戻るからね」
「悲しいもんでさァ…全てはお偉いさんの仰せのままにってやつですかィ。個性を殺すこのご時世の被害者がここにまた一人…」
 悲痛な表情を作りながら、演技がかった声で嘆きだす総悟に、はやれやれと言わんばかりの白い目を向けた。
「…総悟。ふざけてばっかいると、いい加減ほんとに怒られるよ?」
「誰もサボろうなんて言ってねェ。ただちょっとエネルギー補給を兼ねて糖分摂取と適度な睡眠を…」
「同じでしょうが!」
 大声で正論を突き付けられたにも関わらず、総悟は「ちったぁいいだろィ」と不満そうな声で呟き、それに次いでひたすらに文句を並べる。 ノリ悪女。くそ真面目。そんなに無愛想だとモテませんぜ。可愛くねェ奴。馬鹿。阿呆。 最終的にはただの悪口になり下がっている。根拠もない悪態に頭を抱えながら、は仕方無く彼の隣に腰をおろした。 途端に総悟の表情が変わる。さっきまでのふてぶてしい態度が嘘のように思える。
「おっ、さすがは別嬪と評判のさんでさァ!」
「ん?さっきまで可愛くないって言ってたのはどの口だったかな?」
「え?どっかのマヨラー男の口じゃないですかィ?」
 飄々とそんなことを言って総悟は笑った。珍しく毒のない笑顔。機嫌がいいのだろうか。
 そんなことを思っているうちに、彼は二つのパックのうち一つを自分の膝に、もう一つを私の隣へ置いた。つやつやとしたみたらしのたれがたっぷりかかった、 美味しそうな団子が詰められている。
「そいじゃ、頂きやす」
 丁寧に両手を合わせてそう言い、パックにかけられていた輪ゴムを指に引っ掛けて、ぴんっと庭のどこかへ飛ばす総悟。 普段は適当なくせに、こういう何気ないところはちゃんとしているんだから、とは思う。もちろん、輪ゴム飛ばしは別として。
 食事時に限らず、彼は挨拶を欠かさない人なのだ。少なくとも彼女に対しては。(果たして彼が、他の隊士に対しても同じ態度をとっているかは分からない。 隊舎内で総悟が他の隊士と会話している場を、はあまり見たことがなかった)
(…それにしても、私はお腹すいてないんだけどなあ)
 食べざかりの総悟はさっさと団子を頬張りだしたが、はあまり食欲が湧かなかった。 なにしろ朝食を食べてまだ数時間しか経っていないのだ。それでも、あの総悟がせっかく準備してくれたものを一口も食べないのは申し訳なく思えたので、 少しだけでもと団子の串に手を伸ばした。――その手をぺちんと叩かれた。

「は?」
「誰がやるっつった」
 これは全部俺のもんでさァ。なんてことのないようにそう言ってのける彼の意地悪な笑みといったら。狐も真っ青のにやり顔である。
 は無性に悔しくなり、わざと嫌悪感を露にしつつ彼との距離を取った。油断して近付くと、またタチの悪い悪戯を仕掛けられそうだ。警戒せざるをえない。 総悟はそんな彼女を横目でちらりと一瞥したが、特に気にする様子も見せず団子の咀嚼を続けている。しかし、口の中の団子をごくりと飲む込むと、の心の声を読み取ったのか、
「俺はお前にやるなんざ、一言も言ってねーだろィ」
 と言って、例の意地悪な笑みを浮かべ、また一つ団子を頬張った。もぐもぐと動く口元からは、心なしかみたらしの甘い匂いが漂ってくるような気がする。
「あんた…本当何しに来たのよ」
「暇つぶし」
 迷いのない即答である。
 は心底呆れながら腰をあげた。これ以上この男に付き合うわけにはいかない。さっさと勤務に戻らないと、またあの口うるさい上司に怒鳴られるのは自分なのだ。 あの耳に響く大声を聞くのはごめんだった。
「どこ行くんでィ」
「別に。これ以上総悟に付き合ってたら、時間を無駄にしそうだなあと思って」
 ささやかな仕返しのつもりで、嫌味を投げかける。総悟はしばしの間彼女の顔をまじまじと見つめていたが、やがて視線をふいっと団子の詰められたパックに戻すと、 淡々と言葉を発した。
「まあお前が何しようが、俺には関係ねェや」
 その言葉はの胸を深く抉った。その突き放した口調のなんと恐ろしいことか。他人との壁を見せつけられることは、彼女にとってひどく悲しいことだ。 それと同時に、自分の中に明らかな苛立ちが生まれたことにも気づいていた。(用もないのに絡んできて、突然突き放すなんて。なんて勝手なのだろう!)
 けれど、あまりにも飄々としたその横顔に、結局怒る気も失せてしまった。今度こそその場を立ち去ろうと数歩歩き出したとき、
「―っつーのは嘘」
「え?」
 聞こえた呟き声に、は思わず背後を振り返った。ガラス玉みたいに何も感情をうつしていないことの多い瞳が、冷たい炎を灯してゆらゆらと揺れている。 透きとおった瞳に灯る、深く美しい緋色。その射抜くような視線に、は目を逸らすこともできないまま立ちすくむ。

 そんな声で名を呼ばないで。そう思った時には、既に総悟の強い力によって腕を引き寄せられていた。
「…何してた」
 は何も答えられず、ただ呆然と立ち尽くす。いつもとは違う総悟の瞳に、声に、のまれてしまっていた。落とされた言葉の意味すら理解することができない。
 何も言わないに少しだけ苛々した様子で、総悟は彼女の腕を掴む手に力を込めた。
「じゃ、質問変える。あの野郎に何された」
 そこでようやく、はその言葉の意味を理解した。自分はつい先ほどまで、副長室に呼ばれていたのだ。
「なにって……別に、書類の残務整理を押し付けられてただけよ」
「……こりゃあ、とんだ幕府の犬だねィ」
 震える声で返された返事に、総悟は吐き捨てるように嫌味を口にする。気に食わないと言わんばかりのしかめっ面。あまりにも唐突な問いかけと、傍若無人な その態度にむっとしたは、反論の意を含ませながら言葉を返す。
「総悟だって同じでしょ。それに土方さんは幕府っていうより、上司じゃない」
「俺にとっては、どっちも同じようなモンなんでね」
 俺ァそんなモンに縛られる人生なんざごめんですぜ。そう言った総悟はひどく冷めた顔をしていた。
 は、既に自分から離れた総悟の視線を追って、(彼は庭の奥にある池のあたりを見つめていた。きっと意味はないのだろう) そしてもう一度彼のことを見上げた。自分の中に生まれた疑問をぶつけるために。
「どうして…?土方さんの言うことを聞くのが、そんなに嫌?」
 純粋な疑問である。彼女は土方の口煩さこそ苦手ではあるが、彼という人間を嫌悪したことは一度も無かった。冷たく取っつき難い印象ではあるものの、本当は 真面目で努力を怠らない堅実的な人であり、不器用なだけで根は優しいのだということも知っていた。そんな土方に、は絶対の信頼をおいていた。
 が、その言葉を聞いた途端、総悟の目がすっと細められる。冷たい、氷のような視線に、はまたもや肩を強張らせた。拳を強く握り締めて、目の前の恐怖に耐える。
「へえ…じゃあお前はあれですかィ。土方さんが「俺と付き合え」っつったらそれに従うってか?抱きたいなんざ言われた日にゃあ、お前はそのままあいつに抱かれるってか」
「ばか、そういうこととは話が、」
「違わねェだろ!」
「……」

「総悟」
 震えるその手にそっと自分の手を重ねて、自分が出せるだけの精一杯の優しさを込めて彼の名を呼ぶ。
「どうしたの」
 そう呟くのが精一杯だった。
「……お前だけは、あいつに取られたくないんでさァ」
 本当に小さな声で呟くと、総悟は俯いた。白くて骨張った指が、の手を強く握りしめる。
 握られた手のひらから伝わる力と痛みが、総悟の心の叫びに思えて、は途端に目頭が熱くなった。 彼の、幼き頃からずっとずっと誰にも言えなかった「行かないで」という心の叫び。
「ごめんね」
 どこにも行くはずなんてないのに。
 は黙って手を伸ばすと、眩しいキャラメルの髪を撫でてやった。白い指先にこもる力がまた強くなる。


幼き庭の
(080201)
続きます/Coming soon.