俺は人間じゃない。
 こんなに人間と瓜二つな身体を持っていても、自分は確実に彼らとは違う存在だ。どんなに想ったとしても、道を交えることはない。別れの時は一瞬でやってくる。だから俺は、人間と深い関わりを持つことを昔から拒絶していた。
「蓮くん」
 れんくん。は俺のことをそう呼んだ。澄んだそのソプラノが耳に届くと、静かだった胸がはねる。鼓動が際限無く高まるのだ。それはまるで、水面に水滴が落ちたときの、波紋が広がる様子に似ている。この感覚はあまり好きではない。自分が、彼女という存在に魅了され、引き込まれているのだという、あってはならない事実を冷たくつきつけられているようで。
「こっち」
 少し離れたところで、が手招きをしていた。
「どうしたんだよ」
 未だ高鳴る心臓を抱えながら彼女の背後に立つ。それを悟られないように、わざと気だるげに隣に腰を下ろすと、彼女はさっきまでひらひらと動かしていた手を耳元にもっていき、細くやわらかい髪を右耳にかけた。長い黒髪が除けられて、白いうなじがはっきりと見える。眩しいほどの黒白のコントラストに、思わず目をそらした。
 田舎道ということもあって、辺りには俺たちのほかに誰もいない。すぐそばに生い茂る木々が風に揺れる音、それから、遠くでこだまする鳥の鳴き声が聞こえるばかりだ。太陽は既に沈みかけていて、刻々と空は赤みを帯びていく。夏を過ぎ、日が落ちる時刻は日に日に早まっていた。
「ほら、彼岸花」
 彼女が身を前に乗り出して言った。
「私、この花好きよ。とってもきれい」
「…そうか?」
 変わった子だ。少なくとも、俺の見てきた数多の人間の中、彼岸花を嫌悪こそすれど、好きだという少女など見たことがなかった。
「おまえ、その花は毒持ってんだぜ。それに……」
 その先に続けようとした言葉を胸の中で呟くと、茫漠とした恐れが胸を締めた。俺は深く息を吐き、口を開く。
「死人花とか、地獄花って呼ばれることもある」
 しばしの沈黙のあと、は「そう」と言って、それきり黙りこんだ。空気が冷たい。その冷たさが、名状し難い不安を誘った。
「…まあ、地獄行き決定の奴が、こんなこと言う筋合いなんかねえけどな」
 誰が?とでも言いたげな彼女の視線に応えるように、俺は自分自身を右手で指さした。
「…別に私、嫌いじゃない。地獄だって」
 そしてしばらく間をおいたあと、蓮くんと一緒なら。小さな声でそう付け足した。
 俺の不安を見透かしていたのだろうか、の手が俺の手に重ねられる。ああ、勘のいい女は嫌いだ。それでも彼女は、俺の発した言葉の真意を永遠に知ることはないだろう。
 少しばかり躊躇いを覚えながらも、俺はその優しいぬくもりに酔いしれる。ふと、いつか輪入道が言った言葉を思い出した。
 ああ。確かに泥沼のようだ。焦がれる相手のぬくもりというものは。
「なあ、
 静かに声をかける。知らんふりをしているだけなのか、気づいていないのか、彼女は何の行動も起こさない。痺れを切らした俺は、目の前の華奢な身体を掴んで、自分のほうに向かせた。少しだけ驚いたような瞳が俺の顔を覗き込んでいる。心臓が高鳴る。
「好きだよ」
「うそ」
 今まで黙っていたは、強い口調で即答した。
 間を置かずに返された、迷いのない言葉。見たところ、動揺した様子も照れた様子もない。普段はあんなに、些細なことで照れて顔を赤らめているような子だというのに。初めてのことに、逆に俺のほうが怯んでしまった。彼女はそんな俺に、困ったような微笑みを向ける。
「蓮くんには、もっと大事な人がいるような気がするもの。」
「何でそんなこと、わかるんだよ」
 絡めた指先が、じわじわと熱で汗ばんでいた。
 そうね。きっと。
「好きだから」
 蓮くんのこと、誰よりも一番に。




――――蓮くん。
 諦めていたはずだった。拒絶したはずだった。
 もう、彼女に俺の声は届かない。
 あの小さな手には触れられない。
 何度も願った。俺の体温に溶けて、この記憶も滲んでしまえと。
 けれど。
 左胸が軋む。赤く染まる夕暮れに触れた、彼女のぬくもりと共に。
 
「俺さ」
 地獄の夕暮れに揺れるたくさんの彼岸花。視界は深い緋色に包まれて。まるで血に染められたように、あるいは燃えるように、辺り一面は赤一色に塗りつぶされ、眩しいほどの強い赤が俺の目を焼く。彼女のことを思い出すのは、それだけで十分すぎた。
 拳を思いきり握り締める。
「お前のこと、本当に好きだったんだ。」
 俺はきつく目を閉じた。思い出に残る彼女の影を振り払うように、強く、強く。
 まなうらの熱は未だ冷めずにいる。



の枷/080223