次第に明るみを帯びていく空が美しい夜明けの頃だった。真夜中のネイビーブルーに塗りつぶされていた窓の外。深藍色は次第に零れ出す朱の光に薄く溶かれ、地平線の奥から射す眩い陽の光が、朝と夜の境界を静かに橙に染めていた。 温かなベッドに包まれ、まどろみと現の狭間で揺れながら、私はその場景を見ていた。 ふと、すぐ隣で彼女が寝返りを打つ気配を感じる。の視線が私のほうに向くのを察して、思わずふっと目を閉じた。 「クローム」 は小さく私の名を呼んだ。その声に再びゆっくりと瞼を開く。視線は、すぐ近くにある桜色に色づく唇を捉える。 「……起きてるわ」 「うん、知ってた」 明け方は肌寒い。彼女は布団を深くかぶり直し、すり寄るように私のほうへと身を寄せた。の体温が私の身体へ、布地越しにじんわりと滲む。 「あのね。出かけたい場所があるの」 思わず彼女の顔を凝視した。一瞬、聞き間違いかと自分の耳を疑う。 は外出することを好まない。必需品の買い出しは常に私の担当であったし、彼女が自ら外へ足を向けるところを私は数えるほどしか見たことがなかった。その理由を問おうとは考えもしなかったし、問いたくもなかったが、私の心にあるほんの僅かな疑問の念を、は感じ取ったのだろう。人の感情の揺れに対し、彼女は悲しいほどに鋭敏だ。 “出る必要がないのよ。ここだけが私の世界だもの。” そう言って陰りのある微笑みを作った彼女が今、自分から外の世界へ出かけたいと確かに言った。その事実への驚きは多大なるものだった。 「聞こえなかった?今日、あなたと一緒に出かけたい」 反応が出来ずに目を見開いたままの私を見て、おかしそうに繰り返す。何の前触れもなく呟かれたその言葉の意図はまるで掴めない。 「…どこへ?」 私のささやかな動揺を見透かすようにが薄く笑みを浮かべる。 「水族館」 . ○ ・ 。 . ・ ○ . ・ . 「サンゴ礁の海」という名の展示水槽の前で、私たちは極彩色の魚たちを眺めている。 ひとつ上のフロアの屋外スペースと繋がったふきぬけになっているのか、水槽の遥か上からは、白く穏やかな光が柔らかく降り注いでいた。無色の水を甘く照らす光の中で、色とりどりの魚たちが自由に泳ぎまわっているその様子は、私が生まれて初めて触れる幻想的な光景だった。 横目での表情を伺うと、彼女は何故だか思いつめたように眉を顰めていた。私は咄嗟に罪の意識に駆られ俯く。何か自分が悪いことをしたような、居心地の悪い感覚に囚われるのだ。それは常日頃から染み付いている癖のようなものである。 永遠に続くかと錯覚するほどの沈黙を破ったのは、私ではなく彼女のほうだった。 「…可哀想」 すぐ横にあるプレート上には、水槽の中の魚の名前が写真と共に羅列されている。その中のレモンダムゼルと書かれた白い文字を指でなぞり、は悲しげに溜息をついた。 「出来るなら私、この水族館にいる生き物たちをすべて、海に帰してあげたいの」 その口調は、この施設への完璧なる批難として私の耳に届く。 「…ここが嫌いなの?」 「どっちでもないの。でも、強いて言えば嫌いなのかもしれないね。ここに閉じ込められている生き物を見ていると、心が痛むの」 私は小さく首を傾げる。 「好きだから、来たんじゃ、ないの?」 「ううん。別に、そうじゃないよ」 「なら、どうして」 間髪入れずに私は問う。彼女はいつだって私に、出来うる限りの正しいこたえを返してくれるから。 「……探し物が、あるから」 彼女の探しているもの。求めているもの。 とても近くて、――そして遠いもの。 その瞬間。私は、彼女が今ここに立っている理由を理解した。 どんなにたくさんの水槽を見て回っても、そこに彼女の本当に求めるものは存在しない。それは至極当然のことであり、あまりにも残酷な現実だ。そしてまた、彼女自身もそれを理解しているはずだった。その事実は私の胸をきつく、とてもきつく締め付ける。 それでもはひとつ、またひとつと水槽に歩み寄っては、厚いガラスに両手をついて、その箱に注がれた水を真剣な眼差しでじっと見つめている。探し物がそこにあることを強く期待して。そしてまた自分の求めるものが存在しなかったことに落胆し、悲しげに目を伏せるのだ。そんなことを飽きることなく延々と繰り返す彼女に、私は言葉をかけることすらも忘れ、密やかな眼差しでただただ魅入っていた。 レモンダムゼルの鮮やかすぎる黄色が、視界の端に焼き付いて離れない。 . ○ ・ 。 . ・ ○ . ・ . 「もしかしたら」 くらげの水槽を眺めているときだ。がぽつりと言った。彼女の横顔を見ると、その目は水分をたっぷりと含んだなめらかな膜で厚く覆われていた。水槽の中できらきらと漂う光の粒が、彼女の潤んだ瞳に映し出される。水晶のようにも見えるそれはとても美しくて、しばらくの間、私はただひたすらに見つめ続けた。まるで彼女の瞳こそが水槽であるかのように。 「私が見ている風景を、クロームを通して骸も見ているのかもしれないね」 「……そうかもしれない」 私は呟く。弱々しい、力のない声だった。 は悲しそうな眼差しを私に向けた。確かに湿っているはずなのにその視線は渇いていて、私は少しだけ身じろぎする。 彼女は最近、こういう目をよくするようになった。その原因が自分なのだということは前から感じ取っていた。私という存在そのものがそうさせるのだということも。日々を重ねるにつれてその不安は現実味を伴って、私の胸をみるみるうちに覆っていった。嫌われたくない、と強く切願する。けれどどうすることもできなかった。彼女に疎まれることを恐れる心と並行して有る、かけがえない彼への忠誠心。それは揺るぐことのない確固たる己の芯なのだ。どちらか一方を切り捨てることなど、私には出来やしない。 「…ごめんね。私、クロームに嫉妬してるのよ」 あなたがいなきゃ、骸との唯一の繋がりすら無くしてしまうのにね。そう言っては自嘲めいた笑みを浮かべた。 「……嫉妬」 自分にとってあまりに馴染みの薄い言葉ゆえに、その言葉を理解するのには少し時間がかかった。ゆっくりと噛み砕くようにして反芻すれば、彼女はそれを問いかけと取ったのか、トーンの数段落ちた声でその先の言葉を紡ぐ。 「クロームがいる限り、私は骸に一番近い存在ではいられないってことに気付いたの。クロームと骸は二人で一人だけれど、私と骸は結局他人だもの」 の語調は弱々しいようでいて、その反面で私という存在を消し去ってしまいたいという強い憤りの色が、ほんの僅かながら見え隠れしていた。 (ああ、彼女にとって、やはり私という存在は邪魔にしかなりえないのだろうか。) そう実感することによって胸の痛みは生じても、やはりのことが好きだった。 恐らく傍から見れば刺すような言葉なのだろうが、私は彼女のこういった本音を隠さないストレートな物言いが好きだった。たとえきつい言葉や、あるいは棘のある言葉だとしても、他人が自分に対して本当の気持ちをぶつけてくれるということは、私にとってとても貴重で喜ばしいことだから。 「クロームのことは好きだよ。好きだし、これからも一緒にいたいと思ってる。でもね、ふとした瞬間にどうしようもなく悲しくなるの。あなたの役目を負うのが、どうして私じゃなかったんだろうって」 「……でも、それは私が決めたことじゃないわ」 決めたのは、骸様。 私はこれまでも何度となく告げた残酷なその台詞を、また静かに繰り返した。 この言葉がどれほど彼女を苦しめているかは知っている。それでも私の中に、彼女を傷付けずにすむ返答などひとつも見当たらない。 予想通り、はいつもと同じ悲壮の滲む表情でうなだれる。幾度も告げた言葉だというのに、彼女はその言葉を聞くたびに傷ついた顔をする。それがどうしようもなく悲しかった。彼女の心を沈ませているのが、誰でもないこの自分であることが。 「…骸が決めたからって、私が納得する理由にはならないよ」 はまるで幼い子供を諭すような口調で呟いた。 いつもの沈黙が、私と彼女の間に横たわる。 しばらく経ち、が何かを言い出そうとしているのがわかった。急かさず、彼女の口が開かれるのをじっと待つ。そして同時に私自身も、次に彼女にかけるべき言葉を必死に探していた。 「教えて」 ぎりぎりまで落とされた照明の薄明かりが彼女の顔をぼんやりと照らす。フロア全体の薄暗さのせいか、その顔はひどく青ざめて見える。ひんやりとした冷気と、水の底の深すぎる蒼に支配されたその空間の下、は縋るような顔で私を見つめる。目をそらしてしまいたくなるほどにひたむきで切実な視線。手のひらを強く握りしめて、私は彼女の顔を見つめ返す。 次の瞬間、彼女の指先がすっと私の頬に触れた。長時間この冷気に冷やされたためなのか、その手はひどく冷たく、数時間前に握り合った指先に感じたあの温かさは既に失われていた。 瞳をじっと覗き込まれる。瞬きすら出来ないほどに、互いの距離はうんと近くなった。 「そこに、骸は、いるの?」 ―――――――私はなす術もなく、から目をそらした。 (ああ、聞こえていますか。この声は、届いていますか、骸様、あなたに。) 「ねえ」 「骸は、どこにいるの……?」 横たわる沈黙のなか、寄る辺ない声は水泡にのまれ消えてゆく。 . ○ ・ 。 . ・ ○ . ・ . 彼女が水の底に求めていたのは、ただひとり、彼の面影。 あなたのいない水の底(080708) クローム髑髏 |