「くだらない」
 そう一蹴したティエリアの目に浮かぶのが明確な侮蔑の意思であることは、誰の目にも明らかである。
 彼は今一度、目の前に立つクリスティナの引きつった笑顔を一瞥し―実際には睨みつけたようなものだ―、彼女の手中にあるパステル色の包装が施された箱を訝しげに見下ろした。
 職業上、心行くまで楽しめはしないとはいえ、年頃の女性らしくイベント事に毎度心を躍らせているクリスティナは、ティエリアのあまりに冷淡な態度に納得がいかず、かといって彼に真っ向から反論するだけの勇気もなく、ただただ無言で口を尖らせるのだった。
「そんなことに時間を割く暇があるのなら、少しは日頃の自分の言動を顧みるべきだろう」
「もう、ちょっとは喜んでくれてもいいじゃない!年に一度のイベントなんだから」
 言い終わらぬうちに、彼女は箱に貼られた金色のシールを指す。そこにはポップなレタリングで描かれたValentine`s Dayの文字が、色鮮やかに踊っている。
「そのイベントとやらと俺に何の関係性が?」
 しかし彼の反応は、世間一般のバレンタインの華やかなイメージや、浮足立った男女双方の心を瞬時に凍らせてしまうような冷やかなものだった。峻厳な声音と表情にクリスティナは落胆する。彼女はもう既に、このティエリア・アーデという人物を真っ先に呼び止めてしまったことを後悔し始めているのであった。
 先日、ミッションのため地上へ降りた際に購入したチョコレートを、フェルトと共にクルーの男性陣に手渡してまわるべく、手分けしてトレミー内を徘徊していたところ、一番に遭遇した人物が彼だったのだ。咄嗟に呼び止め、チョコレートを渡そうとはしたものの、さすがは道楽に無頓着なティエリアである。いくらバレンタインという単語を連呼しても、ただ怪訝そうに首を傾げるばかりだったので、まずバレンタインデーの概要を説明するところから始まり、そして、頑として受け取ろうとしない彼の予想以上の頑固さに辟易し、今に至る。
「ティエリアはホントに固いんだから!ねえ、ちょっとは嬉しいとか思わないの?」
「思わない。大体、俺が喜ぶ理由がどこにある」
 当然ながら彼の冷然たる態度は揺るぐことはなく、さらに苛立ちの滲んだ鋭い視線に耐え切れなくなり、クリスティナはとうとう溜息をついた。そしてこの冷厳な人物から、他三人のマイスターに思考を切り替えることにする。
 ロックオンは意外と紳士的で律儀な男性であるし、自分の望むような反応を返してくれるだろう。こういった職務についていなかったならば、間違いなくお返しを期待できる相手だ。刹那も、ティエリアに近い反応を示しそうな人物ではあるが、黙って受け取ってくれるだけの優しさはある―と、信じたい―。
 そして、誰より。
(アレルヤならきっとすっごく喜んでくれるのに!うんとお礼の言葉を言ってくれて、それから…)
 脳裏に、淡く笑むアレルヤ・ハプティズムの姿を浮かべ、クリスティナは知らず知らずのうちに頬を緩ませる。
 今頃フェルトは、アレルヤたちにチョコレートを手渡しているのだろうか。
 そう思うと急く気持ちを抑えられない。詰まるところ、たとえ義理とはいえ、彼女は自身の手でアレルヤにチョコレートを手渡したいのだ。
 そんな彼女の心境を透かし読んだかのように、ティエリアはふと笑みを浮かべた。一見美しく完璧な微笑に見えるものの、実際はちぐはぐで、違和感を覚える表情だった。口元だけが楽しげにつりあがり、だがその瞳には寸分の柔らかさも含まれてはいない。
「俺ではなく、他を当たればいいだろう」
「…だって」
 それが出来たら苦労はしない、と、クリスティナは内心不平を漏らす。どんなに冷たくあろうとも、やはりティエリアも大切な仲間の一員である。だからこそ、どうにかして受け取らせようと奮起しているというのに。ちなみに、彼の意志を尊重し、潔くこの場から立ち去ろうという選択肢は、彼女の中には存在しない。
「刹那・F・セイエイはともかく、アレルヤ・ハプティズムやロックオン・ストラトスならば、快く受け取ってくれるのでは?彼らは、俺よりもよっぽどこういったことを好みそうだからな」
 クリスティナが怯んだ一瞬の隙を見逃さず、ここぞとばかりに捲くし立てるティエリア。彼女を気遣ったようにも取れる台詞だが、これは彼なりの助言などではなく、ただの嫌味でしかなかった。
 無駄を嫌い、ヴェーダを主とした物事以外にはとんと無関心であるティエリアは、俗世間での流行に現を抜かすような人間を常に見下しており、また、それらは彼にとって強烈な嫌悪の対象であった。そしてその意思を、彼は周囲に隠そうともしない。
 すなわち彼は、自分を除くマイスターのことを快く思っていなかった。
 逆に、そんなティエリアへの接し方を掴めずにいるクルーが存在することも事実だ。クリスティナもまた、その一人である。
(言われなくても、早く行きたいんだけど…)
 クリスティナの内なる焦燥などお構いなしに―というよりも、気付いているのかすら危うい―、ティエリアは腕を組み、無言でじっと目を閉じたまま壁に凭れかかっている。いてもたってもいられなくなったクリスティナは、覚悟を決めて口を開いた。
「ねえ、ティエリア」
「何だ」
 ティエリアがゆっくりと目を開き、横目で彼女を捉える。
「あのね、甘いもの…ええと、チョコレートは嫌い?」
「…好きでも嫌いでもないが、好き好んで食べはしない」
 今更それがどうしたとでも言いたげに、けれど唐突に飛躍した内容の問いかけにもしっかりと真顔で答えるティエリア。自他共に厳しく、多少冷たい性格ではあれど、根は非常に真面目なのだ。クリスティナは、この時ほど彼の生真面目な性格に感謝したことはない。
「なら、別に食べられないなんてことはないんでしょ?」
「…どういう、」
 ティエリアの言葉を聞き終わらぬうちに。
 彼女は勢いよく、ティエリアの胸元にチョコレートの箱を押し付けた。
「なっ…!!」
「お願い、食べてみて!ね、ね。絶対美味しいんだから!」
 それ、高かったんだからね。そう言うが否や、クリスティナは力強く床を蹴り、ティエリアから十分な距離をとったため、咄嗟に彼女へと伸ばされたティエリアの手は、惜しくも空を切った。
「クリスティナ・シエラ!」
「ティエリア、ハッピーバレンタイン!」
 険しい顔で容赦なく怒声を上げたにも関わらず、彼女は花のように可憐な笑顔を浮かべて、廊下の先へと遠ざかってゆく。
「………」
 クリスティナの見事なまでの強引さに、ティエリアはしばらく呆気にとられたまま立ち尽くしていたが、やがて自身の手元をまじまじと見つめた。
「…どうしろというんだ」
 押しつけられた小さな箱を片手に、ぽつりと呟く。
 自らに不要なものなのだ、心ひとつで捨ててしまうこともできた。
 だが、ティエリアはそれをするかわりに、このチョコレートを捨てずしてどう始末をしたものか、と真剣に考慮し始める。それは彼の持ちあわせる最大限の良心の表れだった。



「コンプリート・ディフィート」
(2008.02.14)