「洵!」
 諒は普段よりも幾分か大きな声を出したつもりだったが、それはざあざあと地面を叩く雨音によってほとんど無音に近いものへと 変えられてしまった。しかし、洵はそんな微かな声をしっかりと聞き取ったらしい。びくりと肩がはねる。
「…諒兄ちゃん…!」
 彼は小さな身体を強張らせたまま、さっと何かを後ろに隠した。
 雨のせいでぺったりと額に張り付いた前髪。そこから垣間見える不安げな瞳は、 少し離れた場所に立っている自分を心なしか拒んでいるように思えたが、諒は構わず目を凝らしながら足早に近づいた。 自分を見上げる弟は、曇った表情はそのままに俯き、目を伏せる。彼の体のすぐ向こうに見える小さな段ボール。 雨音にかき消されてしまうほどに小さく、か細い鳴き声。諒は中腰になり、まじまじと段ボールの中を覗き込んだ。
「…猫か?」
 その声に呼応するかのように、子猫は小さくにゃあと鳴いた。
 いつまで経っても帰ってこない弟を心配して表に飛び出してみれば。 先ほどまで己を包んでいた焦燥と不安から一気に解放されたことで、諒は安堵のため息をつき、胸中でほっと胸をなでおろす。 次いで、雨に濡れた洵を見下ろした。
 そこで彼は、弟の瞳に灯る怯えの色が先ほどよりも明らかに濃くなったことを感じ取り、そして同時に、 無意識のうちに自分の眉間に深く皺が寄っていたことにようやく気付いたのだった。
「ここで何をしていた」
 無論、それは既にわかりきった事であったが、あえて仏頂面を崩さずに問いかける。
「…ごめんなさい、諒兄ちゃん」
 やはり怯えているのだろう。自然、声音は先ほどよりも小さく、か細いものになる。
「昨日からここに捨てられてて……心配で」
 びしょ濡れになった自身の身体を両腕で抱き締めながら、洵は静かに項垂れた。
  諒はひとつ息を吐き、立ちすくむ洵を傘の中に引っ張りこむ。抵抗をしない体はあっさりと諒の胸へ寄りかかった。
「…今日だけだぞ。いいな」
 早口でそう言って、ダンボールの中からタオルごと子猫を抱え上げた。こうでもしないと彼は、ずっと動けずにこの場に立ちつくしているだろう。
(ああ、軽すぎる。)
 重みの感じられぬ体に、彼は弟の不安をようやく理解した。こんなにも脆い子猫を雨に晒すのはあまりにも残酷すぎるだろう。 胸に込み上げるやり場のない感情を押し殺しこそしたが、その腕に籠る力は確実に強まっていた。
 一刻も早く家に帰って、温かいミルクを与えてやらねば。
 そんなことを考えていると、洵が小さな声で確かに、「兄ちゃん、ありがとう」と呟く。諒はやれやれとため息をついた。
 言動は冷たく見えようとも、彼は洵の優しさが嫌いではなかった。



「雨と猫」
(2008.08.06)