「よお、ハンガリー」
 不意に名前を呼ばれて振り返ったハンガリーは、そこに立っていた人物を見ても、別段驚くことはしなかった。彼がいずれここに来るであろうことを、彼女は心のどこかで悟っていた。感じたとすれば、それはその時がきてしまったことに対する、絶望に似た悲しみだけだった。
「隣、いいか」
「…好きにしたら」
 そんなつっけんどんな物言いにもかかわらず、プロイセンは嬉しそうに笑みをつくって、彼女の隣に腰を下ろす。
 月は陰り、空気の冷たい夜だった。ふたりが背を預けるエルムの木もすっかり冷え切り、触れたそこからはひんやりとした冷たさが伝わってくる。
 そこはオーストリアの家から少し離れた丘の上だった。遠くに望む屋敷の窓には、明かりが灯り始めているのが見える。辺りはすっかり日が落ちて、視界一面も闇に覆われていた。時折、風が足元の草や花を撫ぜる音だけがそっと響くのみの、静かな夜である。
「どこ行ってたの」
 畳んでいた足を崩しながら、ハンガリーがぽつりと尋ねた。
「フランスとスペインのとこ。あと、イタリアちゃんとドイツんとこにも」
「そう」
 彼女が黙ると、プロイセンも同様に黙り込んだ。普段は饒舌な彼がこうもじっと黙りこくっているのは、どうにも居心地が悪いものだ、とハンガリーは思った。今の彼らの間には、声を出すことさえ少し躊躇われるような、どことない緊張感が漂っていた。まるで、どちらからともなく言葉が発せられるのを、お互いが待ち望んでいるかのように。
「坊っちゃんによろしくな」
「……直接言いなさいよ、馬鹿」
 気丈に振舞おうとするも、声に滲む震えは自明であった。
「顔は見てきた」
 しみったれたのは苦手なんだよ。
 そう言って屈託なく笑うプロイセンは、いつもと何ら変わらない彼にしか見えず、ハンガリーは歯がゆさのようなものを感じ唇を噛んだ。きっと、オーストリアの前でも、変わらぬ彼として振舞ってきたのだろう。彼は、別れの挨拶、いわば遺言を自分に託しているのだと、ハンガリーは悟った。
「もう…だめなの?」
 胸の詰まるような思いでそう尋ねた。
 彼女の指先は、よく見なければわからぬほどほんの僅かに震えていた。それが恐怖によるものなのか、あるいは緊張によるものかどうかはわからない。丸く整えられたシャーベットトーンの爪。白くすべすべとした手。静謐な空気の中、闇に浮かぶそれらをじっと見つめながらプロイセンは言う。
「いいんだ」
 声音は穏やかであり、けれど暗闇を震わすその声はあまりにも凛としていた。
 プロイセンが顔を上げる。彼は照れながらも、目を見開くハンガリーのことをまっすぐ見つめ返した。
 彼女は、自身を射抜くルビーの瞳に目を奪われたが、それも一瞬のことで、次の瞬間にはもう、彼の視線はまっすぐに草原の海へと注がれていた。瞳に湛えられた意思はあまりに頑なで、宝石の原石のように固くとがりきった鋭利さを秘めている。
 微塵の迷いも伺えぬその横顔は、彼女をかなしみの淵に追いやった。覚悟はしていたのに、改めて現実の残酷さを喉元に突きつけられたように感じた。
(嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ)
 ハンガリーはぎゅっと目を閉じる。
 ふたりは茫漠たる時間を共にしてきたのだ。いくら気ごころの知れた間柄とはいえども、胸の内に沈んで蓄積されていた不満は多々あった。落ち着きのない振舞い、意地悪な言葉、粗暴な言動。そんな彼に対し、何度声を荒げたかは知れない。
 それでも、彼女はいま、それらのすべてを手放してもいいと思った。そんなことなどどうでもよいとさえ思えた。彼を―プロイセンを、この場所に繋ぎ止めておけるのならば。

「でも、」
「ハンガリー」

 一瞬のことだった。
 言葉を発する隙も与えず、額に下りてきた唇に、ハンガリーは今度こそ口を噤んだ。
 プロイセンは、雲の隙間から差すやわらかな月光に照らされた彼女の顔を、まばたきもせずにしばし見つめている。
 力の加減も知らぬ頃から、何度も彼女の腕を掴んだ無骨なその手で、栗色の柔い長髪を優しくかき上げて、なめらかな頬に手を添える。彼は眉を寄せ、そしてわずかに目を細めた。
「ありがとな」
 それは、彼女が一度も見たことのない、本当に穏やかな微笑みだった。
 息を詰め、瞬きも忘れて押し黙るハンガリーの肩に触れ、一度強く握ってから、プロイセンは立ちあがり、彼女に踵を向けた。その背中が夜の帳に消え、足音がゆっくりと遠ざかっても、彼女はその場から動くこともできず、ただ自身の爪先をじっと見下ろし続けた。
 ハンガリーは、自分の右肩にそっと指で触れた。先ほど、胸が焦げ付くほど感じた熱はもう全く残っておらず、逆に感じた冷たさは、彼の体温が既に吸収されたことを示していた。
 たったの数分、まるで一瞬のようだった。それは彼らが長い時間をかけて築いてきた歴史の十分の一にも満たない、たったそれだけの、本当に短い時間の出来事だった。



(彼らの間には、言葉で表わせるような関係は存在しなかった。ただ透明な川が二人を隔て流れるように、淡く、ガラス細工のように脆く、さりげない距離がそこにあるだけだった。
 言葉はいらない。それは彼女が幾度となく実感してきたことだ。けれど、だからこそ今は言葉を欲した。どんなに不恰好でも、無骨な言葉でも構わない。ハンガリーは、彼の口からその言葉を聞きたかった。その言葉が発せられる瞬間を、ただ静かにじっと待っていたのだ。)




―――ありがとな。

 きつく結ばれていた唇が、微かに震える。

「意気地なし……」

 嗚咽に埋もれくぐもったその呟きは、線香花火のように静かに地面に落ちる。後には何も残さずに。
 膝を抱え、スカートを握り締めた。まなうらには、もう幾度となく見送った彼の後姿が焼き付いている。つよく力を込めた拳の上には、幾粒もの涙が流れ落ちていった。
 それでも、その拳をぶつけるはずの相手はきっと、明日にはもう、この世界のどこにもいないのだ。





遠 い 星 で 泣 い て い た
(FINAL DISTANCE)
(2011.03.15)