少女とマッチと哀れな俺と

 「畜生!」
 そう言って蹴飛ばしたごみ箱は軽い音をたてて、空っぽの口を開けて地面に転がった。
 夜の町は、繁華街から少し離れただけで、やけに静かで、暗い。
 「畜生、畜生、畜生、畜生…チクショウチクショウ…。」
 さっきからずっとこの台詞ばかり、俺の口は呟く。俺は数時間前、三年付き合った彼女に振られたところだった。何が、「貴方と過ごすのが楽しくないの」だ。俺はそれなりに努力したぞ、したつもりだぞ。俺の何が悪かったっていうんだ。
 俺はずっと、色々考えながらこの数時間をさ迷い歩いていた。家に帰る気にもなれず、ずっと、ずっと、別れた彼女に想いを馳せながら、道端のごみ箱や立て看板を蹴れるだけ蹴ってきた。
 だが、さすがにそろそろ疲れてきた。こんなにも歩いたのなんて久々だった。足が痛くて、膝がジンジンする。少し休もうかと思った。
 狭い横道。何かの倉庫の裏道らしく、ダンボール箱が詰まれていて俺はそこに腰を降ろした。ポケットから煙草を取り出す。それは最後の一本だった。この数時間、苛立ちのために一気に一箱吸った。この寒い季節で、体も冷えていたし、この最後の一本を吸い終えたら、家に帰って眠ってしまおうと思った。そして、ライターで火をつける。
 「あ、あれっ?つかねぇや。」
 ライターをつけようとしてもついてくれない。火花が二つ、三つ、散っていくだけで、一つも確かな熱を帯びた炎にはなってくれなかった。
 「畜生!」
 この日、何十回目かの捨て台詞を吐いて、俺はそのライターを放り投げた。掌にすっぽり収まってしまう銀色の物体は、一瞬光って、闇に溶けてしまった。
 「おにーさん。」
 通路の向こう側、俺はライターを放り投げた闇の中から、少女が一人、現れた。
 「はぁ?!」
 失礼だったとは思ったが、俺がこんな声を上げたのには多少なりと訳がある。それはその少女のいでたちが、昔開いた絵本の中に住む者と酷似していたためだ。その絵本、童話のタイトルは「マッチ売りの少女」。…そうだ、マッチ売りの少女だ、そこにはマッチ売りの少女がいたんだ。手に下げた籠の中には山程のマッチ、足は裸足。手はあかぎれて真っ赤だった。
 俺は疑った、いくら彼女に振られたのがショックだったとしても、俺の頭は昇天しちまった訳じゃない!ここは御伽の国じゃねぇぞ、と。
 「おにーさん、物は大切にしましょうよ。ホラ。」
 近寄って来た少女は俺の手を取って、掌にライターを落とす。銀色の物体が、確かな感触を伴って俺の手の中に戻って来た。
 「ん…あ、ああ。ありがとう。」
 一応、礼は言っておこうと思った。
 「おにーさん、それ火がつかないのね。」
 少女は俺に微笑んで言った。
 「ああ、そうなんだ。」
 俺も顔に穏やかな笑みを浮かべて答えた。不思議と苛立ちも消えていた。
 「じゃあさ、マッチ、一束買わない?」
 少女はそういって、左手にさげた籠からマッチを取り出す。
 「じゃあ、一つ貰うよ。」
 俺は少女から言われた金額を支払ってそれを手にした。二十本あまりが一束になったマッチから、俺は一本取り出した。
 「おにーさん、ちょっと貸してくんない?」
 少女はそう言って、俺の手からその一本のマッチを取り上げた。
 「いい?よぉく見ててね。」
 少女は裏路地の建物の壁にマッチを擦り、火をつけた。
 「火をよく見ていて、おにーさん。」
 不思議と、俺は少女の言う通りにしていた。その小さな明りを見詰め続けると、次第に意識が遠のいていった。視界が、だんだんと白んでいく。少女の声が遠くに聞こえた。
 「よぉく見ておにーさん。ホラ、見えるでしょう…?」
 白色の視界の中に、ついさっき別れたはずの彼女がいた。幾つもの彼女の笑顔が、浮かんで、そして消えて、明滅を繰り返していた。楽しそうに笑っていた。それを眺めて俺は切実に願った。この笑顔を取り戻したいと、こんな幸せをもう一度味わいたいと。
 振りかえる笑顔、見詰めてくる温かい目、微笑む口元、下がった目尻、黄色い声が可愛くて…ああそうだ、今でもよく覚えている。
 彼女が笑う。そうだ、その笑顔を作ったのは俺じゃないか。そりゃあ、だいぶ以前の事だが。

 やがて白色の世界が、儚く散ってしまった。
 視界に広がる光景は、元の暗い路地裏に戻っている。
 「おにーさん、思い出した…?あの女の人の笑顔を作っていたのは貴方なんだよ。ちゃんと思い出してあげて…ね?貴方は笑顔を作れるよ。あの女の人には、もう…無理かもしれないけどさ。貴方はもう一度、前に進まなきゃ。それにね、それにね。貴方は貴方自身を幸せにできるよ、笑顔を作れるよ。」
 少女が微笑みながら、俺に諭す。無性に涙が出てきて、視界が滲む。
 「心の中に火を灯してね。貴方の心にもちゃんとマッチがあるよ、始まりになる小さな炎があるよ。」
 俺は涙を拭おうと、手で目を擦った。何故、俺は年端も行かぬ少女の言葉で、こんなにも泣いているのだろう。不思議でたまらないが、それでも涙は溢れてくる。脳裏には、別れた彼女の笑顔が溢れてくる。記憶している限りの彼女の笑みが、笑い声と供に蘇って、儚くも消えて行く。ああ、あんな笑顔をもう一度見たい。あんな笑顔と供に、もう一度暮らしてみたい。
 涙を拭いて、前を見る。やや滲んだ視界の中に、少女はもういなかった。
 「あ、あれっ?消えたっ?」
 見える限りの範囲を目で舐めるように見るが、少女の姿は見付からない。俺は少女を探すのをやめ、ため息を一つ吐き、手元のマッチの束を見る。一本取り出して、レンガの壁で擦って、煙草に火をつけた。
 赤々とした煙草の先端。眺めて俺は独り言を呟く。
 「心の中に始まりの火を…ね。さぁ、帰るか…。」
 煙草をくわえ、繁華街の賑やかさを通る家路に、俺は足を進めた。
END