一片の鉄翼

 

 心地良い水の中。彼は長い間漂っていた。長い髪はうねり、手足にからまる。赤や青の、原色を思わせる鮮やかなコードや、ゴム製のパイプが、彼の命をつないでいる。

 大きな硝子製容器の中で、眠っている様に瞳を閉じているのは、二十歳くらいの青年だった。しかし事実、彼が誕生し、この中で過ごした年月は十五年程である。

 それでも十五年の歳月は短くはなかった。

 カプセルの中の液体に、長くのびた白銀の髪が漂う。男とは思えぬ程、それは長く、十五年の時間を表すかの様であった。

 このカプセルは彼の住家。彼の母なる胎内。ここで生まれて、ここで育った。しかし、もう目を醒まさなければならない。覚醒の時は来たのだから。

 

〈鉄翼天使試作体『グリゴリ』シリーズ、bP3。最終覚醒段階に入ります。人工羊水、抜きます。容器内に酸素供給。bP3の酸素コード切断。〉

 その無機質で機械的な女声は、暗く照明の落とされた広い部屋の、天井に内蔵された拡声機から響いた。その言った通りの作業が容器内で自動的に行われる。

(ああ、いつもと…違う音…だ…。)

 銀髪の青年は、ぼんやりとした意識内で一人ごちに呟いた。羊水を通して耳に届くのは、初めて聞く音声。今までこんな大きな音や声は聞いた事が無い。容器の底に有る排水口から、羊水が勢い良く抜けていく。勿論、その音も大きい。

 …目が、覚めていく…。

 羊水が次第にその量を減らし、彼の足が初めて地に触れた時、その瞳は開かれた。青白い肌と白銀の髪によく映える、赤銅色の目が、暗い室内のわずかな光を、金色に跳ね返した。青紫の唇が酸素を吸い込み、肺に取り入れる。

羊水が全て無くなった容器の底に、白い青年は倒れ伏した。うずくまったまま、立つ事が出来ない。一度として使われた事の無い脚は極端に細く、これ以上直立するのは無理と思われる。

 硝子の向こうで、様々な声が次々に響いた。

「筋力が弱いな。この様に製造していては、戦争に間に合わん。使い物にならんぞ。」

「次回からは成長促進剤の増加、筋肉増強剤の投与でだいたい三ヶ月くらいで造れるようにします。しかし何よりこの試作体が初めて死産しなかったのですよ。bP3は研究対象に回して、今後の製造に役立てましょう。」

「そうですね…。bP3の状態は?」

 その質問の答えは、拡声機から返って来た。

〈呼吸数正常。脈拍安定。眠っています。〉

「眠っているなら今の内に、散髪をして、それとバーコードのうち込みを。bP3の部屋と、カルテも準備してしまわなければ。」

〈あらかたの事は既に手配済みです。bP3のカプセルを開けます。カプセル上部接続取り外し。カプセルカバー解除。カプセル下部より収納。〉

 そして白い青年は、白衣の人達に連れて行かれた。その表情は、担架の上で健やかな寝息を立ているかの様だ。白い部屋。白衣の老若男女に囲まれた。白い肌と白銀の髪の青年。

 

 ここは白い世界…。

 

 再び目が覚めた時、青年は横になっていた。絡み付くコードも、長い髪も、もはや無い。

 赤銅色の瞳は、明るい部屋の天井を呆然と見詰めていた。怖いくらい静かだ。白い部屋には色も音も無く、あまりにも静かで、哀しいくらいだ。

 ゆっくりと体を起こす。彼の周りは白いベッドに白いシーツ。白い壁には白い扉。一面清潔で、愛想の無い白に囲われていた。彼が着ているのも、白い服だ。

 それらを確認して次の瞬間、その赤銅色の瞳に映る、白い扉が開かれた。白衣を着て眼鏡をかけた、少し広い額が賢そうな男性だ。響き良い低い声が、青年の耳朶に響く。

「bP3、立てるか?」

 そう言われて青年はベッドから降りようとした。言葉は理解出来るらしい。何の抵抗も無く言う事を聞く。そして、転倒。

 男はいかにも嘆かわしげに、首を横に振った。立ち上がろうと床の上でもがく青年を、決して太くはない腕で、やっとの事抱き上げ、横のベッドに落とすかの様に寝かせた。そして再度問う。

「体の調子は?」

 しかし、その問いに青年は肯くだけで、声を発さなかった。男は首を傾げる。

「返事は?」

 男は更に問いを重ねたが、青年は二、三度口を開閉させるだけ。かすかに、のどの奥が音を発したが、変な唸りの様で、何の言語とも一致しない。その様子を見た男は落胆した様で、自分の額に手を当て、ため息混じりにつぶやいた。

「喋る事も出来ないのか…。これじゃあまるで、赤ん坊だ…。」

 しかし、こんな大きな赤ん坊は嫌だ。この世話を一体どうすれば良い…男は考えた。

 そして、拡声機同様、室内に取り付けられた集音機のボタンを押す。

「誰か、今手の空いている女性研究員は?三十代から四十代で検索してくれ。」

 その問いへの答えはいつも通り、天井の拡声機から返って来る。

〈研究員bQ76アルニラム。三十二歳が該当。居住区Cブロックで休暇中です。〉

「呼んでくれ。重大任務だ、と伝えて。」

〈要求を承認しました。放送を開始します。〉

 そして、この建物の至る所に機械音声が響きわたった。

〈研究員bQ76アルニラム。ラボ地区Aブロックにお越し下さい。最新重大任務の依頼です。〉

 

 巨大な地下都市内には居住区ABCと、ラボラトリー地区AからEブロックまでがある。人知れずこの地下都市は存在し、様々な分野の科学者が住んでいた。いずれも、地上の世界では行方不明者となっている者達だ。約七百の科学者がここに存在する。何故そんなにも頭脳が集まっているのか、と言うのだが、この説明は後にさせてもらおう。

 居住区Cブロック内でアルニラムはその放送アナウンスをぼんやりと聞いていた。

「また仕事?人が久々に休んでいる所に?まったく、もう…。」

 独り言を言いつつ、アルニラムは白衣を手に取った。自室の卓上に有る、銀縁の眼鏡を胸ポケットに入れる。その理知的な顔は、三十代とは思えず、意外と若く見える。肉付きの悪い痩せた体だが、均整が取れていないわけでもないので、美人と言えない事も無い。

 やけに長く、白い廊下を、細い白衣の影がラボ地区へと歩いて行った…。

 

「いいか?今から来る人はな、お前の『お母さん』だ。解かるか?オカアサン。」

 男は何やら熱心に、青年に言って聞かせていた。『お母さん』と、何度もゆっくり繰り返す。その口と舌の動きを、青年は何度も真似ようと試みていた。

「お…かあ…さん。かあ、さん。」

 やっと、断片的にだがその言葉を喋れるようになって、これなら大丈夫かな、と男が思い始めた頃、その白い扉は再び開いた。

「アルニラムです。入りますよ。」

「おかあさん。」

 その瞬間、青年にそう呼ばれたアルニラムの表情が凍った。その薄い青色の瞳が、『この男は何を言ってるんだ』と言う様に大きく見開かれた。青年はアルニラムに向かって笑んだ。横に居た白衣の男がアルニラムに言う。

「今からbP3の母親代わりになってくれ。特別報酬が組織から出されるから。頼む。」

 アルニラムにとって、それは余りにも唐突な台詞だった。頭が混乱するのも当たり前。こんな青年を育てるのか?彼女は唖然とし、口を開閉させるばかりだった。

「それじゃあ、世話を頼むよ。言葉でも何でも、教えてやってくれ。かなり精神遅滞だけど、何とかなるだろ。それじゃ。」

 ただ呆然と、彼女は部屋に置いてきぼりにされた。傍らには自分を母と呼ぶ青年が一人。

「おかあさん。」

 にっこり笑って、言葉の意味も知らずに青年は言った。見た目20歳。実年齢15歳。精神年齢0歳。そして、アルニラムお母さん。

 

 ただじっと、女性研究員はその青年を眺めていた。青年の赤銅の瞳は虚ろで、何を見ているのか定かではない。

(見た目はもう大人なのに…。中身が赤ちゃんなんて…。)

 この青年が何の為に造られたのか、彼女は知っていた。青年の誕生を引き金として、これから戦争の準備が始まるだろう。彼女がこの地下都市に来たのは7年前の25歳の時だった。ちらりと、この青年がケースの中にいるのを見学した事があるのを憶えている。その頃、青年はまだ少年であった気がする。

(可哀想に…。)

 見た目とは裏腹の精神。自分が置かれている立場を理解するだけの頭脳を持たず、自然の節理に逆らって生まれて来た青年。彼を憐れに思わずにいられようか。

 しかし、組織の一員として、頼まれた仕事はせねばならない。アルニラムはまず、文字や言葉を教える事にし、そして本を読ませた。

 名前が無いと不便だから、と言ってアルニラムは青年に名前を付けた。昔読んだ本に白い鱗に、赤い目の龍がいたのを思い出して、青年が強く生きられるように、との願いを込め、ドラゴンの『ドラ』から『ドラグ』と名付けた。