ハインラインはリバータリアンの枠に入るか?

先日、某所で(って、ニーチェクラブだけど)「扉」という言葉をヒントとして出すのに、「ディアボロス」と「松田聖子」というのがさらにヒントとして出されていたので(なんて回りくどいのだろうかw)、ハインラインも入れたほうが分かりやすいよなあ、と思ったけど(ほんとかよ)、ハインラインを知らない人でも分かるかどうか、念のため「ハインライン」でgoogle検索してみた。
そうしたら、まあ、最初の十件のうち2件で「夏への扉」がタイトルに入っていたので、とりあえずオケーだったわけですが、ちょっと気になるサイトがあったのだ。

あの有名なwikipedia だ。
ロバート・A・ハインラインが、なんと、リバータリアニズムのページに、リバータリアンの代表として2番目に出ているのだ・・・。「え???」
ちなみに、リバータリアンというのは、もちろんオバタリアンのことではありません。なぜかというとロバート・A・ハインラインは、いまさら言うまでもないけど、男だからだ!!
って、そうじゃなくて・・、
「リバータリアニズム」は大雑把に言うと、個人の自由を最大限に尊重する考え方で、まあ、要するに誰かの自由を侵さない限りにおいては何をしても自由だということなのだ。 (つまり好きなだけマスターベーションしていいということである!!)

一見、極めて当り前のようだけれども、これは、一種の政治的な思想で、つまり国家との係わり合いということが念頭にある。
似たようなのに、リベラルという思想があるね。たぶんアメリカの民主党員に多いと思う。
いやむしろ保守思想かな。

リベラルとは、どこが違うかというと、福祉だ。
どちらかというと左寄りの思想というのは、福祉に重点を置く。リベラルもそうなのだ。
しかし、福祉は金がかかる。

リバータリアニズムは、福祉には金をかけないのだ。政府は出来るだけ個人に介入しない。例え福祉だろうと、政府が介入すれば自由度が低くなる。

さて、戦争はどうか。
もちろん、戦争なんかすれば、アホみたいに金がかかる。それに個人の自由なんてあったもんじゃない。
自由のための戦争とか都合のいい事をのたまうどっかの馬鹿息子もいるけど、もちろん、あれはただ単に頭が悪いだけであーる。

さて、ハインライン。この人は「人形つかい」とか「宇宙の戦士」(スターシップ・トゥルーパーというラズベリー賞映画の原作。もちろん原作はあんなひどくない)とかで、戦争好きなことを丸出しにしている。

もろに右翼思想だし、リバータリアニズムとは程遠い。

と、以前は思っていたのだけれど、「愛に時間を」では、国家のために戦うなんてばからしいといったことが書かれているではないか。

へーーー。

変節したな。

「国家のために戦うなんてばからしい」のだ。
国家なんていうのは、単なる「社会」の枠組みの一形態に過ぎないのだから、特別こだわる必要はないのだ。

しかしながら、これの言葉のみをもって彼がリバータリアンになったとはいえまい。

リバータリアンは、例えばこんな考えかたをしている。
言論の自由というのも財産権の一つで、自由に発言するというその行為をのぞみ、まわりと自発的に合意することによってその権利が生まれる、という感じ。

SFでこのようなことを明確に述べたのは、むしろアシモフなのだ。 あの「アンドリュー NDR−114」の原作の原作「バイセンテニアル マン」で、ロボットが人間になることをのぞんで(恋のためではないよ)、それについての裁判が行われ、その判決文の中で 「自由の概念を理解し、かつ自由を欲するに足る十分に進んだ意識を有するいかなる物体も、自由を享受する権利がある」 というくだりがある。

もちろん、生まれながらにしてそのような能力を持ち得ない人もいるけれども。
話は変わって、ハインラインの業績について、今さら語るまでもないですが・・・
ハインラインはSFの地位向上に貢献したことでも有名です。
オタク向けでしかなかったSF小説を一般誌で書いたのだ。偉い!

それはともかく、彼の作品には猫がよく出てくる。

中でも有名なのは、これは作品が有名だからというのもあるけど『夏への扉』に出てくる護民官ピートだ。
これも、説明がいらないくらいの名作で、SFファンじゃなくても是非読むべき作品ですが、ちょっと冒頭の部分をのせます。
ここだけでも名作の香りが漂ってきます。



 六週間戦争のはじまる少しまえのひと冬、ぼくとぼくの牡猫、護民官ペトロニウスとは、コネチカット州のある古ぼけた農家に住んでいた。マンハッタンの被爆地帯の端にあったし、古い木造家屋というものはティッシュ・ペーパーに火をつけたようによく燃えるから、今でも、まだあの農家がそこに建っているかどうかは疑問だ。おそらくはあるまい。よし建っているにしても、死の灰が降ったから、価よく貸すといわけにはいかないだろう――が、当時ぼくら――つまり、ぼくとピートは気に入っていた。下水がなかったので家賃は安かったし、居間だった部屋に置いたぼくの製図机に、冬の陽ざしがよく当たった

 ただし欠点があった。この家は、なんと外に通ずるドアが十一もあったのである。
 いや、ピートのドアも勘定に入れれば十二だ。ぼくは、いつもピートに、専用のドアをあてがってやることにしていたのだ。この家の場合には、使わない寝室の窓に打ちつけた板切れで、そこに、ちょうどピートのヒゲの幅にねここしを切ったのである。なぜこんな面倒をしたのかといえば、今日までぼくはあまりに多くの時間を、猫のためにドアを開けたり閉めたりすることに消費しすぎていたからだ――ぼくが一度計算をしたところによると、文明の曙光が射してこのかた、人類は九百七十八(人間)世紀分の時間を猫にかまけて費やしてきているのだ。なんなら、もっと詳しい数字を挙げてみせてもいい。
 わがピートは、人間用のドアをあけろとせがむ場合は、遠慮会釈なくぼくの手を煩わせたが、それ以外は、ふつうこの自分用のドアを用いた。ただし、地上に雪の積もっているあいだは、絶対に自分のドアを使おうとはしなかった。

 綿毛の化物のような仔猫時代から、ピートはきわめて単純明快な哲学を編みだしていた。住居と食と天気の世話はぼく任せ、それ以外の一切は自分持ちという哲学である。だがその中でも、天気は特にぼくの責任だった。コネチカットの冬が素晴らしいのは、もっぱらクリスマス・カードの絵の中だけだ。その冬が来るとピートは、きまって、まず自分用のドアを試み、ドアの外に白色の不愉快きわまる代物を見つけると、(馬鹿ではなかったので)もう外へは出ようとせず、人間用のドアをあけてみせろと、ぼくにうるさくまつわりつく。

 彼は、その人間用ドアの、少なくともどれか一つが、夏に通じているという固い信念を持っていたのである。これは、彼がこの欲求を起こす都度、ぼくが十一ヶ所のドアを一つずつ彼について回って、彼が納得するまでドアをあけておき、さらに次のドアを試みるという巡礼のたびを続けなければならぬことを意味する、そして一つ失望の重なるごとに、彼はぼくの天気管理の不手際さに咽喉を鳴らすのだった。

 こうして見極めがつくと、それきり屋内に閉じこもり、生理的欲求がぎりぎりの線に来るまでは絶対戸外に出ようとしない。外へ出て帰って来ると、四趾に雪が凍りついて、板敷の床の上に木靴{サボ}でもはいているような音をたてる。そして、ぼくをにらみつけ、その氷を残らず舐めてしまわないうちは、ぼくがどんなに機嫌をとろうが決して咽喉など鳴らさない――舐め終わると、また次の欲求の時まで、仲直りする。

But he never gave up his search for the Door into Summer.


訳 福島正実


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