グールドの国(2)





『グレン・グールド複数の肖像』 という本があります。
これに、グールドの発言が出ているので、紹介します。

「バッハをハープシコードで弾かねばならないなら、ショパンもまた当時のエラールのピアノで弾かねばならないだろう。だが、こんなことは誰も考えないのではないか、違うかい、ブリュノ?」

このあと、実際にはエラールのピアノで弾いたショパンも出たのですが。
これはグールドの間違いの例としてその本に書かれた部分なのです。

バッハについては言うまでもなく当時の楽器をわざわざ使って演奏する例は相当数あるわけで、そのようなことは多くの人が考えるのです。

グールドが世にでたのは、現代のピアノで弾いたゴールドベルクであって、その演奏は革命的であったけれども、みんながグールドのように考えるわけではないことは言うまでもないのです。

ブーレーズもグールドと同じようなことを言っていて(しかもグールドよりも酷い)、(古楽器を使った)アーノンクールのことを「そこまでするなら、彼はかつらをつけ、ろうそくの下で演奏したほうがいい」といったそうです。(乱暴もいいところ)
それに対してアバドは「そうお思いになりますか?私は多くをアーノンクールから学びましたよ」といったそうです。

指揮者や演奏者というのは、自分なりに解釈しそれを表現する人のことなのだけれども、これは実に面白い人たちなのだ。

例えば、文学だと、特に韻文というのは、もちろん書き手がいるのだから書き手の考えやら心情やらがあるのだけれども、それはお構いなしに読み手は様々に解釈できるわけです。
しかし、普通の場合、解釈した者は「ぼくはこう解釈したよ」で終るわけです。
ところが、音楽というのは作り手がいて、演奏者がいて、聴き手がいる。
聴き手は、これまた独自の解釈をすることになるのです。

絵画にしても彫刻にしても中間に解釈者がいることはなく、直接見て解釈できるわけで、このあたり、音楽は独特の世界であるといわざるを得ない。

不思議なことに似ている分野があります。「哲学」。
哲学書は韻文でも文学でもないのに、入門書とかがやたらあるのだ。
そもそも哲学書とは様々な解釈を意識して書かれたものなのだろうか。
たぶん、違うはずなのだ。
言葉を選んだり、あるいは作ってまでして、事象を厳密に捉えることにこだわった文章のはずなのです。

ひょっとして、ただ難解なだけではないだろうか。だとすると、文章としてはいささか不出来であるといわざるを得ないのです。
(ただし、二ーチェはどう見ても哲学的な解釈が可能な「文学」としか思えないものを書いているわけですが)

音楽というのは、もともとは音符になっているわけで、これはデジタル信号ともいえます。
それが音になると、音符という信号以外のものが明らかに入ってきます。
聴き手はそれを耳にして、解釈する。

哲学はどうだろうか。
人間の感覚は様々な事象をそれほど厳密には捉えていない。おぼろげに解釈している事柄が多いはずです。
これを厳密に表現しようとする。
パソコンでお絵かきしたりすると、フリーハンドでもいいけどグリッドというものがあります。
個々の事象をグリッドにして捉えようとするのがある種の哲学ではないかと思うのです。
だったら、分かりやすくなるはずなんだけど、実はこのグリッドがまた人によって違う。共通言語にはならないのだ。

話が大幅にそれましたが、「解釈する」という行為は個人の自由裁量なわけで、バッハの曲をピアノで弾こうがハープシコードで弾こうが勝手なのだ。

☆結局、文化相対主義かね  (*´・ω・)ゞ