vocalise ‐2nd‐静かな練習室に、直江は自分の心音だけが響き渡っているのではないかとと錯覚した。煩いまでに早まる心音は、直江にとって経験のない感情さえも伴っていて更に落ち着かなくなる。 そして、逸らせない視線。まるで、猛獣に狙いを定められた小さな獣のように直江は高耶を見つめたまま、再び固まっていた。 「ごめんなさいね、高耶くん。練習の邪魔をして」 「…いえ」 練習室に入ってまだ数秒しか経っていないはずなのに、冴子が声を発するまでに数分もあったように感じた。直江はその声にようやくハッと我に返り、小さく息を吐き出した。そうして直江は呆然と頭の片隅で、彼とどんなに沢山目を合わせたとしても金縛りに遭ったように感じるかもしれないと思った。引き込まれて、離す事が出来ないのだ。高耶を見ていると。 「今朝も話したけど、これが私の弟の信綱よ」 「…初めまして」 彼がぎこちなく、けれどあまり興味も無さそうにそう言って頭を下げた。それを見届けた直江も彼に向かって頭を下げる。 「初めまして。私は直江信綱といいます」 「…なお、え…?」 姉と苗字が違うことに気づいたのだろう。彼は少し首を傾げた。 「ああ…私は母方の実家に養子にいったので、苗字が違うんです」 「因みに、お医者さんだから。外科の」 続けて冴子がそう言えば、彼の片眉がピクリと動いた。 「いい機会だからちゃんと診て貰って。本当は整形外科に行った方がいいんだけど…」 「…っ冴子さん!」 「だめよ、高耶くん。いつも言っているけど、もっと自分の身体を大切になさい。バイオリンが弾けなくなってしまうのは嫌でしょう?」 彼はぐっと眉を寄せて俯いてしまった。 静まり返った部屋で、直江は沈黙を破るように徐に彼に近づき、「失礼します」と一言告げて左腕に触れた。触れた瞬間、高耶の身体に緊張が走ったのが分かった。全身で"触るな"と言っているように、神経が尖っている。けれど直江は高耶が左手に持っていたバイオリンを無理やり下ろさせて、そっと服の袖を捲り上げる。 左腕は見た限りでは何の外傷もなかった。だが少し腕を動かしただけで、高耶の眉がピクリと反応を示した。それを目聡く見た直江は高耶の手首を優しく解すようにマッサージした。それを痛そうに受ける高耶は結局何も言わず、口を閉ざしたままだった。 「このままでは良くありませんね…。姉さん、湿布はありますか?」 「あるわよ。今持って来るから待っていて」 「お願いします」 直江の返答を聞いて、冴子は練習室を出て行った。その後も、直江は高耶の腕をマッサージすることをやめなかった。今はその場凌ぎにしかならないが、少しでも痛みが和らげばいいと。 「痛み出したのはいつからですか?」 「・・・・・・・・・」 「では、リハビリはどんなことをしましたか?」 「・・・・・・・・・」 何度直江が問おうとも高耶は口を開かなかった。視線が高耶の手首に触れる直江の手に落とされて、それを酷くきつい眼差しで睨んでいた。だがいくら高耶が頑なに拒んだとしても、一人の医者として患者がこうした症状を起こす原因になったことを聞かなければならない。だから直江はピアノの椅子に高耶を座らせて優しく聞いた。 「貴方のことは姉に少し聞きました。少しだけでいいですから、正直に話してください。このままだと治るものも治りませんよ?バイオリンが弾けなくなってしまいます」 「…別に、手なんて治らなくてもいい」 「え?」 高耶の発言に直江の手がピタリと止まった。顔を上げれば完全に表情を消してしまった高耶が居て、直江は少し困惑した。あの目の輝きさえも、失われている。 「バイオリンなんて嫌いだ。こんなもの無ければ父さんも母さんも死ななくてすんだ」 「…高耶さん…」 「バイオリンなんて…」 高耶の顔が苦痛に歪んだ。今にも泣き出しそうな瞳を必死で隠すように、高耶は直江から視線を逸らして唇を噛み締めた。 直江は高耶の腕に触れたまま呆然としてしまった。なんと言っていいのか分からなかった。けれど、直江に言える唯一つのことを静かに告げてみた。 「私は貴方のバイオリンの音をもっと聴きたいと思いました」 「…え?」 「さっき、この部屋で貴方が弾いているのを見て、音を聴いて、ずっと貴方のバイオリンを弾く姿をみていたいと…。…初対面の、こんなおじさんに言われても嬉しくないかもしれないですが」 その言葉を聞いて、高耶は目を真ん丸にさせた。言われている意味が、じわりじわりと脳を侵食していくかのように、高耶の表情も徐々に歪んでいった。泣きそうな、何か言いたげな、でも何も言えずに唇を噛み締めてまた俯いてしまった。 冗談を交えながら言った直江自身も、本当に自分は何を言っているのだろうかと思った。他人を思いやることなど、普段の自分なら滅多に無いのに。患者と対する時だって義務としか感じていないのに。不思議だと思った。無愛想な子供に、それも男に、直江は自分の中の何かが変えられていくような気さえした。 「…ヘンなやつ…」 ボソリと聴こえてきた声に、直江は笑った。呆れたように言う彼の表情は、今日見る中で一番人間らしい表情だった。だから妙に、嬉しくなった。 高耶の腕のマッサージを続けていると、ようやく冴子が戻ってきた。直江はそれを受け取ると、丁寧に高耶の腕に貼ってやった。 →BACK |