受話器の向こうで男は言った。
医者や、家庭教師が華絵を待っている。与えられたカリキュラムをこなすのが跡目としての役目ではないのかと、やや早口で責めるその声を聞いて、誰かに似ていると思った。
けれど、上手く思い出せない。
「華絵様……」
不安げにこちらを見上げる小巻の視線を感じながら、華絵は一方的に切られた受話器を見つめていた。結局電話の向こうの男は、華絵に名乗ることもしなかったと、気付いたのはずっと後だ。
迎えの車は、電話からわずか1時間もしない内に藤代の里へとやってきた。
荷物をまとめる暇も、もう一度実家に戻って母やマキと話し合う暇もなく、黒塗りのセダンから降りてきた運転手が伊津乃邸の呼び鈴を鳴らす。
急な事態に茜はひどく動揺し、一旦は先程の話を忘れるようにと華絵に告げる。
「あなたが一族の生業に疑念を抱いていることを知れば、武永様はどんな手をつくしても華絵様を意のままにしようとなさるはずです。華絵様、あなたはつい先ほど一族の全てを耳にしたばかりです。こんなに早く連絡が来るとは思いませんでしたが、今はまだその時ではありません。どうか……」
「わかっています。茜さん、安心して」
誰もいない応接間で、声を潜めたまま何度も何度も同じセリフを繰り返す茜に頷いて、華絵は立ち上がった。正直な所、「その時」が具体的に何を指すのか、華絵にはよく分からなかったが、これ以上運転手を待たせるわけにも行かないだろう。ただ茜があまりにも切迫した様子だったので、すべて承知しているようなふりをして微笑んでみせた。
とにかく当面は、何も知らないふりをすればいいのだろう。
華絵には簡単な事だ。少し前の自分のように振る舞えばいいのだから。
「やっと出てきましたね」
伊津乃邸の玄関を出た少女を見て、銀縁メガネに灰色のスーツを着た小柄な男性が手招きする。
彼は戸惑う華絵をよそに、彼女のために後部座席のドアを開き、呆けている彼女を見て顔をしかめた。
短く切りそろえた髪に、やや頬の窪んだ面長の顔立ち。
目は細くつり上がっていて、彼の神経質そうな気性をよく現していた。
その出で立ちにどこか既視感を覚えて、また華絵は眉をひそめる。
「あ、あの……」
「さぁもたもたしないでください。僕は夕方までに東京に戻らないと行けないんだから」
華絵の肩をつかむなり後部座席に押し込むそのためらいの無さに、やはり昔からの知り合いなのだろうかとよぎったが、全てを取り戻した今、過去に彼の姿と重なる人物は居ない。
「あの、どなたですか」
咄嗟に出てきた少女の言葉を聞いて、男はチラリと華絵を見やると、眼鏡の縁を持ち上げながら黙ってそっぽを向き、前方の助手席へと乗り込んだ。
それでも辛抱強く答えを待っている華絵をあえて無視したまま、男は胸ポケットから取り出した携帯電話を耳に当て、人が変わったように愛想のいい声を出して通話を始めてしまう。
こちらと会話をする気がないのだろう。
しぶしぶといった感じで里まで迎えに来てくれたらしい男の素っ気ない対応に萎縮して、華絵は諦めてシートの上で背中を丸める。
連れ戻されたら、どうなるのだろう。
武永は、華絵が記憶を取り戻したことに気付くだろうか。それとも、そんな瑣末な事に関心などは示さないだろうか。また、生ぬるい牢獄のような場所で静かに目を閉じて暮らすことを強いられるのだろうか。
――茜さんには、何か策があるんだわ……
「その時」とは、つまりそういうことだ。
まだ準備が整っていないだけで、華絵よりもずっと早く家の陰謀に気付いていた彼女のことだから、何かしらの策を持っていても不思議じゃない。
――戦うとは言ったけど、……私に何が出来るんだろう
無力で、無知なのは変わらない。
全てを思い出したからといって、いきなり生まれ変わったわけじゃない。力を持ったわけでもない。
藤代の家を、一族を、根絶やしにする。
――そんなことが、可能なのかしら……
茜はそう言ったけれど、到底敵う相手じゃないのはお互いに分かっている。
例え命をかけた所で、かすり傷の1つも与えられないということも。
「失礼します」
膝頭を見下ろしながら呼吸すらも忘れていた華絵は、ふいにかけられたその言葉に肩をびくつかせ、隣に乗り込んできた人物を見上げる。
電話が来てからというもの華絵に寄り付こうともしなかったレンが、青い瞳を伏せたまま彼女の横に静かに腰を下ろす。まさか彼が同乗してくれるとは思っていなかったから、驚いて無遠慮に見つめてしまう。
「出せ」
レンが乗り込んだのを知ると、助手席の男は一瞬携帯電話から耳を話して運転手にそう命じた。
「……小巻は?」
声をそばだてて隣にいるレンにそう尋ねると、彼はまっすぐに背筋を伸ばしたまま視線だけを華絵に向ける。
「小巻は染谷の家に戻ることを命じられました。もう東京には来ません」
「……そんな、どうして」
「姫様の"家出"を手助けしたと思われているのでしょう。事実なのでかばいきれませんでした」
「誰が、そんなつまらないことを責めるっていうのよ」
囁き声で、詰め寄るようにレンを見上げれば、彼が視線を助手席の男へ向ける。
「我妻修平様です。武永様の秘書を務められている方で、近頃は俺たちの仕事も彼の監視下にあると聞きます」
「……あの人が」
さっきの電話の人。
電話よりも、ずっと声が高くて、気付かなかった。
彼は養子縁組で一族に入ってきた外の人だと小巻も言っていた。
ならば、先ほどからずっと彼に感じている既視感は自分の気のせいだったのだろうか。
「あなたの婚約者でもあります」
ついでのように付け足されたその言葉に、華絵は咄嗟に反応できなかった。
だから困惑の瞳でレンを見つめるけれど、彼は前方を注視したままこちらを見てはくれない。
「彼が我妻と養子縁組をする前から決まっていたことです」
「……聞いて、ないわ」
「はい」
車内には、仕事先の対応に追われている修平の甲高い声ばかりが響く。
華絵とレンの会話に、きっと彼は気付いていないだろう。
助手席の背もたれからわずかに覗くスーツの後ろ姿と、短く切りそろえられた髪を眺めながら、華絵は頭が真っ白になっていくのを感じた。
それと同時に、やっぱり彼の姿にはどこか見覚えがあると思った。
「……お父様に、似てるんだわ」
「は?」
「どこかで見たことがあると思ったけれど、あの人、お父様にそっくりだわ」
「……ああ」
そうかもしれませんね、とレンが小さく答える。
顔が似ているわけでも、背格好が似ているわけでもないけれど、我妻修平を見ていると父の姿と重なる。
若い時の父も、ああやって武永の手となり足となりあちこち飛び回っていた。
我が子にかける愛情は薄く、藤代誠にとって雪絵も華絵も家のための道具でしか無かった。もしかしたら、母にもそうやって薄情に接していたのだろうか。
あの日小巻の部屋で、父の不倫のニュースを見たのも、もうずっと昔の事のように思える。
記憶を取り戻した今、それについて考えてみても、大した感傷も湧かないのだから、華絵にとってもまた、その程度の存在なのだ。
――……愛情が薄いのは、お互い様だわ
今思えば、家族はとっくの昔に破綻していた。
否、はじめから機能などしていなかった。
たくさんの使用人と、色とりどりの花が咲く穏やかな里に囲まれて、なんとなく誤魔化し続けてきただけの希薄な家族だ。
唯一絆を感じられた雪絵もいない今、華絵が本当の意味で家族と呼べる人物などいない。
気付かなかっただけで、もうずっと昔から、一人ぼっちだった。
レンも、武永に刃向かう華絵を良しとはしない。
小巻を、側においておくことももう叶わない。
止めどなく溢れてくる不安を堪えながら、シートの上に置かれたレンの長い指先を見つめていた。
この手が、たくさんの罪を犯してきた。
そう知っても到底信じられないほど穢れのない指先を見て、また奥歯を噛みしめる。
彼がこの手をどう使って、どう凶器に変えて戦うのかを知っている。
鋭利な刃物となって、たくさんの血を流してきたのだろう。
だけど同時に、それは華絵を守り続けてくれた温かい手でもあった。
一人だと自覚した途端、この期に及んでレンにすがりつきたくなるなんて、自分勝手なわがままだと自覚しながら、華絵はそっと隣の青年を見上げる。
走り続ける車内で、止まない修平の声をBGMにしながら目を閉じていたレンが、わずかに長いまつげを震わせる。
そんな彼の仕草を一心に見つめながら、華絵は青年の指先に自分の手のひらを重ね、力を込めた。
その熱を感じて、青年が薄くまぶたを開いて目線を寄こす。
レンがなぜ逆らったのか、華絵はよく知っている。
華絵を守るために生きているのだと、そう言ってくれたから。
彼は言葉通り、全ての物から守ろうとしている。
武永の脅威から、一族の罪から、途切れない罪悪感から。
「……私を、あの人と結婚させるつもりなの?」
恐怖に瞳を潤ませながら、消え入りそうな声で華絵が囁くと、レンは唇を固く結んで目を逸らす。
「守るって、言ったわ。なのに、どうしてお祖父様の言いなりになるの」
「俺が守るのはあなたの命で、あなたの人生です。結婚相手は家が決めることです」
淡々としたレンの声を聞いて、修平に決して聞かれないよう注意を払っているのが伝わった。
レンにしてみれば修平の存在などとっくに知っていたことで、今更動揺することもないのだろうが、華絵にとっては寝耳に水だ。
震え出した指先でどんなにレンの手を強く握っても相手の体温を感じられなくて、少女が悲しみに打ちひしがれる。
彼の対応が冷たいからじゃない。
本当に分かり合えないという事を、痛感してしまったから。
しょうがないのかも知れない。彼は狗で、人ではないのだから。
雪絵の出生を聞いた時、そのあまりにも悲惨な経緯を知って、雪絵を悼みながらも、華絵は同時に母を哀れんだ。同じ女として、あまりにも不憫だと思ったからだ。
その時もマキは、菖蒲の命があって何よりだと思ったのだろうか。
好きでもない男に触れられる屈辱が、その爪痕が、どれだけ菖蒲を傷つけたとしても、ともかく命があってなによりだと、母の狗は安堵したのだろうか。
狗に、人の心を理解してもらうのは、もしかしたらとても難しいことなのかもしれない。
「レン……私を守るなら、私の心を守ってよ」
そう呟いた少女の瞳から涙が一粒こぼれ落ちた。
それが華絵の手に落ちて流れ、握ったレンの指先に染みこんでいく。
唇を結んだまま、わずかな葛藤を浮かべる青い瞳が少女を見下ろした。
彼は華絵を守ると言った。
でも、心のない人生を長く生きながらえるだけの生涯など、華絵にとっては人生ではない。
そんなものは、生きるとは言わない。
それを、彼にどう伝えればいいのだろう。