「なんだ、国枝は帰ったのか」

 レンだけがぽつんとデスクに座る調査員たちのフロアを見渡して、羽織っていた上掛けを脱ぎながら阿久津が言った。
 彼は青年が振り返って頷くのを見ると、ちょうどいいやと呟いてレンを自分のデスクの前に呼び寄せる。

「お前がビルを出てから、藤代の里へ戻るまでの経緯を書面で報告せにゃならん。朝一で送るもんで、今日中に仕上げられるか?」
「はい」

 素直に答えるレンを見て、阿久津が満足そうに頷いた。
 少し疲れているのか、目の下には薄っすらとした隈が浮かんでいる。

 富士白第二ビルの長であり、広報や連絡係、はたまた事務仕事まで一手に担っている阿久津にとっては、ここ数日間の怒涛の出来事は悪夢だったに違いない。
 レンが抜けたことにより人員を確保しなければならなかったし、同時に華絵を捜索しながら、被害を被った一般人やマスコミへの対応をこなし、烈火のごとく怒り狂うお上に申し開きをし、同時に通常の任務までこなさなければならなかった。

「まったく、鬼を駆除している方がよっぽど楽だよ」
「すみません」
「こんなこと、もう勘弁してくれよな。姫様の我儘にお前が振り回されてどうすんだ」

 何の気なしに零した愚痴に、レンが乾いた笑みを浮かべる。
 それを見て、阿久津は自分がどれだけ頓珍漢な事を言ってしまったのか気付く。

 長年楔姫とは疎遠になってしまっていたレンだったから、忘れてしまっていた。
 使い勝手の良い、従順なただの社員のような気がしていたのだ。

「まぁ、そりゃそうだな……お前も狗だもんな……」

 楔姫の我儘を、彼らが拒めるわけもないのだ。

「華絵様の様子はどうだった? 修平様が迎えに行ったと聞いたが、婚約の件は彼女は知らないんだろう? また逃げ出したりしないだろうな?」
「落ち着いて受け止めていらっしゃいました。ただ……」
「ただ?」

 タバコをつけながら問いかける阿久津の姿を見下ろしながら、レンが口ごもる。

――「……私を、あの人と結婚させるつもりなの?」

 瞳に涙を浮かべながらそう言った華絵の姿が、今でも瞼の裏に焼き付いている。
 あの時、なんと返せばいいのか分からなかった。
 彼女がそれを望まないことは想定できていても、あんな風に泣かれるとは思っていなかった。

 胸が痛んで、どうにかしてあげたいと思った。
 けれど、それは彼女の命よりも優先する事柄なのだろうか。
 安心で、安全で、平穏な暮らしよりも守るべきことなのだろうか。

 華絵は、自分がどれほど危うい立場にあるのか、いまいち理解していないフシがある。
 真実から遠ざけられていたのだから無理もないだろう。だからこそ、多少彼女の意思を無視しても、先回りをして、守ってきたつもりだった。

「……心を守るとは、どういうことなのでしょうか」
「はぁ?」
「人の心とは、なんなのでしょう」

 ぼんやりと問いかけるレンは、こちらを向いていたけれど、どこか遠くを見ているようだった。

「俺には、姫様のおっしゃった意味が、……よく分かりません」
「お前が弱音を吐くなんて珍しいな。よりにもよって2日寝てない俺に哲学の問いかけか?」
「……いえ」

 気のない阿久津の返事に諦めたのか、レンが踵を返すと、阿久津が慌てて呼び止める。

「おいレン、あんまり考えすぎるな。人の心ってのは、移ろうんだ。お前らみたいにずーっと同じ事考えて、同じもんだけを大事にして、そのためだけに生きりゃいいってもんじゃない。その時々で、移ろうんだよ。だから、振り回されるな。お前はお前のやり方で、姫様を大事にしていればいい。これまでのようにな」
「……はい」
「お前がチームの要なんだ。頼むぞ」

 小さく頷いた青年は、自分のデスクに戻ると思いきやそのまま静かにフロアを後にしてしまう。
 その後姿を不安げに見守りながら、彼の背中が見えなくなると阿久津は盛大に溜息を零した。

「……ったく」

 昔から、手のかからない狗だった。
 どんな狗でも楔姫の一言に振り回され、多かれ少なかれ任務に支障を出す中、彼だけはいつも忠実に、確実に仕事をこなしてくれる心強い存在だったというのに。

――結局、楔姫か……

 いつだって、家が抱える問題はそれだった。
 ただ仕事がしたいだけの阿久津にとって、それはいつも足枷にしかならなかった。だから疎ましかった。
 でも、仕事に必要な狗が見つめる先にいるのはいつだって楔姫で、結局いつもの堂々巡りに陥る。

 家と、姫と、狗と。三者が三者とも、互いに我慢を強いられているような歪な関係だった。
 発祥から今日まで、ずっとそれが変わることはない。
 それぞれが釣り合った形に収まることなど、未来永劫ないような気もしている。

 多分それが正しい関係なんだろうと、達観する程度には、思い知らされてきた。



 広いフロアを、何となく歩いていた。
 当てもなく歩きながら、自分がとんでもない愚か者になったような気がして、レンは僅かな不快感に眉根を寄せた。苛立っているのだと思った。多分、物分かりが悪い自分にだろう。

 喜怒哀楽という感情は、狗にもある。
 それは多少独特だけれど、人の喜怒哀楽とそんなに違わない。
 ただ対象が、感情のほとんどが楔姫に向いているという、それだけの違いだ。

 人が何を思い、何を憂い、何を愛しく思うのか、ちゃんと知っている。
 人には理性があり、良心があり、残虐な一面もある。それもちゃんと知っている。

 けれど、それに共感することは出来ない。
 そういうものだと、ただ知っているだけだ。

 だからだろうか。華絵の言葉が、その真意が、よく汲み取れないのは。

――「レン……私を守るなら、私の心を守ってよ」

 守ってきたつもりだ。
 全力で、命をかけて、彼女だけを守ってきたつもりだったのに。
 これ以上、何を捧げろというのだろう。これ以上、どう尽くせというのだろう。

 ずっとずっと、楔姫のためだけに生きてきたというのに。

「……レン?」

 声をかけられて、レンは我に返り、素早く振り返る。
 気づけば両手を強く握りしめ、立ち止まったまま廊下を見下ろしていた。そんな彼の様子を不思議そうに眺めながら、華絵がもう一度青年の名を呼ぶ。

「どうしたの?」

 首を傾げる少女を見て、彼女の気配に気づかなかったことに内心驚きながらもレンは平静を装う。
 監視役の宝良は何をやっているのだろうと思いつつ、こんな夜更けに薄着でビル内をうろつく華絵を見た。
 彼女にしてみれば何の気無しの散策でも、その一挙手一投足が監視され、報告されているというのに、本人は呑気な表情だ。

「部屋に戻ってください」

 華絵の問いかけに答えずに、青年は短く告げる。
 それが気に入らなかったのか、少女は僅かに唇を尖らせて、レンを睨みつけた。
 自分の狗に命令される謂れはないと言いたいのだろうか。それでも、レンはもう一度同じセリフを華絵に告げた。たとえ嫌われても、華絵を守るのが自分の役目だと思っているから、今すぐ彼女が戻ってくれないのならば、担いででも部屋に戻そうと思った。

「……どうしてレンはそうなの」
「このビルは、部外者が不用意にうろついていい場所ではありません。今すぐ用意された部屋に戻ってください」
「勝手に連れてきてその言い方はないんじゃないの? 私は好きでここにいるわけじゃないのよ」
「この場所が不満ならば近日中に元のマンションへ戻れるように手配します」
「あんな所にだって二度と戻りませんから」

 すっかり喧嘩腰の華絵に呆れてレンが口を閉じる。
 このままここで不毛な言い合いをするつもりはない。

 ただ部屋に戻って欲しいだけなのに、なぜそれがこんなにも難しいのだろう。
 彼女を相手にすると、いつだって上手に事が運べない。思い通りにならない。
 華絵を守るという使命を持ったレンにとって、一番の強敵は彼女自身なのかもしれない。
 記憶を取り戻してから、否、再会してからというもの、その強情さに振り回されてばかりいる。

「……俺に、どうしろと言うんですか」

 疲れて、どこか諦めたような弱々しい口調で言う。
 どうせ勝てない相手に、押し付けるのも馬鹿馬鹿しいといい加減学ぶべきなのかもしれない。

「姫様……俺は、長らく姫様との接触がなく、狗としては成熟していません。あなたに躾けられたこともない。だから、不出来な俺にあなたが不満を持っているのは分かります。でも、努力はしています」
「……何言ってるの? 私、そんなこと一言もいってないじゃない」

 青年の言葉に、少女の表情がますます歪む。
 また、見当外れなことを言ってしまったのだろうか。
 もうこれ以上失態を重ねないように俯いて黙ると、華絵が近寄ってレンの顔を覗き込む。

「あのね」

 そう切り出した少女の顔が思いの外近く、青年がわずかに一歩後退する。
 それを引き止めるようにして、華絵がレンの腕を掴んだ。

「はっきり言っておくわね。私、我妻修平さんと結婚するつもりはないわ。それに茜さんの計画にも乗るつもりよ」
「……」

 一息に告げられて、青年は瞬きも出来ずに、青い瞳を見開く。

「でも、それにレンを巻き込むつもりはないの。レンに協力してもらおうとは思わない。レンは、今までどおり家に仕えていて。これは命令だと思ってくれていいから」
「……そんな命令は、聞けません、姫様」
「それから、部屋を出たのは散策じゃなくて、宝良さんのお部屋に来客があったからよ。あの……えっと、ハクがね」
 
 わずかに頬を染めて、視線を逸らしながら華絵が口ごもる。

「ハクがなんですか?」
「えっと……あ、あの二人って恋人同士なのかしら……た、宝良さんの隣で……寝始めてしまって、それで私、居た堪れなくなって抜け出してきたというか……」
「ああ」

 途切れがちに告げられた言葉に納得する。
 確かにハクは、毎晩宝良と床を共にするほど姫に依存した狗だ。
 華絵が居たからといって、長年の習性は変えられなかったのだろう。

「申し訳ありませんでした。すぐにハクを追い出します」
「い、いいのよ!! そんなことしないで!」

 歩き出そうとしたレンの腕を慌てて引き戻し、華絵がブンブンと首を振る。

「そんな無神経なことしちゃだめでしょっ!」
「……無神経でしょうか」
「すごく無神経よ!」

 そういうものなのだろうか。
 宝良は家の命で華絵の監視役を任されたのだから、多少狗に我慢を強いても任務を遂行すべきだと思うのだが、華絵の慌てぶりを見ていると自分の考えに自信がなくなってくる。

「……無神経ですか」

 そういえば国枝にも、無神経だと嫌味を言われたことがある。
 案外、そうなのかもしれない。自分を聡明な狗だと思ったことはないが、口をそろえて無神経だと罵倒されるほどダメだと感じたこともなかった。けれど今、そんな僅かなプライドさえ揺らぎ始めている。

 知らず知らずと溜息を零した青年を、華絵が不安げに見上げた。

「……レン、どうしたの? なんだか様子がおかしいわ」
「そうでしょうか……」
「えっと……私で良ければ、話を聞くけど」
「…………」

 あなたが今大人しく部屋に戻ってくれるだけで気分は晴れるのだと言いたい気持ちを堪えて、レンが薄く微笑む。

「姫様。俺は、自分が思っていたよりもずっと、馬鹿な狗かもしれません」
「……ええっ!?」
「何が正しいのか、分からなくなりました」
「レン……」
「失礼します」

 腕をつかむ少女の手を優しく解いて、レンはそう告げると少女の脇を通り抜ける。

 人の心とはなんだろう。正しさとは誰が定めてくれるのだろう。
 分からない。

 本家の姫に仕える身として、誠心誠意尽くしてきたつもりではあったが、今、彼女の言葉を理解できないでいる。
 道を見失ったような危うさを自身に感じる。

 我妻修平と結婚しなくても良い。茜の策に乗っても構わない。
 彼女が本当にその道を選ぶというのなら、また身を尽くして守るだけだ。

 だけど、それよりも確実に彼女を守れる道が見えているのに、見ないふりをしろと言うのだろうか。
 わざわざ愛しい人を、危険な道に放り込めと?

 そんな愚かな真似を、愚かな道を、なぜ選べというのだろう。
 そうはしたくないのに。なぜ、分かってくれないのだろう。

 ビルの一階にある自分の部屋に戻ると、レンは着替えもせずにベッドの上に仰向けに倒れこんだ。
 灰色の天井が、無機質な色で青年を見下ろす。

 家と対峙するならば、それなりの用意が必要だ。
 茜の策とやらは知らないけれど、いずれにせよきちんとした参謀が必要だろう。武器もそれなりに用意しなくてはならない。ほとんど傾いている伊津乃家にそんな財力があるとも思えないから、染谷家の助力も必要だろう。

 そんな風に考えながらも、どうあがいても勝算の薄い作戦に全く乗り気になれない自分がいて、レンは寝転んだまま天井に向けて息を吐いた。

 落ち込むというよりは、やはり苛立っているといった方が近い。
 イライラして、物を考える気力も湧かない。

 阿久津に頼まれた報告書を仕上げないといけないけれど、それすらもやる気が失せて、目を閉じる。
 こんな捨て鉢な気分になるのは初めてだったが、ほんの少しでも休めばまた回復するだろうと思った。

 そんな静かな室内に、控えめなノックの音が響く。

 今度こそ、ドアの向こうの気配を察して、青年が薄く目を開いた。