ヴァイオレット奇譚「Chapter5・"盲目のヴァンパイア"」
新校舎には地下がある。
別に確固たる目的を持って設計したわけではないが、長い間日陰の存在だった習性だろうか。
意味も無く地下室を作ってしまった。
けれど出来上がってみれば、これはこれで意外に便利な物だと気付く。
照明も無く、広いだけの薄ら寒いそのスペースには電動のノコギリが二台と、赤ん坊が納まる程度のほんの少し大きな空の金庫がいくつか転がっていた。
その地下の片隅にある簡易なイスに腰掛け、目の前に置かれた一つの黒い金庫に向かって金髪の美しい青年が語りかける。
「……勘違いしないで欲しいんだけど、僕は快楽殺人者じゃないんだ」
「お前は異端者だ」
金庫から、恨みがましい声が響く。あれだけミンチにしたのに、もう話せるほどに回復したのかと
クレアは感心した。
「お前だけではない。第三世代は異端者の集まりだ。セロの血筋を絶やそうとする裏切り者だ!!」
「そうかもね」
「お前たちが自分勝手な行動を繰り返したせいで、我々第四世代は多くの力を失ったんだ」
「…………」
「なぜ……なぜ第四世代にきちんと力を分け与えなかった! お前達にはそれが出来たのに……!!」
ギチギチと、骨が再生されてる音が響く。この小さな金庫ではさぞや窮屈な事だろうに。
「悪いけど、僕は個人主義なんだ。食うのも食われるのも好きじゃない」
「なにを言うか。貴様だって、第二世代の肉を食らったからこそ今の力があるのだろう……」
底意地の悪い口調で言われて、クレアの脳裏にはるか昔の記憶が過ぎった。
記憶の中の妻は美しく、そして、いつも寂しいと泣いている。
「第二世代からきっちりと恩恵を受けておいて、あとはそ知らぬフリか! 一族の恥め!!」
「……黙れ」
声のトーンを落としてそう言うとクレアはイスから立ち上がり黒い金庫を見下ろした。
「あと何人海に沈めたら、第四世代ってのは絶えるのかな……もううんざりだ」
「……貴様に沈められた仲間達の無念も、すべてヒューゴが晴らしてくれるさ……」
「ああ、そう。一応親玉いるんだ。ねぇ、どうして第四世代って徒党組むのが好きなの?」
「いつか俺も、ヒューゴが見つけてくれる……」
「やっぱり弱いからかな」
「ヒューゴこそがセロの生まれ変わりであり一族の長となる男だ!!」
熱の入った言葉にクレアはため息をついてしゃがみ込んだ。どこまで行っても彼らとは平行線だ。
決して分かり合えない。徹底的に潰しあうしかないのだろうか。
「……もうさよならだ。見つけてもらえるといいね」
「今のうちにせいぜい逃げ回っておくんだな……裏切り者の第三世代めが……っ」
「そうするよ」
そう言ってクレアは立ち上がり、扉へ向かってゆっくり歩き出すが、やがてふと思い立ち振り返る。
「そうだ。君、熱を上げてるわりにはセロの事全然知らないみたいだから教えてあげるけど」
「……セ、ロ」
「そう。初めて生まれたとき、アレは海の奥底を漂っていた。セレベス海あたりかな?」
「……う、み……海だと!?」
「僕たちの祖先は海で生まれ、背中にはヒレまで付いていたんだ」
「……そ、そんな……」
「セロって、魚だったんだね」
「う、嘘だ……」
「いつかヒューゴも、僕が故郷に帰してあげるよ」
「嘘だ……嘘だ!!」
「サヨナラ」
そう言って踵を返し彼は扉の前で待機していたルイスに目で指示を送る。
それを受けたルイスが、手際よく金庫を運び出し、車に乗せる。
「嘘だ!!……嘘なんだろ!? 俺たちの祖先はヴァンパイアだ! ヴァンパイアなんだよ!!」
「まだそんな絵空事……吸血鬼って人間が作り上げた架空のモンスターだよ」
作業を進める従者の横で、暢気に缶コーヒーを飲みだしたクレアが馬鹿にしたような口調で答えると、
ガタガタと金庫を揺らして男が激昂した。
「ヴァンパイアは、俺たちの祖先がモデルなんだ!! ヒューゴはそう言って……」
「残念。セロはお魚です。いーじゃない、可愛くて」
「ふざけるな! 俺達は、人間よりもはるかに優れた……すぐれた……!!」
暴れる金庫が危うく後部座席から落ちそうになってルイスが慌てて縛りなおす。
「ルイス、沈めるときは重りを足しとけ」
「はい」
そう言って運転席に乗り込んだルイスがドアを閉める。
「嘘だろ!?……なぁ! 嘘だって言ってくれよ!! なぁ!」
閉められたドアの向こうでなおも金庫が悲痛な声を上げる。しかし容赦なしにエンジンがかけられると、車はゆっくりと海へ向かって
走り出した。それが見えなくなるまで見送ると、クレアは大きなため息を零し、持っていた空き缶を握り締め、少し離れた場所にあるゴミ箱へ向かって投げ捨てる。
缶は綺麗な弧を描いて音も無くそこへ収まった。
「嘘に決まってるだろ」
誰に言うでもなく、小さくそう呟くと、彼は静かに陰鬱な地下室をあとにした。
******
目が覚めたとき、まず最初に違和感を感じたのはその匂いだった。
自分の部屋のシーツとは違う匂い。鼻腔をくすぐる甘い香りが心地よくてまだまぶたは開かずに
匂いのもとに顔を埋めた。
しばらくそうやっていると、妙に熱がこもってきて、微かな息苦しさを感じた。
それに無視を決め込もうとしても、熱は徐々に徐々に限界点へと近づく。九月も終わりだというのに、
この暑さはどうだろう。
仕方がなしに、万莉亜は腕を伸ばし、枕元に置いてあるはずのリモコンを探す。この暑さなら
、クーラーをつけても蛍は文句を言わないだろう。そう思って腕を伸ばし、べちべちと枕元を叩いて探る。
――べちべち……?
おかしいな、と気付いていたけれど、眠くて確かめる気力も無い。とにかくクーラーだ。
熱くて熱くて、そして息苦しい。
「……んー……」
中々見つからなくてそう唸る。おかしい。いつもはこの辺に置いてあるはずなのにと、もう一度手を伸ばすと
、それを誰かにつかまれてそっとまぶたを持ち上げる。
「……痛い」
見上げれば、自分と同じように半分だけ瞳を開いたクレアが迷惑そうにそう呟く。
そして万莉亜の腕をシーツの中に戻すと、彼はもう一度瞳を閉じ、両腕を彼女に巻きつけたまま眠りに入ろうとした。
万莉亜は目を見開き、真っ白になった頭を抱えたまま、叫ぶ事すら出来なかった。
ただ思いのほか強く巻かれていた彼の腕の中からどうにか身をよじって逃げ出し、ベッドから飛び降りると部屋の片隅に
走りよりヘナヘナとへたり込む。バクバクと高鳴る鼓動がうるさくて何も考えられない。おそるおそる部屋を見回すと、
そこにはほんの少し見覚えがあった。
――理事長室だ……私、私ここで何を……!?
「寝てただけだよ」
彼女の疑問に先回りして答える声がベッドから告げられる。
驚いて万莉亜が視線を向けると、まだ眠そうなクレアがまぶたをこすりながら上半身を起こし、部屋の隅でへたり込んでいる万莉亜を見て軽く笑って見せた。
しかし一方の万莉亜はとても笑える状況ではない。顔は引きつり、未だに声が出てこない。
「いや、ほんとに。だって僕は人間じゃないから、性欲が無いんだ」
「ええっ!?」
やっとのことで声が零れる。
「冗談だよ」
「……じょ……」
「昨日君がぶっ倒れちゃったから、僕のベッドを貸してあげただけ」
「…………昨日……」
順序だてて記憶を手繰る。
昨日は祖母のお見舞いに行って、帰りのバス停で……そう、痴漢に襲われた。必死に逃げたのに、捕まってしまって……
そのときに、彼が助けに来てくれた気がする。いや、助けに来てくれたのだ。それから……なぜか発砲事件になった。
自分は一度逃げたけど、やっぱりクレアが心配になって戻ったのだ……。そうしたらもう一度銃を突きつけられて……それから……赤い服の女の人。
頭の無い体。血だらけの地面……
そこまで考えて、万莉亜はハッと自分の服を確かめた。血だらけになっていたはずだ。
「……あ、あれ」
なのに、いま着ているのは真っ白なパジャマだった。
「娘が着替えさせたんだよ」
「……シリルが?」
「いや、もう一人のほう」
「……も、もうひとりいらっしゃるんですか……?」
「うん。あと息子が一人」
そう答えて彼もベッドから降りて立ち上がる。
むき出しの上半身を隠そうともせず、スラックスだけで平然と彼女の前を横切るその姿に思わず万莉亜は目を覆いたくなるが、
これだけ堂々とされると、変に意識するのもふしだらな気がして、必死に平静を装う。
――そっか……三児のパパなわけだから、私なんて娘同然なのかもしれない……
「万莉亜ちゃん?」
「ははは、はい!!」
突然そう呼ばれ、飛び出しそうになった心臓を押し込めてどもりながら返事をすると、いつの間にか目の前に立っていた美しい女性が
面白い動物でも観察するかのような目つきで万莉亜を見下ろしていた。
「あ……」
一体いつ部屋に入ってきたのか、胸元が大きく開いたセーターを身にまとってハンリエットが挨拶する。
「私はハンリエット。よろしくね」
全く。ここには外国人しか居ないのだろうか。そんな風に心で呟きながらついつい眩しくて万莉亜は目を細める。
ハリウッド女優と言われたら信じてしまいそうなほど派手な美貌の女性が、
綺麗にカールさせた金髪を払いながら万莉亜に腕を差し出した。瞳はやはり、シリルやルイスと同じ赤い色だ。
「名塚万莉亜です……昨日は助けてくれて、あの」
「いいのよ。私の役目だもの」
万莉亜の腕を引きながらそう言うとハンリエットはそのまま彼女を立ち上がらせて部屋の中央にあるテーブルへと誘導した。
「昨日、驚いたでしょう?」
「……はい。あの、あの人は一体……」
「私が説明するわ。とりあえずそこにかけてて」
そう言うとキョロキョロと部屋を見渡し、洗面所にクレアの姿を見つけるやいなや歯を磨いている最中の彼を引き摺って
そのまま部屋から放り出した。
「女同士で話すから、お父様はどっかいってちょうだい」
「……はいはい」
――……お父様?
万莉亜は一人でぽかんと口を開く。
二十代前半に見えるハンリエットが、十代後半にしか見えないクレアの娘?
――そんな馬鹿な……
あんぐりと口を開けて間抜けな顔をしている万莉亜の心中を察してハンリエットがクスクスと笑いながら席へ戻ってくる。
「クレアはああ見えて年寄りなのよ?」
「……え、そ、そうなんですか!?」
なるほど、と万莉亜は心の中で納得した。やっぱり何でも人間の感覚で考えてしまうからいけないのだ。
もっと柔軟な発想をしないと……。そんな風にしてちょっとずれた事を考えながら一人でウンウンと頷く。
「それに、私達は本当は娘じゃないの。正しく言ってしまえば、クレアは私やルイス、シリルの
ご主人様かな」
「……娘……じゃない?」
「うん。でもどうせ一緒居るんだから家族の方がいいじゃない? クレアは私達を子供って呼ぶし
私達はクレアをお父様って呼ぶわ」
「そう、なんだ」
――子持ちじゃ、無かったんだ……
何だかほっとして肩の力が抜ける。それをハンリエットは見逃さなかった。
「クレアが好きなんでしょー」
ニヤニヤしながらそう言ってくる相手にブンブンと首を振るが、顔が熱くなるのは止められない。
何だかこうやって周りに言われれば言われるほど、それが真実味帯びてくる気がして万莉亜は必死に否定した。
「違います!!」
「どうして? お父様に惹かれないのって難しいと思うけど。だって見栄えがいいもの」
とうとうハンリエットが天然のファザコンを発動したので、万莉亜は苦笑いで返す。
「それに、あなたがお父様に好意を持っているかいないでこれからの事が大きく変わってくるの」
「……これからのこと?」
そう尋ねると、先ほどまでのきゃぴきゃぴしたムードから一転して神妙な面持ちでハンリエットが口を開いた。
「説明しなきゃならない事は山ほどあるわ。私達の生体とか、昨晩あなたを襲った男のこととかね。でも
いま万莉亜に選んでもらいたいのはたった二つの選択肢よ」
そう言ってハンリエットが両手をカードに見立てて順番に左右に置いてみせる。
「これからもお父様と会いたいか。二度と会わないのか」
「……え」
混乱して不安を瞳に浮かべたままハンリエットを見上げる。彼女は、そんな相手を気遣うような優しい表情で万莉亜を見つめ返した。
「会いたいのなら、覚悟がいるわ。あなたに護衛をつけることになる。昨日のようなやつらから守るためにね」
「昨日の……あれって、やっぱりただの痴漢じゃないんですよね?」
「残念ながら違うわ。でもまだ知らなくてもいい。まず選んで欲しいの」
「そんな……」
突然崖っぷちに立たされて万莉亜は目の前がぐらついた。
まだほんの数回しか会っていない男性に対して、どうしてそんな決断を下さないとならないのか全然分からなかったけれど、
揺れている自分がいるのも確かだった。
「悪いけど、明日までに答えを出して欲しいの。……こんなに早くあなたがターゲットにされるなんて
私達も想定外だったのよ。だから明日だけは、シリルをあなたの護衛につけるから、その間に」
「そ、そんな……」
「ごめんなさい。でも、やっぱり私達は種族が違うから、交流するには覚悟が必要だわ」
そう真っ直ぐ見据えたハンリエットに心を見透かされるのが怖くて万莉亜は俯いた。
本当は、少し浮かれていたのだ。
だれにも見えないものが、自分には見える。そこには、全く知らなかった世界が広がっていて、怖かったけど
すごく新鮮だった。
「……私」
「万莉亜?」
見る見る落ち込んでいく彼女を見てハンリエットが不安そうに覗き込む。
「私……クレアさんを好きかどうかなんて分かりません」
「……そう」
ハンリエットはほんの少し落胆しながらそう呟いた。
「あの……ほんとにお恥ずかしいんですけど……今まで男の人を好きになったことが無くて」
「え!」
意表を突かれたハンリエットが口元を覆う。
「ここは女子高だし……私……中学は殆ど通ってなかったから」
「……どうして?」
「へへ……不登校児だったんですよ」
恥ずかしそうに万莉亜が笑う。それを聞いたハンリエットは意外そうに目を丸くして見せた。
従順で、賢そうな少女なのに不登校。
――……いじめかしら?
そう思って、ハンリエットはそれ以上追求する事をやめた。
「そっか。分からないの? 好きって気持ち」
「……クレアさんは人間じゃないし、だって私さっきまで彼が子持ちだと思ってたし……
なんだか色んな事がゴチャゴチャしてて、よく分からないんです」
「ありゃりゃ」
おどけてそう言って見せるが、まぁしかし、彼女の言い分も最もだ。
「本当に、明日じゃないとダメですか?」
すがるような瞳で見られると、ハンリエットの心が揺らぐ。
「うーん。なるべくなら……シリルを長く貸し出したくは無いのよねぇ……」
彼女はハンリエットと梨佳の大事なクッション役だ。二日もシリルなしで
やっていける自信をハンリエットはいまいち持てなかった。いつ殺し合いが始まるか分からない。
「あ、いいんです。……分かりました。明日までに決めます」
そう言って彼女が思い切ったように宣言してくれたので内心ほっと胸を撫で下ろした。
ハンリエットとの話を終えて、万莉亜はルイスが洗濯してくれていた制服に袖を通し、寮に帰るために理事長室をあとにする。
扉を開けると、自室を追い出された皆のボスがフロアのソファに座っている後姿が見えた。梨佳の姿が無いか、慎重に見回してからそっと
歩を進める。すると気配に気付いたのか、万莉亜が側へ寄る前にクレアが背後へと振り返った。
「ああ、帰るの?」
頷きながら歩み寄る。彼はソファにだらしなく座り、伸ばした足をテーブルの上に置いていた。
それでも絵になってしまうのだから美人は得だ。そんな事を考えながら、そんなことしか考えられないのなら、それは好きとは違うのではないかと
自問自答する。
何だか難しい顔をして口を結んでいる万莉亜を見上げ、クレアは困ったように微笑む。
「今、僕のこと好きかどうか悩んでる?」
驚いて万莉亜が顔を上げた。
「こ、心は読めないですよね……?」
おそるおそる尋ねると、彼は首を振った。
「読めないよ。そんな能力、あったらいいけど」
どこか疲れたようにそう呟いた彼は、万莉亜のことを考えているわけでは無さそうだった。
一緒にお茶をしたあの時のように、何だか遠い目で宙を見ている。胸が、チクチクと痛む。
「……どうして」
ふと思い出したようにしてクレアが視線を万莉亜に戻した。
「どうしてあの時戻ってきたの?」
「……え」
それが昨晩の出来事だと気付き、万莉亜は困ったように眉根を寄せる。あんまり重たい話はしたくなかった。
でも、あの時あの場に戻ったのは、物凄く根深い感情から来ているものだと自覚している。
「……それは内緒です」
正義感の強そうな彼女ならばサラっと答えてくれるだろうと思っていたクレアは、意外な答えに
肩透かしをくらった。
「なんだよ。ケチだなぁ」
「でも、助けてくれてありがとうございました」
「いえいえ」
「……」
そこで会話が途切れたので、このまま帰ろうかなと一瞬考える。それでも、中々足が動かないのは、
多分まだ聞きたい事が残っているせいだ。判断材料になるかも知れない。そう思って万莉亜が口を開こうとしたその時、
クレアの言葉がそれを遮った。
「もうここへ来ちゃだめだよ」
優しく、でもきっぱりとクレアは言った。万莉亜が驚いて瞳を揺らす。
「……え」
「ハンリエットが何て言ったか知らないけど、ここに居ていいのは、僕の家族とマグナだけなんだ」
「……マグナって何なんですか? そういえば昨日の痴漢もそんなこと……っ」
「マグナは、ずばり言っちゃうと僕の子供を生んでくれる女性。ここへ来る事を選ぶという事は、
マグナになるという事と同義だよ」
「…………こ……!?」
そう返すのがやっとだった。さっきは好きかどうかを決めろといって、
今度は子供を生めるか生めないか!?
万莉亜が驚愕の表情で固まっていると、クレアは微笑んで首を振った。
「わかった? 興味本位で近寄らない方がいい。一旦マグナを了承した後、やっぱり辞めますなんて言ったら
子供達はすごく怒る。あいつらはああ見えて強暴だし、裏切り者は許さない」
淡々と説明されて、万莉亜は息を呑む。そんなに恐ろしいものには見えなかった。
でもそれは、見えていないだけだったのかもしれない。そう考えると、いま自分が立っているこのフロア自体、
何だか怖くなって逃げ出したい衝動に駆られた。
「さよなら万莉亜」
その気持ちを汲んだようにして、クレアが優しい口調で別れを告げる。
けれど、どんなに優しく囁かれても、その言葉は万莉亜の胸に突き刺さった。彼女は黙ってスカートをひるがえし、
螺旋階段へと駆けて行く。その後姿を見送ってから、クレアは再びソファの背もたれに深く寄りかかった。
「ちょっと」
タイミングを見計らっていたハンリエットがそう言いながらつかつかと物陰から現れ、あえてソファには座らずクレアの上にずしっと腰かけた。
いつもの愛情表現ではなく、何のためらいも無く全体重で腹の上に落ちてきた彼女にクレアがうめく。
「……ハンリエット、重たいだろ。やめなさい」
「誰が凶暴ですって? お父様」
「少なくともお前は凶暴だ。あんまり梨佳をいじめるなよ」
「いじめられてるのは私よ……ってそんな事じゃなくって!!」
「……全く。どうしてお前たちそんなに仲が悪いんだよ」
「だからそうじゃなくって!! 名塚万莉亜の話!!」
往生際の悪い父親の頬を思いっきりつねって睨みつける。
「せっかく私がやさしーく説明してあげたのに、どうしてぶち壊すのっ!?」
「お前が自分に都合のいい説明をするだろうなって思ったからだよ」
そう言って腹の上に乗っかったハンリエットをクレアはヒョイと抱き上げておろす。
「お父様だって自分に都合のいいように脚色したわ。私たち、あの子が怖気づいても怒ったりしない。なのにあんな言い方したら、万莉亜絶対来ないじゃない」
「……だろうね」
頬杖を付いてクレアが答える。それを見てハンリエットは今ふと湧いて出た直感を
そのまま父にぶつける。
「……ちょっと気に入ってるんでしょう」
「さぁ、どうかな」
「だからマグナにするのが可哀相なんでしょ? じゃあ、一体何のために
この学園を建てたの!? マグナを探すためじゃない! 可哀相だから逃がすなんて馬鹿みたいよっ」
ヒートアップした娘が激しく捲くし立てていると、もう一つの影が二人に近づき、暴走するハンリエットを腕を伸ばして制止した。
「ハンリエット、下がりなさい」
厳しい声色でそう言うと、ルイスがハンリエットを鋭く睨んだ。兄に牙をむかれて、ハンリエットは釈然としないまま
口をつぐむ。
「部屋へ戻りなさい」
「……はい」
彼が本気で怒っている事を知ると、反論する事も無く、ハンリエットは大人しく返事をしてその場から退散する。
やがて彼女の部屋の扉が、バタンッと普段より一回り大きな音を立てて閉まると、クレアは横目で音の方向を一瞥した。
それから隣にいる、こっちはこっちで融通の利かない長男を見上げる。
「……あんなに凄んでやるな。かわいそうだ」
「ハンリエットはもっとあなたを尊重すべきだ」
間髪いれずに返されてクレアはため息をついた。
なんだかもう、全てが面倒になって額に手を当て俯く。いつもの事だ。やってきた刺客を葬った後はいつも憂鬱な気分になってしまう。
ただ今回は少しだけ、いつもより気分が重たかった。原因は言われなくとも分かっている。
「で、ちゃんと沈めてきたのか?」
「はい。確かに」
「……おつかれ」
力なくそう言うとクレアは立ち上がり自室へと歩き出した。その後姿を、ルイスが呼び止める。
「クレア、もし万莉亜がマグナになった場合、枝も増やすのですか?」
「……兄弟が欲しくなったのか?」
「いえ、……そういうわけでは……」
図星を突かれてルイスが歯切れも悪く否定する。ハンリエットと梨佳の確執、気紛れなシリルの世話に主人の側近、
一人でこれら全てをこなしているルイスからしたら、新しい兄弟は喉から手が出るほど欲しい存在なのかもしれない。
けれどクレアは静かに首を振った。
「今のところ枝は増やすつもりはないよ」
ルイスには気の毒だが、これ以上人を増やすだなんて想像しただけで気が滅入る。考えてみれば、
最初にルイスを枝にして二人で行動していたときが、一番楽でスムーズだった気がする。
だが今更後悔しても遅い。ハンリエットもシリルも、すでに立派な家族だ。
「ただ……梨佳とハンリエットの事はきちんと考えているから」
勿論考えてなどいなかったがとりあえずそう言って手の平を振りながら彼は自室へと戻り、そのままベッドに倒れこむ。
他者との関係を、すぐに面倒に思ってしまう癖が付いたのはいつからだろうか。
「……長く、生きすぎたかな」
もう自分の年齢も思い出せない。数えても意味が無いと気付いてから、数えるのをやめた。
そんな風にしてやめてしまった事がたくさんあった気がするけれど、それももう思い出せない。
あんなに愛した妻の顔さえ、今となってはおぼろげだった。だがそれも、もうどうでもいい。
――……君のことも、逃がしてあげるよ……
柔らかそうな長い髪をくしゃくしゃにしながらクローゼットから出てきた女の子。
黒目がちの瞳をいつもキョロキョロさせているお人よしの少女だった。あの無垢な女の子を、生贄にしてしまうのは気が引ける。
そこまで鬼になれないと良心を疼かせる一方で、梨佳にはその重荷を背負わせるつもりなのだろうか。
いつから自分は、こんな人間になってしまったのだろう。
誠実な人間でありたいと、十八の頃までは願っていたのに。
誰かの優しさに胸が震えたり、誰かの悪意に涙を流したり、そんな瞬間があったはずなのに。
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