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 ヴァイオレット奇譚「Chapter14・"その花の香り[4]"」



 一体周りにはどう映っているのだろうか。
 そう思って運転席のクレアを横目で盗み見れば、相手はすぐに視線を返してくる。
「何?」
「クレアさん、免許証持ってるんですか?」
「あるよ。日本のじゃないし、とっくに失効してるけど」
「……それ無免許と一緒ですよ」
 呆れてため息を零す。
 まぁそれでも、少なくとも警察に捕まるような事はないのだろう。なんたって彼は透明人間だ。
 しかしそのせいで万莉亜は信号待ちのたびに、通りすがる人々の視線に怯えなくてはならない。 無人の車が信号待ちをしているのだ。奇妙に映るに違いないだろう。
 今も、赤信号がいつ切り替わるのかと祈るような気持ちで見上げている。 それが通じたのかは分からないが、運のいいことに通行人は特にこちらを注目する事もなく、そのまま車の前を通り過ぎていく。
 ほっと胸を撫で下ろし息をつくと、車の前のOL風の女性がちらりとこちらに視線を投げた。 なかなか視線を逸らそうとしない彼女に万莉亜は驚いて、そのまま運転席のクレアにタックルしてハンドルを握る。 それから不審な表情をするOLにニコニコと笑顔を振りまいた。
「な、何してるの?」 
 突然彼を押しのけ身を乗り出した万莉亜の下敷きになりながらクレアが声をかける。
「何って! 見てなかったんですか? 通行人に見られてたんですよ!」
「え?」
「もう! 運転席が無人の車なんておかしいでしょ! 怪談じゃないんですから」
「……なるほど。でもちょっと苦しいよ」
「信号が変わるまで我慢してください」
 それからじっと信号を睨みつけて、それが青に変わると万莉亜は素早く助手席に上半身を戻し大きく息を吐いた。
「どうもありがとう、万莉亜」
 アクセルを踏みながらクレアが感謝すると、万莉亜は少し得意になって頷いた。
「いいえ。でも気をつけてくださいね」
「大丈夫。車に乗るときはちゃんと姿を見せてるから」
「……」
「でも、気遣いありがとう。嬉しいよ」
「さ、先に言って下さい!」
 そう怒鳴っても簡単に笑顔であしらわれ、諦めた万莉亜は座席へ体を埋めた。 だんだんからかわれているのだと気付き始める。だから、そんな彼に真剣に怒るなんて無駄だ。
 その時、角を曲がった先に女性用のコスメティック専門店を見つけてつい声を漏らす。 それを聞いたクレアがこちらを向いて首を傾げた。
「どうしたの?」
「あ……あそこ、ちょっと寄ってもいいですか?」
「どこ?」
「あの角のところの」
 指をさして彼に伝えると、車はゆっくり左へ寄ってそのまま路肩に停車した。
「私、ちょっと行って来ます。すぐ戻りますから」
 そう言って車を降りようとする彼女の手を掴み、クレアが首を横に振る。
「僕も行くよ」
「……え」
 万莉亜が戸惑っているうちに、クレアは車を降りて助手席のドアを開ける。 そして彼女を乗せたときと同じように手を貸して万莉亜を降ろす。 それから店の前まで来ると、ドアを開けて彼女を促した。
 そんな彼の行動全てに動揺しながらとりあえずお店に入る。
「ク、クレアさんはどっか適当に見ててください」
 欲しい物は香水だった。
 でもまさか、それを昨日プレゼントしてくれた彼の前で買いなおすわけにもいかず、 戸惑う彼の背中を無理やり押す。
「適当にって……どれ見ようかな」
 どっちを向いても女性用の化粧品や下着類だ。困った事にどの商品にも興味はなかったが、 自分を遠ざけたいらしい万莉亜の意思に従い彼は素直に歩き始めた。
 そんな彼の姿を通りすがる女性客が視線で追う。
 男が目障りなのか、外国人が珍しいのか、単に目立つ容姿だからか。 とにかく彼は注目の的になりながらすたすたとあろうことか下着コーナーへと消えていった。
――な、何もそっちにいかなくても
 その後姿をはらはらしながら見つめる。
――こういう時こそ姿、消したらいいのに……
 彼の姿が他の人にも平等に見えている事に慣れていない万莉亜は、何だか複雑な感情を抱えたまま 香水のコーナーを探す。そのうち、わりと大きめな目的のコーナーを見つけて飛び込むと、 その量の膨大さに困り果てた少女を見つけて店員が近寄ってきた。
「何かお探しですか?」
「えっと……香水を……」
 香水しかないコーナーで何を言っているんだろうと自嘲気味に微笑むも、 店員は気にした様子もなく次々とテスターの小さな紙を万莉亜に手渡す。
「これなんか、今人気ですけど」
「いい匂いですね」
「そうですね。あとはこれなんか……」
「い、いい匂いです」
「そうでしょう? これはどうです?」
「……いい匂いです」
 少し戸惑ったように店員が微笑む。万莉亜も、何と言っていいか分からずに ただむやみに笑顔を作る。
「今つけてらっしゃるのはどこのですか?」
 どうにかヒントを得たい店員がそう聞くと、万莉亜は少し考えた後「薔薇です」と答えた。 質問からはずれた回答ではあったが、店員は深く頷く。
「お花の香りでしたら……この辺りが花の種類で分かりやすく並べてあります」
 店員が案内してくれた場所には、そんなに豊富ではないが一応花で区分けされた香水がぽつんぽつんと置かれていた。
「こっちが薔薇です。やっぱり薔薇が一番多いですね。後、こっちがジャスミン、これが百合です」
「あの……菫ってありますか?」
「菫ですか。ええと……菫は抽出が難しくてあまり無いんですよね」
 困ったように店員がキョロキョロと商品を見回す。
 折角買うのならば、自分が生まれたときに咲いていた花という思い入れのある菫の香水が欲しかったのだが、 しばらく店頭を探し、在庫まであさってくれた店員が申し訳無さそうに帰ってきたのを見て力なく微笑んだ。
――まあそんなに、上手くはいかないか……
 すっかり落胆して周りを見回す。
 それでも香水は必需品だ。今つけているやつが気に入らないのなら、何かしらで代用しなくてはならない。 このさいどれでもいいからと適当に手にとって次々と匂いを確認するけれど、すでに麻痺してしまった鼻は うまく香りを嗅ぎ分けられずに焦る気持ちばかりが募る。あんまりのんびりもしていられない。早くしないとクレアが戻ってきてしまう。
――通販で……買おうかな
 今慌てて適当に選ぶのだったら、匂いの分からないインターネットで注文するのとどう違うのだろう。 それにパソコンを使って探せば菫の香水だって見つかるかもしれない。 そう思い直し、万莉亜は頭を下げる店員に笑顔を見せ、こそこそと隣の化粧品売り場に紛れ込む。
――……えーと。何買おう……
 どうせ言い訳のための小道具だ。安ければ安い方がいい。 
 そう考えて見た感じ一番値段の安い髪留めのゴムを手に取り、さっさと会計を済ます。
 ちょうどその時、まるでタイミングを見計らったようにして戻ってきたクレアに出会い、彼女は 買ったばかりの髪留めが入った袋を持って見せた。
「何買ったの?」
「髪を縛るゴムです」
「それを買いにわざわざ?」
 そう聞かれてハッとする。こんなもの、コンビニどころか寮の購買でも買えてしまう。 どうしてもっとマシな物をと、自分の貧乏性を呪いながら、でも後には引けず「そうです」と言い張り店を出るために歩き出す。 彼女の前に回りこんだクレアがドアを開けて、また戸惑いながらそれをくぐると今度は車のドアを先回りして開けられる。
「……忙しいんですね」
 皮肉ではなかったが素直に感心してそう言うとクレアは笑った。 その笑顔はいつものような憎らしいものではなかったから、万莉亜もつい微笑みを返す。
「習性みたいなものだから」
 そう言って彼女が乗り込んだあとに運転席へと戻り、ゆっくり車を発進させる。
「良かったね。ゴムが買えて」
「は、……はい」
 人を騙すというのはなんとも後ろめたい。
 もごもごしながら万莉亜が頷くと、クレアは小さく息を漏らして笑う。
「な、何ですか?」
「いや、何も。そうだ、僕も君にプレゼントを買ったんだよ」
 そう言って彼が上着のポケットを探る。出てきた小さい包みを手渡されて、万莉亜は驚いた。
「あの……これ、私に?」
「もちろん」
「あの、あ、ありがとうございます。ごめんなさい、私貰ってばっかりで……」
「いいんだ。それつけてもらったら、僕も嬉しいから」
 その言葉にまさかと包みを見下ろす。
――まさか……香水? ば、ばれてたのかな
「下着だよ」
「え!?」
「驚いたんだけど、日本の女性も随分大胆になったんだね。それも大事なところに穴が……」
「も、貰えません!!」
 顔を真っ赤にして包みごと彼の顔に押し付けるようにして突っ返すと、その隙間からいつもの意地悪な微笑が見えて またからかわれたのだと気付く。
「冗談だよ」
「……からかわないでください」
「ごめんね。ほら、好きな子は苛めたくなるっていうだろ?」
「っす……!?」
 思わずそう言いかけるが、あえて口をつぐんだ。どうせこれも罠だ。むきになる自分をからかっているに違いない。 そう思って下を向いたまま貰った包みの包装を剥がしていく。
 けれど中から現れた透明の小瓶を見て、完敗だと思った。
 きっと千里眼で神通力で超能力なんだ。
 彼に、隠し事なんて出来ない。
「菫じゃないけど、菫をモチーフにしたそうだよ」
「……いつの間に」
「店員さんが在庫ひっくり返してるとき。隣の化粧品店にそれだけ置いてあったんだ」
 万莉亜は手の中にある飾り気の無い透明の小瓶をそっと鼻に近づけてみた。
 外観に負けじとシンプルなその香りは、香水と言うよりはその花で香り付けされた石鹸の香り。
 控えめで清楚で、蕩けてしまいそうな甘い匂いではないけれど、すっと鼻に通るその香りは随分と親しみやすくてほっとする。
「いい匂い。ありがとうございます」
「こちらこそごめんね。最初から君の好みをもっと調べておけばよかった」
「……いえ、あの……」
 あの香水自体に問題があったわけじゃない。万莉亜は万莉亜の勝手な都合であれに 難癖をつけていた。でも、それをどう上手く説明していいのか分からずに口ごもる。贈ってくれた彼の気持ちは嬉しかった。 今も、前回も。
「……クレアさん、何か欲しいものありますか?」
 その代わりに出てきた言葉に、クレアが視線を向ける。
「欲しいもの?」
「はい。何でも言って下さい。私、物を探すの結構得意ですよ。あ、誕生日はいつですか?」
「誕生日は……忘れちゃったなぁさすがに。冬に生まれたのは覚えてるよ」
 真顔でそう答える彼が信じられなくて驚きの声を上げる。
「た、誕生日忘れちゃったんですか?」
「うん」
「そんな……じゃあ、どうお祝い、い、いつお祝いしたらいいんですか?」
「君が祝ってくれるなら365日歓迎するけど」
「……そんな」
 がっくりと脱力する。
 誕生日は節目だ。自分が一つ歳をとる大事な節目なのに「忘れちゃった」なんて あっさり言う相手が信じられない。ならば、一体彼はどこで自分の人生を区切っているのだろう。
「クレアさん……失礼ですけど、今お幾つですか?」
 おそるおそる顔を上げて問いかけると不敵に微笑む彼と目が合う。
「知りたい?」
「……」
「生まれたのは十七世紀の後半、日本がまだ江戸時代だった頃かな」
「……」
 言葉を失いながらも脳は無意識に計算を始める。そして算出されたとてつもない年齢に 唖然としながら目の前の若い青年を無遠慮に見つめた。
「長寿の家系だったのかもね」
 そんなふうにして言われる相手の軽口に、笑うことも出来ずに万莉亜はただ口を開けて絶句する。 それから、自然と湧いて出た疑問が口から零れた。
「もしかして、し、死ななかったりします? あの、吸血鬼みたいな……」
 何世紀をも股にかけて生きてきた彼の姿があまりにも若々しいので、思いつく限り最もポピュラーで、そして不老不死の代名詞でもある 架空のモンスターの名前を口走れば、相手は可笑しそうに口の端を持ち上げた。
「さぁ、どうだろう」
「……そんな」
「ただ同じ体をしたやつが、自然死をしたって話も聞かないから、そうなのかもね」
「……」
 気のせいかもしれないけれど、彼の口調がほんの少し投げやりになった気がして万莉亜は それ以上質問する事が出来なくなってしまう。以前感じた彼の絶望の核に触れてしまいそうで、迂闊な事を口走らないよう 口を固く閉じたまま大人しく助手席に座り続けた。その隣にいるクレアも特に何かを話すことはせず、車内は奇妙な静寂を保ったまま、 学園への帰路につく。

「あ、ありがとうございました」
 敷地内に到着した瞬間、堪えていた息苦しさを吐き出すようにしてクレアにお礼を言うと 万莉亜はシートベルトを外してから、少し戸惑う。
 自分でドアを開けていいのか、彼を待つべきなのか。ドアとクレアを交互に見ていると、彼はゆっくりとした 動作で万莉亜に覆いかぶさり、抵抗する暇も与えずその唇を塞ぐ。
 突然のことに驚いて両手で相手の体を押しのけようとしても、その絶対的な力の差にねじ伏せられて 逃げ出せない。それでも彼の下でじたばたともがいていると、ほんの少し距離の出来た唇から、低い声で囁かれた。
「気持ち悪い?」
「……えっ……」
 質問の意味が分からなくて、全身を硬直させたまま万莉亜が答える。 彼を押し離そうとする両手は、恐怖で震えていた。
「僕が気持ち悪いのなら、今すぐに車を出て、そして二度とあの階には来ないで欲しい」
「……」
「正直に言えば喉から手が出るほど君が欲しいけど、それを押し留めて、良心でこう言ってるんだよ。 前にも言っただろ? マグナになって楽しい事なんてひとつもない」
「……私、は」
「マグナは同情だけじゃ務まらない。絶対に」
 バイオレットの瞳でまっすぐ見下ろされて、萎縮してしまう。 覚悟が無いのは分かってる。それを突つかれるのが一番痛い。でも、 その件についてはもう自分の中で答えが出ている。
「私……決めたんです……もう見えないフリなんて出来ません」
「……」
 怯えながらそう反論すると、彼は随分と冷めた目つきで彼女を見下ろし、 それから万莉亜の首筋に唇を押し当てた。その皮膚の上からでも、筋肉が硬直しているのが手に取るように分かってしまう。
「どうして……こんな事するんですか」 
 震える声が車内に響く。
「君、赤ん坊はコウノトリが運んでくるとでも思ってるの?」
「……一緒に、楽しくいたいだけなのに、こんなことしなきゃダメなんですか……?」
「それがマグナだって説明したはずだよ」
 そう言って彼女のパーカーに手を伸ばし、ゆっくりジッパーを降ろしていく。 早く逃げ出してくれないかなとどこかで願いながら、じれったいほどゆっくりとした動作で。
 それでも、そんな意図に反して万莉亜の体からは力が抜けていき、不審に思って 顔を上げれば、信じられない事にまぶたまで閉じている。
 負けを認めるか、このまま我を通すか、しばらく葛藤したあとにクレアは観念して 彼女を解放した。それから大きくため息をついて、座席に深く沈む。
「……お人よしも、度が過ぎるとただの馬鹿だよ」
 悔し紛れにそう呟くと、意外にも冷静な声が返ってくる。
「クレアさんの良心に賭けていたんです」
「……あっそう……」
 まんまと策略に嵌ったと知って、どうにも釈然としないものがこみ上げる。 こんな小娘にいいようにされているから、自分は甘いといわれるのだ。だからいつまで経っても欲しい物が手に入らない。
「子供が欲しいのに、手に入らないから絶望しているんですか?」
 淡々とした声で問われて振り返れば、黒目がちな瞳が真っ直ぐにこちらに向けられていて、一瞬どんな表情を作ればいいのか戸惑う。 それでも、どんな事をしても物怖じしない彼女を、威嚇するのも馬鹿らしくなって素直に力なく微笑んだ。
「そうかな。絶望はしていないけど……そう見える?」
「見えます」
 きっぱりと言ってから万莉亜は乱れた衣服を整え、体ごとクレアに向き直った。
「寮長じゃ、ダメなんですか? 寮長は、多分その……クレアさんのこと」
「僕は普通の人間じゃないから。子供を作ることの出来る女性は限られる。君や梨佳みたいに、 僕の力の及ばない女性じゃないと」
「なら寮長は……」
「でも梨佳は望み薄いな。例えば僕やシリルが見えても、子供まで宿せる女性って中々居ないんだ」
「……子供が、欲しいんですか?」 
「別に欲しくないよ」
「……え」
 話の根底から否定されて万莉亜は眉をひそめた。
「子供が欲しいわけじゃない……ただ、手段が目的になっているだけかも」
「……クレアさん?」
 ひとり言のように呟いている彼が心配になってそっと覗き込めば、 視線は宙を彷徨い、心はどこか遠くにある。
 多分、何を言っても万莉亜の言葉は届かない。絶対に届かない。でも、 届けようとすることを止めてはいけない。
 手を伸ばして、相手の腕をぎゅっと掴む。 クレアは視線だけを万莉亜に向けて、彼女の動作の真意をはかった。
「あの、……お腹空きませんか?」
「え?」
「い、一緒に夕御飯食べません?」
 そう言ってぎこちない笑顔を向ける。
「嫌な事があった日はご飯を食べてさっさと寝るのが一番ですよ」
「……別に嫌な事ないけど」
「私がありました。それってクレアさんのせいですし、あの、もしよかったら奢って下さい」
「……」
 驚いているのか、それとも呆れているのか、とにかくクレアは返事をせずに真っ直ぐ万莉亜を見つめる。 その強い眼差しに負けないように万莉亜がじっと見つめ返していると、そのうち彼は困ったように微笑んでから車を降りて 助手席のドアを開けた。
「どうぞ。お姫様」
「あ、あの……どうも」
 差し出された手につかまりながら車を降りて、振り返ればクレアは少し申し訳無さそうに 目を伏せて口を開く。
「償いは、また今度させてもらうよ。情けないけど、あんなことして君と顔つきあわせていられるほど 神経が太く出来てないんだ」
「で、でも、私もう気にして……」
 その言葉を遮るようにしてクレアの手がそっと頬に触れる。反射的にビクついてしまっても 彼は微笑んだままだったけれど、どうにも失敗した気がした万莉亜はその手を包むようにして自分の手を重ねる。
「……何も見えなくても、見えていないものがまだあるってこと、忘れないでください」
「え?」
「だから、全部諦めるのは出来るだけ次の日にしてください」
 祖母から貰った言葉をそのまま彼に向ける。
 この言葉に意味は無くとも、これを根気強く言い続ける事で何を得られるのか、 嫌と言うほど思い知った。それを彼にも見せてあげたい。
「今日は、美味しい物を食べて早く寝てください。私もそうします」
「……わかった」
 その言葉を聞きながら、彼の顔が近寄る気配を感じて万莉亜はぎゅっと目をつぶった。 キスをされるのだと思って覚悟を決めた瞬間、頬に柔らかいものを感じて眉根を寄せる。 それからおそるおそるまぶたを開けば、悪戯っぽく細められたバイオレットの瞳と目が合って 万莉亜は思わず赤くなる。
――は、……恥ずかしい 
 てっきり唇にされるのだと思って一人で身構えてしまった。
「じゃあね、万莉亜」
「は、はい……」
「今度からは、なるべくシリルを置いてかないでやって」
「……あ。はい、気をつけます」
 これは、マグナを続けても良いということだろうか。覚悟も無く、曖昧な立ち位置のままでも、 傍に居ても良いということ?
「また明日」
 分からなかったけれど、そう言って微笑んでくれたクレアに満足して 万莉亜は寮へと歩き出した。彼に子供を与えてやる事は到底出来そうも無い。 それでも傍でしつこいくらいに絶望の先延ばしを囁き続ければ、きっと何かが変わる。
 去って行く万莉亜の後姿を見送りながらクレアは眩しそうに目を細めた。
「クレア」
 そんな彼の後ろからルイスが現れて、そっと声をかける。
「僕が見えていないものって……何かな」
「え?」
 突然問いかけられて戸惑うルイスに振り返り、クレアは自嘲気味に微笑んだ。
「きっと、いっぱいあるんだろうな」
「クレア……?」
 首を傾げるルイスの横を通り抜けて新校舎へ歩き出す。見れるものなら、見てみたい。 けれど、どれを見るにも犠牲が伴ってしまう。誰かに、犠牲を強いる事になる。
「……クレア。万莉亜さんに、話したのですか?」
 様子のおかしい主人を気遣ってルイスが後ろから声をかける。
「何を?」
「マグナが、出産と共に絶命することです」
「まさか。話すわけ無いだろう」
 その言葉にほっと胸を撫で下ろす。やけになったクレアがいつもの詰めの甘さを発動して 万莉亜を逃がしてしまう事を懸念していた彼は、安心して小さく息を吐いた。
 マグナは、例外なく死んでしまう。
 そのメカニズムを解き明かした者は居ないが、やはり異端の赤ん坊を人間の女性が産み落とす事は自然の摂理に反するのかもしれない。 その反動を、母体は直に食らう。生き残った前例など皆無だ。
「……話したら、さすがのお人好しも逃げ出すだろうね」
 逃がしてあげたいのに、大事な部分を隠して彼女の良心を利用する。
 いつものジレンマに気が重くなったとき、ふと彼女の言葉を思い出して振り返る。
「食事の準備してくれる?」
「は……え?」
 前触れも無く言われた言葉に一瞬躊躇したものの、すぐに頷くとルイスは先に新館へと急いだ。 その後をのんびり追いながら、今日は考えるのをやめてみようかと思う。
 気の遠くなるような長い年月を苦悩しながら生きてきたのだから、たまにはいいだろう。
 長い事考えすぎて、今はもう何がしたかったのか、どうなりたかったのかさえ曖昧だ。 この体になってしまった時、一番初めに自分が望んだもの。それはすごく些細な事で、誰もが平等に持っているものだった。
 今はどうだろうか。
 第三世代の生き残りと呼ばれて、他の世代に追い掛け回されて、それで一体何を、こんなにも欲しがっているのだろう。
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