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 ヴァイオレット奇譚「Chapter19・"嵐の夜に[2]"」



「……乗れ」
 男が冷たく命令する。
 万莉亜は歯を食いしばって首を横に振った。そんな彼女に舌打ちして、彼の従者である川井と呼ばれる若者が 少女の体を黒い乗用車の中へ突き飛ばす。
 海沿いにある深夜の歩道では、散歩をする者やたむろす若い男女で賑わっているというのに、彼らは すぐ傍で繰り広げられる不穏なやり取りに注目する事無く笑いながら通り過ぎていく。万莉亜がどんなに叫んでも、 彼らは絶対に耳を貸さない。
 聞こえていないのだと気付いたのは、車に乗せられた後だった。
 そしておそらく、見えてもいない。
 気がつかないうちに自分は透明人間になってしまった。
「叫んでも無駄だ」
 万莉亜の心中を見透かしたようにして、隣に乗り込んできた長身の男が囁く。かけていたサングラスを外し、 バイオレットの瞳を彼女に見せながら、ヒューゴは薄く微笑んだ。
「俺はクレアと同じ第三世代だからな」
 そう言って、万莉亜の反応を伺うように覗き見る。
 けれど彼女は反応を示さない。万莉亜は瞬きも忘れて目の前の男に見入った。
――……クレア……さん……?
 これは、彼の惑わしの一種なのだろうか。目が、奪われてしまったのだろうか。そんなはずはないと さらに目を凝らす。相手の姿形を視界に捕えて、それを脳で分析する力が全て馬鹿になってしまった感覚。
――違う……
 目の前の男は、日本人ではなかった。彫りの深い顔に、バイオレットの瞳、毛先の長い墨色の髪。 体つきはがっちりとしていて、あごは四角く、意志の強そうな眉と切れ長の瞳。
 その全てが男性的で、無条件に相手を威圧する迫力が彼にはあった。
 そしてその恐ろしいシルエットに、プラチナブロンドがちらつく。白い肌が、大きな瞳が。まるで 似ても似つかない、非常に男性的なヒューゴとは真逆の位置にあるクレアの容姿が、どうしても彼に重なってしまう。 似ていると、錯覚してしまう。
――どうして……
「港へ向かえ」
 相手が全く反応を示さないことを知ると、ヒューゴは運転席の川井にそう命令して背もたれに体を預けた。 座席が沈む感覚がすぐ隣の万莉亜にも伝わって、彼女はさらに体を萎縮させる。
「お前、マグナだろう」
 窓の外の景色を眺めながら呟かれた言葉に、万莉亜の心臓がぎくりと音を立てた。
「どういうことだ。羽沢梨佳の情報が間違っていたのか……」
 ひとり言のように彼が呟くと、運転席から声が上がる。
「いえ、羽沢梨佳の情報は確かですよ。そいつが誰かは分かりませんけど……ほんとに匂いがするんですか?」
 疑うような川井の発言に呆れてため息を零すと、ヒューゴは万莉亜の顎を指先で掴み、ほんの少しだけ 顔を近づけた。それから、匂いを吟味するようにして目を閉じる。
「……クレアの罠か……それとも、マグナは二人存在したのか……」
「…………」
「こちらが羽沢梨佳の情報を得た途端、二人目のマグナが現れる。少し、タイミングが良すぎやしないか……?」
「…………」
 万莉亜は答えなかった。
 問われているとも思えなかった。彼は、自問しているだけだ。
「ヒューゴ。つきましたよ」
 川井の声と同時に、ほんの二分足らずで車が港へ到着する。
 必死の思いでこの場から逃げ出してきたというのに、あっさりと捕まり、再び見えてきた 赤い外壁の倉庫を見て、万莉亜はとてつもない挫折感に襲われた。
 奇跡は二度も起きない。
 もうどうすべきなのかも分からない。
「降りろ」
 先に車から降りたヒューゴに命令されて、大人しくそれに従う。
「……ッ……」
 それから、すぐ傍に横たわる人影を見つけて息を呑んだ。
「嫌ぁ……ッ!」
 思わずそう叫んでその場から逃げ出そうとした万莉亜の腕を川井が掴む。
「嫌ッ、放して!放してぇ……っ!!」
 暴れる彼女の数センチ先では、集団から暴行を受け、無残にも打ちのめされた警官の死体が横たわっていた。 その残忍な暴行の形跡に、胃からこみ上げてくる物を堪えられず吐き出す。そんな万莉亜に舌打ちをしながら川井が顔を背けた。
「人殺しっ!……人殺しッ!!」
 胃に残っていた物を全て吐き出すと、万莉亜は地面に四つん這いになりながら叫んだ。
「人殺しっ!!」
 あらん限りの声を振り絞って、叫ぶ。
 そんな彼女の髪を掴んで、川井がその頬を思いっきり叩く。背中から地面に叩きつけられて、 万莉亜は悲鳴を上げた。
「大人しくしてろ」
 勝ち誇ったようにして川井が微笑む。
 どうしてこんなことが出来るのだろう。だってさっき彼は、歩道に座り込んだ自分を心配して声をかけて来てくれたのに、 それが、どうしてここまで豹変できるのだろう。何が彼を、そうさせるのだろう。
「行くぞ」 
 そんな二人のやり取りをうんざりと眺めながらヒューゴが木材倉庫へ向かう。
 暴力に萎縮し、やっと大人しくなった少女の腕を取って川井も後を追った。
――……おばあちゃん……!
 助けて。
 そう心で呟く。届かないと知っていても、いつだって縋り付けるのは祖母だけだった。
「止まれ」 
 倉庫の出入り口付近まで来ると、不意にヒューゴが鋭い声色で命令する。
 川井に引き摺られていた万莉亜もぴたりと足を止めた。
「なん……だぁ……?」
 隣で、川井が素っ頓狂な声を上げる。万莉亜も、その異様な光景にただ黙って目を見開いた。
 先ほどまで若い男達が集まってたむろしていた倉庫内は静まり返り、消えてしまった彼らの代わりに、 いくつかの黒い金庫がぽつんぽつんを置かれている。
 耳を澄ませば、そこから苦しそうな呻き声が聞こえてきて、万莉亜は唖然とした。
――まさか……あの中に……?
 赤ん坊が何とか納まりそうなサイズの金庫から、若い男の声が聞こえる。
 そんな馬鹿なと己の目を疑う万莉亜と川井をよそに、ヒューゴは躊躇いなく歩を進め、近くにあった金庫を見下ろした。 それからぐるりと倉庫内を見回す。壁や床には血が飛び散り、いたるところに弾痕が見えた。その惨劇の跡を眺めながら ヒューゴは小さく笑いを零す。
「やはり、この女はマグナか……」
 取り返しに来たのが、何よりの証拠だ。
 彼はそのまま倉庫内の中心に移動し、左右に視線を投げながらこの場にいるはずの第三者へ語りかける。
「いるんだろう?」
 彼がそう口を開いた瞬間、木材の影から放たれた弾丸が破裂音と共にヒューゴの腹を貫いた。 驚いた万莉亜は思わず眼をつぶるけれど、その直前に赤錆色した髪の少女の姿を垣間見る。
――シリル……!?
 一瞬の事に我が目を疑って即座にまぶたを持ち上げる。
 積み上げられた木材の正面に立っているシリルは、小型の銃を両手で構え、真っ直ぐにヒューゴを捕えていた。 そしてそのやや左後方には、同じように銃を構えているハンリエットの姿まで見える。
――……みんな……ッ!
 そう声をかけようとした瞬間、強い電流の音が真横で走り、川井は鈍いうめき声を上げて地面へと倒れこんだ。
「大丈夫ですか? 万莉亜さん」
 彼女にそう声をかけながら、ルイスは持っていたハンディタイプのスタンガンを懐に戻し、その代わりに 取り出した手錠で彼の両手と両足の自由を封じる。
「ちくしょうっ……ヒューゴさん! ここに、ここに枝がいます!!」
 そう言って必死にルイスの位置を知らせる川井を一瞥してヒューゴは肩をすくめた。
「なるほど……二人……それ以上か? 全く、見えない枝ってのは便利な物だ。羨ましい限りだよ」
 姿形も声や気配すらも隠し通せる枝相手では、何百と用兵を集めたところで所詮は赤子の集団。見えない相手に飛び道具を 使われてしまっては打つ手がない。そう内心頭を抱えてヒューゴがため息を零す。

「あなた、枝も作れないのね」

 ヒューゴの呟きに、倉庫の入り口から冷たい女性の声が返される。
 彼はゆっくりと目を細めて、その声の方向へと振り返った。
「ほんと、第三世代って言ってもピンキリだから笑っちゃうわ」
 そう言いながら突然現れたショートカットの少女に皆の注目が集まると、横たわっていた川井が驚いて声を張った。
「こ、こいつですヒューゴ! こいつが、羽沢梨佳ですよ!!」
「うるさいわね」
 叫ぶ男を一瞥して梨佳はヒューゴに歩み寄る。
 その背中にぴったりと銃口を押し付けてルイスが後に続く。
――……え?
 一瞬混乱して、万莉亜は瞬きを繰り返す。
 なぜルイスが梨佳に銃を突きつけているのか理解できない。
「……お前が羽沢梨佳で間違いはないか?」
 近寄ってきた梨佳を食い入るように見つめながらヒューゴが問う。 それに答えることを梨佳が躊躇すれば、ルイスは背中に当てた銃口にぐっと力を込めた。
「そうよ。ったく、いい迷惑だわ……こんなことされて。無関係の人を巻き込むのは、私の本意ではないの」
「……無関係?」
「この子は、クレアが勝手に用意した囮よ」
「……囮……この娘が?」
 その言葉の真偽を探りながらヒューゴが眉をひそめると、梨佳は馬鹿にしたように笑いを零す。
「あなたの動きなんてクレアには全部お見通し。馬鹿な第三世代が無能な第四世代を使って 何かやってるぞって、あなたたち、みんなの笑いものだったわよ?」
「…………」
「私を捕えたければ捕えなさい。だけど、この子を解放するのが条件よ」
「…………」
「無関係の人を巻き込むくらいなら、そうね……舌を噛んでここで死のうかしら。私が死んでしまったら、 クレアはもうここに来ないでしょうね。唯一のマグナである私を捕えられる千載一遇のチャンスを無駄にするならそれでもいいけど」
――先輩……!
 梨佳は、自分を助けようとしている。
 今この場だけを凌がせるのではく、万莉亜がマグナだという事実を根底からひっくり返しに来てくれたのだ。 この先の平穏な日々のために。その代償に、自分自身を危険に晒して。
――でも……
 それなのになぜルイスは彼女に銃を突きつけているのだろう。何か、考えがあってのことだろうか。 この緊迫した空間では、落ち着いて考えられない。
 ヒューゴはあくまで横柄な梨佳の態度を慎重に見定めてから一つ頷いて口を開く。
「……いいだろう。但し、枝も全員下がらせろ」
「いいわ。"二人"とも、こっちへ来て」
 手招きされたハンリエットとシリルがヒューゴの手前に立つ。ヒューゴは決して目には見えない二人の女性の 姿を、手を伸ばし触れる事で確認するとゆっくりと頷く。それを見た梨佳が、二人に出て行くようにと命ずる。
「その子も連れて行って」
 言われたハンリエットが少し離れた場所で呆然と立ち尽くす万莉亜の肩に腕を伸ばそうとしたとき、 ヒューゴの声がそれを制する。
「待て。女、お前はこちらへ来い」
 視線を向けられた万莉亜は、狼狽し、しばらくキョロキョロと視線を動かした後観念してヒューゴの元へと 歩き出した。
――なんで……なんで……
 混乱していた。ハンリエットやシリル、そしてルイスや梨佳も同じように緊張を顔に浮かべている。
 俯いたまま、ヒューゴの目の前で足を止める。
――……怖い
 彼には、ここでたむろしていた様な若者とは比べ物にならないほどの威圧感があった。 それは多分シリルたちも感じているはずだ。人数では圧倒的に勝っていて、おまけに 見えないという利点まであるにも関わらず、彼らは必要以上にヒューゴを警戒していたし、怯えているようにも見えた。
「……あ、あの」
 沈黙を守るヒューゴに耐え切れず万莉亜が顔を上げる。
「枝は先に出て行け」
 万莉亜に視線を留めながら、ヒューゴが命令すると、梨佳はハンリエットに視線を送り、 二人の枝は一旦部屋の隅に移動する。
 その時、下腹部にすっと風が通って思わず視線を落とす。次の瞬間、 噴出すような赤い血が視界一面を染めた。
「万莉亜さんッ!!」
 梨佳の背後にいたルイスが飛び出し、ヒューゴを突き飛ばして彼女を守るように立ちはだかる。 それからすぐに自分のミスに気付き、悔しそうに顔をゆがめた。
「……全員下がらせろと言っただろう? 今この場にいる、こいつもだ」
 見えない三人目に突き飛ばされてよろめいたヒューゴが勝ち誇ったような笑みで梨佳を見据える。
「枝が消えたと俺が納得するまでは、この娘も人質だ」
 言いながらヒューゴは横たわる万莉亜の喉元に素早くナイフを押し当てる。
「下がりなさい、急いで!!」
 梨佳に命令されたルイスは、血だらけで横たわる万莉亜から一歩後退すると、舌打ちしながら辺りを見回し、 結局その場から二、三歩ほど離れた場所で事の成り行きを見守ることにした。 おかしな動きをすれば、枝の存在を疑われ、また万莉亜が傷つけられてしまう。
 そんな彼らを見透かして、ヒューゴがあざ笑う。
「三人でいっぺんにかかってきたらどうだ?」
 彼らの撤退をはなから信じる気のないヒューゴは、愉快そうに笑っては枝たちを威圧しはじめる。
「怖気づいたか? そうだろうな。俺はお前達のボスと同じ第三世代だ。恐ろしくて、仕方がないのだろう? 死人のお前達にとって、 命を与えた第三世代とは神の別名だからな」
――……たす、けて……
 ヒューゴの言葉をどこか遠くに聞きながら、薄く切られた腹を抱え万莉亜は助けを懇願していた。 こんな風にして体を刃物で切りつけられたのは初めてだったが、中々ダイレクトに伝わってこない痛みがかえって不気味で 万莉亜の全身に冷や汗が流れる。本能が察した命の危機に、全身が警報を鳴らし始めた。
 そんな万莉亜の横に膝をつき、ヒューゴは彼女の顔を持ち上げる。
「聞こえるか?」
 その声が、万莉亜の頭で反響する。まるで勝手にエコーがかかったみたいに、何度も響いては彼女の意識の奥へと語りかける。
「立て」
「…………」
 精も根も尽き果て意識喪失寸前の万莉亜は、その言葉に頷くと、痛む腹を抱えながら立ち上がる。 自分の意思ではなかった。意思では、とても立ち上がるほどの余力はなかったはずだ。それなのに、体は勝手に 動き出す。自分の意思とは全く別の所で。
 ヒューゴはその様子に満足すると、懐から取り出した銃を万莉亜に手渡す。
「お前はマグナを監視しろ」
 言われた万莉亜は、素直に梨佳の背後に回りその背中に銃を突きつける。 その動作に梨佳が眉をひそめた。
「……どういう事?」
「人手が足りないんでな。その女に手伝ってもらうことにした」
 しゃあしゃあと言ってのける相手を梨佳が睨みつける。
「この子を解放するのが条件だったはずよ」
「解放してやるさ。全てが終わったらな」
「…………」
「船に移動する。付いてこい」
 そう言って歩き出したヒューゴの後を梨佳はしぶしぶ追う。 そんな彼女にしっかりと銃口を当てながら、どうしてこんな事をしているのだろうと自問する。 ただ、こうしなければならないという強迫観念が彼女の意識を乗っ取り、肉体までもを乗っ取る。
「……しっかりしてよ」
 前方で呟かれた梨佳の言葉に、どこか遠くで「その通りだよな」と頷きつつ、目の前の強迫観念に万莉亜は従った。

「マグナ、お前から乗れ」
 港に停泊していた船は、万莉亜が予想していたような大きな物ではなく、単にその辺から拝借してきた漁船だった。 そこに梨佳、万莉亜の順番で乗り込む。二人が順に乗り込むと、船はその都度不安定に大きく揺れた。それにハッとした梨佳が急いで声を上げる。
「ダ、ダメよッ!」
 今まさに片足を甲板に乗せようとしていたシリルが、その格好のまま固まる。
「ダメよ」
 声のトーンを落としてさらに梨佳が呟く。
 そんな彼女と枝のやり取りとニヤニヤと眺めながら、ヒューゴは悠々と船に乗り込んだ。
「どうした? まさかまだ枝がうろついているのか?」
 分かっているくせに、楽しんでいるようなその口調に梨佳は相手を睨みすえる。
「出港だ」
 それを無視して、碇を上げながらヒューゴが二人の少女に告げる。
 やがて波止場に佇む三人を残して、船は無情にも出港を始めた。 けれどその直後、船内の機関室にいたヒューゴが異変に気付き、二人の人質をその場に残して甲板へと飛び出る。 そこで彼は、我が目を疑うような光景に出くわした。
「……クレア……ッ……」
 彼が憎々しげに呟いたとき、大きく船が揺れた。
 黒い海から何本も生えてきた人の腕が、船体を掴み、沈んでいた体を引き上げる。次々と 際限なく現れる人間達は、海の底から這い上がってきた生きた屍のようで、その光景のおぞましさにヒューゴは小さく身震いをする。
 虚ろな表情をした人間達は船に乗り込むとそのまま四人がかりでヒューゴを取り押さえ、 残りの二十名強は船が転覆しないよう、バランスを取りながら各々の配置についた。四人のたくましい男に身動きを封じられ、 さらにぐるりと船を囲うようにして立ちはだかる人間に舌打ちをしてから彼は視線を上げる。
 きっとずっと匂いはあったはずだ。
 それなのに、潮の香りに紛れていて気がつかなかった。そんな自分が腹立たしくて、奥歯を噛み締める。
「こんばんは」
 暢気にそう言って機関室の上からこちらを見下ろすバイオレットの瞳は、そんな彼を嘲るようにして笑っていた。
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