ヴァイオレット奇譚2 Chapter0◆「まごころのすべて―【4】」 その夜は夢を見た。 初めて母と教会へ行った日、森で妹たちと遊びまわっていた自分の頭には あの花の花びらがあちこちくっついていた。 それと一つつまみあげて、牧師が微笑む。その優しい笑顔が、ぼやけていてよく見えない。 「この花の名前を知っている?」と彼が訊ねるから、首を横に振る。 「とても価値のある花なんだよ」と彼が微笑むけれど、その笑顔はやっぱりぼやけていた。 多分もう、永遠に見ることが出来ない。 翌朝、牧師が教会で自殺したと隣人が大慌てで知らせに来た。 病弱の母が、悲壮な表情で出かけていくのを見送り、ぼんやりと 流れる一日を過ごしていると、やがて日暮れに母が戻り、行きとは打って変って 明るい表情で声を弾ませた。 「新しいお客様が見つかったのよ」 何のことやら驚いて目をぱちくりさせていると、彼女が明るい声で続ける。 「森で咲くあの珍しい花を、欲しがっている方がいるの。隣の町の漁師さんでね」 「……」 「明日から毎日、届けて欲しいって言ってるの。行ってくれるわよね、クレア」 「うん」 「運が良かったわ。牧師さんの知り合いにたまたま声をかけられてね。 何でもあのお花の噂を聞きつけたらしくて」 「……お母さん」 「なあに?」 「あの花の……名前は何て言うの?」 テーブルについた傷を眺めながらそう訊ねれば、母は一切 トーンを変えることなく、そしておそらくは笑顔を僅かに歪ませることもなく答える。 「わからないわ。お母さんはあんまりものを知らないから。でも、 あの花はとても貴重なものなのよ。そんじょそこらには無いの。国王様のお部屋には 、毎日あのお花が飾られているそうよ」 「へぇ」 「どうしてそんなことを聞くの?」 「ううん。ただ、名前が何なのか、少し気になっただけ」 「売り物の名前なんて、どうだっていいじゃない」 「うん。そうだね」 俯いたまま微笑んで話を切り上げると、少年はふらりと 家を出て森へ向かった。その後ろからアンジェリアがついてきていることには気付いていたけれど、 彼は振り返らずに進み、やがて現れたリネアの花の前で立ち止まる。 最早真実など、追求する価値もない。 「クレア……」 おずおずと声をかけてきたアンジェリアに視線を向ける。 今にも泣き出してしまいそうな彼女の表情を見て、なさけない 声で笑ってしまった。 「クレア……私、あの女が許せない」 「お母さんのこと?」 「あの人は、息子を売り物にして食いつないでる」 「…………」 「許せない」 「……そんな風に言わないで。俺は、お母さんが好きだ。頼ってもらえるのは嬉しい」 ああ。こんなときに限って、あの人の言葉を思い出す。 そんな自分に嫌気がさして、少年がまたなさけなく微笑んだ。 ――「一度心を向けてしまったものへの断罪は、それは同時に、自己の崩壊でもある」 本当にその通りだ。 彼は、だから死んでしまったのだろうか。だとしたら、彼を殺したのは、自分かもしれない。 「……ねぇクレア」 「なに」 「私、決めたわ」 決意のこもった彼女の言葉に、少年が伏せていた視線を持ち上げる。 「明日、この村に"良くない物"をばら撒く」 「……え」 「この間、皮を剥がされる可哀想な生き物を救った、とても良くない物よ」 「……」 「あれをもう一度ばら撒くわ。今度は人間の体にも害を及ぼすものにする。 この町を、滅ぼすことに決めたの。……うん。それがいいわ」 一人納得して頷いている彼女に絶句し、それから慌てて少年が詰め寄る。 「どういうことだよ、ど、どうしてそんな……」 「もうクレアがなんて言っても、そうするって決めたの」 「…………」 「しばらく滞在して分かったわ。この国は病んでいるけれど、この町はとくに重症。 見ていて反吐が出るわ。もう我慢ならない」 「……」 「家族を救いたい?」 「当たり前だ……そんなこと、やめてくれよ」 「じゃあ、家族を捨ててこの国を出ましょう」 正面から真っ直ぐに投げられた言葉を、理解するまでには数秒かかった。 そして理解した今もなお、言葉が見つからない。 「家族を守りたいのなら、家族を捨てて私と来て。それ以外に、 この町を救う手立てはあげない」 「…………」 「よく考えてね」 にこっと微笑んで、アンジェリアがふわりと地面から飛びたった。 徐々に上昇を続け、やがてその姿は霧のように消えてしまう。 そんな超人的な行動を見せ付けられたのは初めてで、クレアは 口をあけたままポカンと彼女の消えた空を見上げた。 ****** 「元気が無いわ」 夕食の席で、難しい顔をしながらパンをかじっている息子に母が声をかけた。 彼は「そうかな」と首を捻り、それからまたぼんやりとパンをかじる。 昔から口数が少なく、何にしたって無頓着な息子だった。 どんなに体調が悪くとも、倒れるまで全く気がつかないような彼は、何かと目の離せない 長男であったから、まさか今回も本人の気付かぬうちに風邪でもこじらせているのではと母が神経を尖らせ る。明日から、また花を運んで貰わなければならないというのに。 「本当に大丈夫なの?」 「うん」 「……今日は早く寝なさいね」 「うん」 いつもの短い返事で返す息子にとりあえず満足して母親が視線を皿に戻した。 会話の出来ない子だが、最低限の礼儀は知っているし、ガチャガチャとうるさい男よりは幾分ましなのかもしれない。 頭は良くないけれど素直だし、怠け癖もない。そして何より、美しい顔をしている。 亡くなった夫の母親によく似ている。 彼女のことは好きでも嫌いでもなかったけれど、今は何となく、感謝の念を抱いている。 現金だと言われればそれまでだが、あの人の美貌を隔世遺伝で受けついた息子を見るたびに、 ありがたいと感じていた。 「……あの花」 ふいにパンを皿に戻した少年がぽつりと呟く。 小さな呟きに、母親が「え」と耳を向けて聞き返した。 「あの花、リネアって言うんだって」 「……そう」 「うん」 「……誰に聞いたの?」 「女の人が教えてくれた」 「誰」 「知らない人」 「……そう」 言いながら皿を持って立ち上がる母親を、クレアはそっと盗み見た。 彼女は何食わぬ顔で立ち上がり、何事もなかったかのように食器を洗う。 こんなこと、言うつもりじゃなかったのに、何を口走っているのだろうとすぐに 自責の念が湧いて出た。困らせるつもりなんてなかったのに。 夕食が終わると、母は妹たちを寝かしつけるために寝室へ向かう。 それから、ちょうどすれ違った息子に戸締りを頼むと声をかけた。 「あ、それからクレア」 頷いて扉へ向かう少年の背中を呼び止める。 「さっき思い出したんだけど」 「……え」 振り返った息子に笑顔で母親が続けた。 「あの花、そんな名前ではなかった気がするわ」 「…………」 「絶対そうよ。子供の頃にお母さんも聞いたことがあるんだけど、 そんな名前ではなかったと思うの。あなたきっと、からかわれたのよ」 「そうかな……」 「そうよ。今度お母さんが正しい名前を誰かに聞いておいてあげるわね。 だから、間違えて覚えた名前は忘れなさいね。きっと恥をかくから」 「……うん」 「じゃあ、戸締りをお願いね」 「はい」 そう言って寝室へ消えていく母親の背中を見送り、それから戸口へ向かい、少年は そのまま扉を開けて外へ出ると、音を立てずに扉を閉める。 僅かに軋みながら徐々に閉まっていく音に耳を澄ませ、固く唇を噛み締めながら 音もなくドアが閉められる。小さく息を吐いて、体中に渦巻く激情を逃がした。 「決めたの?」 闇の中から現れた少年を、女は納屋の前で迎えた。 尋ねられた言葉に、クレアが頷く。 「これしか、お母さんたちを救う方法がないなら……」 「そうよ。他にはないわ」 「……なら、行く」 そう言って手を伸ばしてきた少年を、アンジェリアが抱きしめて、 二人はその場から霧のように消えてなくなった。 許せないものなら、たくさんある。 母の嘘も裏切りも許せない。けれど何より許せないのは、そんな彼女を断罪したがる自分だった。 最後まで、家族への愛を貫きたかった。それが信念であり、己の全てだった。 だからこれは、本意ではない。 自分は家族を救うため泣く泣く家を捨てたのだ。愛していたから守ったのだ。 信念は突き通された。 だから決して、都合よく現れた選択肢にすがったわけではなく、隠された恨みを 大義名分の下に晴らしたわけでもない。 本意ではなく、仕方なしに、選んだ別れだった。 そうでなければいけない。 そうでなければ、壊れてしまう。 ――「一度心を向けてしまったものへの断罪は、それは同時に、自己の崩壊でもある」 壊れてしまう。 ****** 寝苦しさに耐え切れずに重たいまぶたを持ち上げた。 窓の外に見える景色はまだ薄暗く、時計を探してあちこちに首を向けるけれど、 薄暗い中ぼやけた視界を探るのもかったるくなって勝手に夜明け前だろうと納得した。 確認しなくても、おそらく汗だくだ。 奇妙な脱力感が全身を襲う。 「……クレア。起きたの?」 隣で枕に顔を埋めていたアンジェリアが小さく呟いた。 彼女の頬には、大きなガーゼが貼られていて、それがとても痛々しい。 「ずっとうなされていたの。起こそうかなって何回も心配したのよ」 「……夢を見てた」 答える少年の声は、もう少年とは言いがたく、低く掠れた青年のものだった。 「夢?」 「出会ったときの……変な夢……どんどん場面が変わって、忘れてたことも、 色々思い出したよ」 「楽しかった?」 「うなされてたんだろ?」 「うん」 「……楽しくなかったよ」 「でも久しぶりにお母さんや妹に会えたんでしょ」 「うん」 「どうだった?」 「……でも、夢だから」 「夢でも会いたい人に会えたら嬉しいわ」 そうかなと返してクレアが重たい上半身を起こし、イスに引っ掛けてあったタオルに手を伸ばす。 どうあがいても届かないことが薄々わかっているくせに、横着してその場から手を伸ばし挑戦し続けていると、 見かねたアンジェリアが起き上がってさっさとベッドを抜け出し、イスから取ったタオルを持ってクレアの横に座る。 「リネアの花って覚えてる?」 汗に濡れたクレアの体にタオルをあてながらアンジェリアがかけた言葉に相手が頷く。 「……あれ、嘘なの」 「え……」 「リネアなんて、真っ赤な嘘なの。あの花は、本当はとても高価なものなのよ」 「……」 「あの森でしか、生息していないの」 「……でも、教会の裏にたくさん……」 「クレアの目を騙すことくらい、わけないわ」 言葉を失っている彼に、アンジェリアが寂しげな視線を向ける。 「……後悔した?」 「…………」 「後悔したの? クレア」 「……いや」 「……」 「してないよ。もう、昔の話だから」 顔を上げて微笑み、クレアがアンジェリアの肩を抱き寄せる。 アンジェリアは長いため息のあとに「嘘よ」と呟いた。 「……それでも、後悔しないって言って欲しかったの」 「うん」 一瞬、心臓が凍てついたのは本当だ。 けれどすぐに、受け入れることが出来た。多分、愛してしまったからだ。 どうしようもなく寂しがりな彼女を愛してしまったから、だから、後悔には至らない。 「……本当に、どっちでもいいんだ」 「クレア……この先何があっても、私を捨てないでね」 涙声ですがり、顔を彼の胸に埋める彼女の頬から、ガーゼが半分ほどはがれる。 そこから覗いた傷跡を、クレアは上から眺めた。 焼かれたようなただれた左の頬。 一週間ほど前、町の住人から「魔女だ」と攻め立てられ、火で顔を焼かれたアンジェリアは、 怒って家を飛び出し彼女を傷つけた輩に向かっていったクレアの手当てこそ完璧にやってのけたくせに、 自分の顔の傷は一向に治そうとはしなかった。 彼女の力を持ってすれば、跡形もなく消し去ることが出来るのに、アンジェリアはそれをしない。 ――「すぐに治してしまったら、また魔女だと言われて火を投げられるもの」 悲しげな瞳でそう語るアンジェリアを見ていると胸が痛んだ。 それと同時に、周りから理不尽に忌み嫌われている彼女を、その分愛さなければと強く思う。 敵だらけの彼女を守るために、自分は何よりも強くあらなければならない。 「私から、離れていかないでね」 もっと早く大人になりたい。 こんなふうに不安を零す彼女を安心させられるくらい、頼もしい男になりたい。 彼女がそれと真逆のことを望んでいるとはついぞ知らず、青年が強い誓いをまた胸にしたためる。 「……このまま、ずっと一緒にいてね」 「うん」 「永遠に、一緒にいてね」 「うん」 「約束よ、クレア」 約束よ。 ****** 寝苦しさに耐え切れずに重たいまぶたを持ち上げた。 窓の外に見える景色はまだ薄暗く、時計を探してあちこちに首を向けるけれど、 薄暗い中ぼやけた視界を探るのもかったるくなって勝手に夜明け前だろうと納得した。 確認しなくても、おそらく汗だくだ。 奇妙な脱力感が全身を襲う。 「……クレアさん、起きました?」 隣から遠慮がちにかけられた声に視線を向ける。 ベッドの脇で、長い黒髪の少女が頭を覗かせていた。 一瞬錯覚して目を凝らす。少女が、にやっと笑って手招きした。 「そろそろですよ」 「……?」 「そろそろ!」 「……何が……」 「何がって、初日の出! クレアさん年越しそばもお参りもしてないんですから、 初日の出くらいは見ないと。一個くらいは参加しましょうよ」 「…………」 ああそういえば、そばを食えと昨日の夜誰かにさんざん頬を叩かれた気がする。 無視して眠ってしまったが、あれは彼女だったのだろうか。 「私ちゃんとクレアさんの分もおみくじ引いてきましたよ」 「……今何時?」 「四時半です」 「…………」 「四時半ですよ」 「……早いんじゃないかな……いくらなんでも」 「そうですか? でも見逃したらいけないし」 「テレビとかでさ……ああもういいや。目が覚めたよ」 半ば降参に近い形で起き上がり、汗の流れる額を手で拭った。 どれだけおぞましい夢を見たらこれほど冷や汗をかけるのだろうとがっくりしながら 立ち上がり、近くにあったタオルで拭う。 「ずっとうなされてましたよ 起こそうかずっと迷ってたんです」 そんな彼をベッドの脇から見上げて彼女が言う。 似たようなセリフをさっき別の女が言っていたような気がするけれど、きっと気のせいだ。 「……変な夢を見ていて」 「怖い夢ですか?」 「うーん。……何だかよく分からない」 「それって初夢になるんですかね?」 「へ?」 「何だか幸先よくないですね。あ、でも今夜見た夢が初夢なのかな。……あれ?」 一人で頭を捻っている少女をまじまじと眺めて、それから まだ半分ぼけている頭で部屋をぐるりと見回した。 どれもこれもがしっくり来ないのは、ここに住み始めてまだ数ヶ月しか 経っていないからか、それともこれも夢だからなのか。 だけどベッドの脇で、いつのまにか持ち込んでいたノートパソコンを開き、 何かを調べ始めているらしいあの少女だけが、ぼんやりとした世界の中で妙に生き生きと はしゃいでいる。あの子の周りだけは、やけに輪郭がはっきりしている。 「……万莉亜」 小さく名前を呼ぶと彼女は振り返り、彼を手招きした。 「どっちでもありみたいですね。初夢って」 床においてあるノートパソコンの小さな画面を、二人で覗き込む。 「今夜いい夢見たら、そっちを初夢ってことにしたらどうでしょう」 「……結構融通が利くんだね」 「何でも気の持ちようですよ」 そう言ってケラケラと笑う彼女を見ながら、妙にテンションが高いなと感じ、 それから目の下にうっすらと浮かぶ隈に気付く。 ――ああ……寝てないのか…… なるほどと納得し、それから何の気なしにそっと彼女の頬に指を伸ばしてみた。 触ったら煙のように消えてなくなってしまうのかなと思いきや、彼女は スイッチが切り替わったように唐突に顔を真っ赤にして硬直し始める。 いつもの万莉亜のリアクションに満足してクレアが目を細めた。 「良かった。夢かと思った」 「……夢? 初夢ですか?」 「ううん。ああでも、初夢ならこれがいいな。それなら、夢でもいい」 「……?」 「目が覚めないといいのに」 「クレアさん寝ぼけてますか?」 どうだろう、と囁いて赤い頬に唇を寄せる。 軽く触れただけなのに、彼女の頬の筋肉がいっそう硬直するのが分かって苦笑した。 「お……おみくじ……」 甘い空気に耐えかねたのか、万莉亜はごそごそとパーカーのポケットから 小さく畳まれたおみくじを取り出して片方を彼に手渡す。 「こっちがクレアさんのです」 「わざわざありがとう」 「いっせーので見せ合います? それとも自分の胸にしまっておきます?」 「えー」 どっちでもよかったけれど、そう言えばあからさまにがっかりされることは分かっていたので、 慎重に万莉亜の表情を読む。 「見せ合おう」 「あ、やっぱり? やっぱり知りたいですよねぇ」 「うん」 頷きながら、彼女の微妙な表情から訴えを読み取れるようになった自分を称え、紙を開く。 あのわけの分からない花占いを筆頭に、どうも彼女はこういった運試しに全力投球する傾向がある。 「…………大凶でした」 そのくせ、運が悪い。 「うわ、すごい。こっちも大凶だ」 「ええっ!?」 「…………」 「…………」 もう少しまともな物だったのなら、交換してあげることも出来たのに、 いかんせん大凶同士ではにっちもさっちもいかず、がっくりと肩を落とした万莉亜をクレアは 感心半分に眺めた。しかしなかなかの引きの強さだ。狙って出来ることじゃない。 そんなことを考えていると、妙におかしくなってそっと唇を噛む。 やがて目の前で堪えきれずに吹きだした青年に万莉亜が顔を上げた。 「いや、ごめん、でも……」 笑いを堪えるのに必死で言葉が紡げないクレアに、万莉亜が「気の持ちようです」と むきになって反論を始める。 「大体こういうのは、大凶の方が運がいいって言われてるんですから」 「すごい。そうなんだ」 「馬鹿にしてませんか? そうなんですよ! だから落ち込んだりしたらダメなんです」 「僕はどっちかというと巻き添えだよね」 「あっ! 一人だけ逃げるなんてずるいっ!」 彼が床にポイと投げたクジを引っつかんでその胸にぐいぐいと押し付ける。 「こうなったら道連れですからねっ!」 「ほんとに?」 胸の下にある細い腕を引いてあっさり倒れこんできた体を抱きしめる。 せっかくおみくじの話題で一掃したはずの甘い空気が、一瞬にしてこの場に戻ってきた。 失敗したと顔を赤くする万莉亜をよそに、してやったとクレアが微笑む。 「それって幸せだな」 「……大凶ですよ」 「頑張って乗り越えていこうね」 「…………」 やっぱり寝ぼけているのか、はたまたおちょくられているのか、今回に限らないがいまいち 彼の真意が分からずにそっと頭の上にある相手の顔を見上げる。 一見すれば無表情にも見えるそれをまじまじと見つめると、ほんの少し口角が上がっているのが分かる。 目元も僅かにではあるが緩やかにカーブしている。最近彼は、よくこんな風に笑う。油断していると見落としてしまいそうな 、微かな笑顔。 彼の見せる表情の中で、万莉亜はこれが一番好きだった。 穏やかな笑みに安心して、こちらも素直に微笑むことが出来るからだ。 「初日の出を見たら、もう一回引きにいこうか」 ふいに出された彼の提案に、万莉亜が難しい顔をして答える。 「……それって、ありでしょうか」 「今度は僕が二人分引くよ」 「あ、それいいですね。頑張ってくださいねクレアさん」 「うん」 「なるべく大吉狙いで行きましょうね」 「まかせて」 「あ、特殊能力使って透視するとか無しですよ」 「……何度も言うけど、そんなことできないよ」 「得意技はなんですか?」 「えー……」 体を寄せて、くだらない会話を繰り返しているうちに、やがて睡魔に襲われた 二人の後ろで、カーテン越しに日が昇る。 ――……あ……日の出…… 床に転がって眠りながら、背後に感じる太陽の熱と背中の痛みでほんの一瞬クレアが目を覚ました。 しかしすぐに、隣で寝息を立てている万莉亜の穏やかな呼吸につられて目を閉じる。 ――……まぁいいや…… そうしてまた、しずかに夢の淵へと落ちていく。 Copyright (C) 2008 kazumi All Rights Reserved. |