ヴァイオレット奇譚2

Chapter5◆「彷徨う恋の代償―【6】」




 明け方になって戻ってきたクレアが、あんまりにも疲れ切った顔をしていたので、 何となく声をかけることが躊躇われて、万莉亜は結局一度寮に戻ることにした。

「おかえり」
 ドアを開けるなり、洗顔中だった蛍が泡だらけの顔で万莉亜を迎える。
 彼女の顔を見ると、安心からかどっと力が抜け、万莉亜は玄関にへたり込んでため息をついた。
「……どしたの?」
「なんか疲れちゃって」
「まさか寝てない?」
「うん。でも、授業出なきゃ」
 気力を振り絞って立ち上がり、壁に掛けてあった制服を取る。 これに袖を通すのも、残り僅かだと思えば、とてもずる休みする気にはなれない。
「ねぇ蛍」
「ん?」
「学校終わったら、大事な話があるの。今日はバイトある?」
「……あるけど」
 洗面台に向いていた彼女が、神妙な顔で振り返る。蛍は視線の先の万莉亜の真剣な表情を見て、 「休むよ」と答えまた顔を洗い出す。
 ありがとう、と小さく万莉亜が呟いても、水音で聞こえないふりをした。
 それが、精一杯の嫌がらせだった。



 異変があったのは、午後の授業中。
 突然校内放送で、万莉亜は職員室へ呼び出されたのだ。
 授業中に呼び出されるだなんて、一体何をしでかしたのだとクラスメイトに笑われながら 慌てて教室を飛び出す。
――寮のことかな……?
 思い当たるのはその程度だが。
 万莉亜が寮長になってからというもの、規律を破る生徒が激増し、それは今も改善の兆しを見せない。 が、だとしても授業中にわざわざ呼び出す事柄だろうか。
 結局心当たりもないまま職員室に辿り着き、ドアを開ける。
「……え?」
 職員室に、教師は一人も見当たらなかった。
 唯一、事務用の椅子に座りながら悠然とそこから見える中庭を眺めていた金髪の青年が、入室してきた 万莉亜に気付き振り返って笑みを浮かべる。
「万莉亜」
「クレアさん? こ、ここで何を……? 体はもう大丈夫なんですか?」
 慌てて駆け寄りながら聞くと、彼は頷いて、万莉亜の腰に腕をまわす。
「大丈夫だよ。触ってみて」
「え、いえ……あ、あの……」
 顔を赤くして戸惑う万莉亜を見て可笑しそうに笑いながら、そっと彼女を解放した。
 そんな彼の気遣いに万莉亜が小さな後悔を覚える。
――照れないで、抱きつけば良かった……
 次は気をつけようと胸に誓って、クレアを見上げる。彼は綺麗な瞳を優しげに細めて、 少しだけ乱れた万莉亜の髪を指先で梳いた。
「昨日は、挨拶もなしに寝ちゃっただろ? 万莉亜はすごく怒ってたから、もしまだ 僕に腹を立てているなら、一刻も早く許しを請うべきだと思って」
「……別に私、怒ってたわけじゃないですよ」
「でも怖かった」
「……怒ってたわけじゃ、ないですもん。あれはお願いをしてたんです」
「うん。そうだったよね」
「クレアさん?」
「ごめん。やっぱり、そのお願いは叶えてあげられないから」
「ど、どうして」
 困惑する万莉亜の髪に、まだ指を絡ませたまま、笑顔とは裏腹にひどく掠れた声色で、クレアが告げる。
「君を、さらっていく覚悟が、僕にはないから」
「…………」
「猶予期間が欲しかったのは、僕だったのかも知れない」
 万莉亜の表情が、みるみる不安に歪んでいく。
 彼女は何か言葉を紡ごうとしては失敗し、それをただ繰り返している。
「ごめんね。でも、君のことは大好きだ」
 どうしたらいいのか分からないままの万莉亜の頬を両手で包んで、クレアが唇を寄せる。 触れるだけの控えめなキス。不安で一杯の万莉亜の心に、もどかしさを残すだけのキス。
「それだけ、言いたかったんだ。突然呼び出してごめん」
「…………いえ」
「授業に戻って。放課後、またきちんと話そう。待ってるから」
 それを無視して、相手の襟元を掴み、今全て話し合いましょう、と怒鳴りつけたかった感情をぐっと堪えて、 万莉亜は素直に頷く。とても穏やかではあるけれど、どこか有無を言わさぬ態度のクレアを前にして、そうすることしか出来なかった。



******



 午後の授業は、全く頭に入らなかった。
 気がついたら全ての授業の終了を告げる鐘の音が聞こえ、万莉亜は帰り支度もそこそこに 新校舎へと駆け出す。
 先ほどのクレアの言葉の意味が、どう考えても理解出来ない。
 理解したくない。
――覚悟なら、出来てるのに……
 クレアにはそれが無いと言うのだろうか。それなら、自分たちはこれから一体どうしたらいいのだろう。
 逸る気持ちを抑えて新校舎の階段を駆け上がる。そして辿り着いた 先の隠された五階のフロア。そこを見渡して、万莉亜は我が目を疑った。
「……え」
 かつてあったとても校舎の中とは思えない、立派なホテルのロビーのような内装は、 その全てが撤去され、眼前に広がるのは仕切りすら取っ払われた、ただただ広い空間。
 誰かが潜んでいるのでは、などとは疑いようもないくらい見晴らしの良い光景に、 万莉亜は脱力し、その場に崩れ落ちた。
 嫌な予感がする。



 アルバイト先に休みの連絡を入れ、寮の部屋で一人テレビを見ながら時間を潰していた蛍が、 いい加減しびれを切らせて携帯を手に取る。
 話があると言ったのは万莉亜のくせに、いつまで経っても部屋に帰ってこない。 腹立たしさから、第一声にどうやって怒鳴ってやろうかと考えを巡らせていると、 唐突に部屋の扉が音を立てて開いた。つい驚いて携帯を床に落としてしまう。
「あー! 新品なのに!」
 そう叫んで携帯を拾い、キッと扉の前に立つ人物を睨み付けるが、 そこに立っていた万莉亜が顔を涙でグシャグシャにしていることに気付き、唖然とする。
「万莉亜?」
「……蛍……どうしようっ……」
 そう言って万莉亜がその場に崩れ落ち、両手で顔を覆い泣き始める。
「ど、どうしたの!?」
 慌てて駆け寄り万莉亜の肩に手を伸ばした蛍は、彼女の体が小刻みに震えていることに気付いて眉をひそめる。
「何があったの?」
「いないのっ……誰も、誰もいなくなっちゃった……っ!」
「誰って、誰のことっ?」
「クレアさん……シリルも、みんな……」
 しゃくり上げながらどうにか説明する万莉亜に、蛍は困惑したまま首を傾げ、相手の顔を覗き込む。
「クレアって、誰よ」
「…………え」
「誰?」
 蛍の表情は、ふざけている類のものではなく、彼女は真剣に万莉亜から情報を引き出そうとしている。 それでも今の万莉亜には、悪い冗談にしか聞こえない。
「クレアさんだよ……新校舎にいる、私の……」
「私の?」
「……蛍……?」
「万莉亜、誰のこと言ってるの?」
 血の気が、引いていくのが分かる。
――記憶が……消されてる……
 そこに、彼らの明確な意志を感じ取った万莉亜は、今度こそ地面に突っ伏して泣いた。
 多分、消されているのは蛍だけではないだろう。それが意味するところは一つ。
 彼らは学園を去ったのだ。
 そして万莉亜は

 たった一人、置いて行かれた。



PREV     TOP     NEXT


Copyright (C) 2008 kazumi All Rights Reserved.