ヴァイオレット奇譚2

Chapter7◆「万莉亜―【2】」




 足掻くのにも、疲れてしまった。この気持ちを認めたら、きっと楽になる。
 分かっていたのに、それを許さなかったのは、同時に存在する、どうしようもない怒りだった。

――「ねぇクレア
 時々、心が凍ってしまっているような気がするの
 止まってしまったあの日のまま。心もずっと、あの日のまま。
 でもねクレア。そうじゃないって、信じたかったの」



 こんな情けない結論に、三百年もかけた。



******



 学園から、一つ離れた隣の町に、万莉亜はいた。
 周りから見れば、フラフラと足取りのおぼつかない少女が、当てもなく彷徨っている風に見えたかもしれない。 薄暗くなってきた住宅街を、この辺りでは見慣れない少女が行ったり来たり。
 声をかけようかと近隣の住人が数度試みたが、彼女のぼんやりとした表情に気付くと、皆気味悪がって差し出した手を 引っ込めた。
 そんな周囲には目もくれず、当の本人は至って冷静にかつての住まいを探していた。
 アパートはすぐに見つかったが、鍵を持っていなかったので入れなかった。だから途方に暮れて、辺りを行ったり来たり。 新しい住人がそこで暮らしている様子はなかった。きっと空き部屋のままなのだろう。
 あの事件はこの辺りでは有名だ。
 新たな住まいにするには、いささか縁起が悪すぎる。

――どうしたらいいんだろう……
 ぼんやりとそんな事を考える。
 何から始めて良いのかが全く分からなかった。何をするにも孤独がつきまとって、身動きが取れない。 その内、皆が自分を一人にしまいと神経を尖らせている事に気がついた。思いあまって後を追ったりしないよう見張っているのだと、 気付くのに丸一日かかってしまった。そんな道は思いつきもしなかったが、考えてみれば、随分と魅力的だった。
 今もう、心残りである祖母もいない。
 たった一つの、心のよすが。それももう、なくなってしまった。
 痛感する度に、胸に絶望がひた走る。こんな思いを、また抱えて生きて行かなくてはいけないのだろうか。 そうまでして生きる人生に、何の価値があるのだろう。
 そんなことばかり、考えている。

「万莉亜ちゃん……?」
 ふいに声をかけられて、ゆっくりと振り返る。
 驚いた表情の中年女性が、振り返った万莉亜の顔を見て口元に手を当てた。
「やだっ……あなた、万莉亜ちゃんでしょう?」
 駆け寄って、彼女が万莉亜の肩にそっと手を置く。
「私のこと覚えてる? 昔隣に住んでいたのよ。もう随分昔になるけど……」
「……」
 呆然としている少女にもお構いなしに、女性は懐かしいと微笑み、綺麗に成長した彼女を賞賛し、 最後に笑顔でこう告げる。
「前をおうちを見に来たの? あそこは誰も住んでいないから、好きなだけ見て行きなさいよ。 鍵もかかってないし。それに万莉亜ちゃんなら大家さんだって大目に見てくれるわよ。あなたのこと、 大家さんすごく心配してらしたのよ」
 あんなことがあって、と続けたところで女性は慌てて口をつぐみ、笑顔で濁した。
「……こんなに大きくなって、おばさんびっくりしちゃった。またうちにも遊びにいらっしゃいね」
「はい」
 万莉亜が機械的に頷くと、女性は、にこやかに手を振って去っていく。
 結局、彼女の名前すら思い出せなかった万莉亜は、手に入れた情報に少し脱力してかつての部屋を目指した。 てっきり鍵がかかっているものと思い込んでいたから、何時間も無駄にしてしまった。

 アパートの部屋の扉は、拍子抜けするほど楽に開いた。
 あの頃と何も変わらない風景が、突如眼前に広がる。恐怖はなかった。ただただ、懐かしさがそこにはあった。 狭いけれど、幸せだった思い出がたくさん詰まっているこの部屋。
 離れて暮らしていた寮で、何度もこの場所を夢に見た。それはいつだって恐ろしい夢だったのに、いざ訪れてみると、こんなにも 愛おしくて、懐かしい。
 傷だらけの柱も、古い畳も、日に焼けた壁も、その全てがかつての幸せな暮らしを彷彿とさせて、涙がこみ上げてくる。

 何もかもが消え去ったのに、温かかった場所だけがここにそのままの形で残っている。
 そのあまりの残酷さに打ちのめされて、涙が止まらない。



******



――おばあちゃん……ごめんなさい

 たくさん八つ当たりして、ごめんなさい。
 謝るから、一生かけて償うから。お願い。一人にしないで。

「……っ」
 寝苦しさに耐えかねて、しぶしぶ目を開く。熱を持ったまぶたは重たくて、こじ開けるのに一苦労した。
「おきました?」
 薄暗い部屋の中、唐突に男の声が響いて、万莉亜が悲鳴を漏らす。
 そんな彼女を見て、男は慌てて駆け寄った。カーテンのない窓から、月明かりが彼を照らす。はっきりとし始めた その輪郭に、目を凝らす。
 短く刈り上げられた黒い頭髪に、細い瞳。どこか神経質そうにつり上がった眉。それとは逆に、大柄で頑丈そうなたくましい体躯。 彼はその体で出来る限りに低く屈み、万莉亜に伸ばしかけた太い腕を宙に彷徨わせていた。触れて良いものか、戸惑っているようにも見える。
「おおきいコエ、こまります。しずかに。しずかに」
 片言の日本語で、ジェスチャーを加えて必死に告げる彼を、呆然と見上げる。
「……だ、誰」
 やっとのことで絞り出した言葉に、男が笑みを浮かべて頷いた。
「ワタシ、リン、といいます」
「…………」
「クレアのトモダチ。いまはクレアと、いっしょです。いっしょに、ヒトをさがしています」
「……」
「マリアさん、に、アイに来ました、のは、クレアにたのまれまして、来ました」
「……どう、して」
 声が、情けないほどに震えている。そんな自分を見て、リンと名乗る男が痛ましげに目を細めた。
「……マリアさん、が、しんぱいです、から、ワタシ、来ました」
「……え?」
「…………アー、……えー、」
 しばらく額に手を当てて使い慣れない言語を探っていた彼は、やがて諦めて立ち上がり、未だ怯えている万莉亜を見下ろし微笑む。 それからゆっくりと、怖がらせないように分厚い手の平を差し出した。
「キてください」
「え……?」
「……ニホンゴ、むずかしい」
 手を取る気配のない少女に、僅かに寂しそうに呟いた後、彼は玄関に向かい扉を開けて出て行ってしまう。 取り残された万莉亜が呆然とそちらを眺めていると、しばらくして何かを言い争う物音が近づいてくる。 全く聞き取れなかったのは、きっと日本語ではなかったせいだろう。
 やがて戻ってきた男は、腕の中で暴れている金髪の青年を部屋の中へ怒声と共に放り込んだ。

 唖然と眺めていた万莉亜の正面に、畳に打ち付けられたクレアの体が横たわる。
 おそらくは何か悪態をつきながら上半身を起こした彼が、すぐ傍にいた少女の視線に気付いて、動きを止めた。 万莉亜もまた、目を見開いたまま瞬きも忘れてその姿に見入る。

「だからお前はガキだって言うんだクレア。いい加減男になれ。きちんと別れを告げろ」
 早口にクレアを叱咤する一方で、ちんぷんかんぷんの万莉亜には愛想笑いを残し、男が部屋を去る。 嵐のような彼が消えてしまうと、部屋にはすぐに静寂が戻ってきた。
「……な、に」
 呆気にとられ無意識に呟いた万莉亜の前で、静止していたクレアが腕を伸ばしきちんと上半身を起こす。 駆け込んできた瑛士の報告を受け、考え無しに飛び出してはみたものの、こんな事になるとは思ってもいなかったから、用意していた言葉は何もない。
「……万莉亜」
 少女の瞳が、再び自分を捉える。咄嗟に「ごめん」と口走りそうになった己を、すんでのところで塞き止めた。
「クレア……さん?」
「……」
「……良かった。また会えて。……さよならを、言ってなかったから」
 小さな声でそう言った彼女の赤い瞳から、また涙が零れる。
 己の意志に反して彼女の涙に反応した腕を、ぐっと力を込めて押さえ込む。それを悟られないように、 視線をそっと外す。見ていられない。
「あの時……助けてくれたのは……もしかしたら、クレアさんですか? もしそうなら……私、お礼を言わないと」
 アルカードの別荘での一件の結末を、万莉亜は知らない。蛍からの電話の途中で気を失い、 気がついたら病院のベッドの上だった。気がついたら、祖母はもう、どこにもいなかった。
 思い出して、まだ涙が溢れる。

「……ありがとう……ございました」
「……」
「さよならを……言いに来たんですか?」
 消え入りそうな彼女の言葉に、頷くべきだと分かっている。でも、出来ない。体が硬直してしまって、動けない。

「……言わないで。……一人にしないで……」
「……っ」
「大っ嫌いッ……!」
 顔をゆがめて睨み付けながら、思い切り掴んだ胸ぐらに、万莉亜が崩れ落ちて涙を流す。
「万莉亜……っ」
「大っ嫌い! 触らないでよっ……!! きらいっ……」
 胸の中で暴れ出した少女を、堪えきれずに両腕で抱きしめる。

 どう別れを告げて良いのか、どうしても、分からなかった。
 今でも分からない。
 多分この先も、永遠に分からない。

 分かっているのは、今彼女を抱きしめた自分が、救いようのない馬鹿だということだけ。



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