ヴァイオレット奇譚2 Chapter7◆「万莉亜―【5】」 翌日は、雨だった。 ホテルの部屋で遅い昼食を取りながら、お節介だとは知りつつもリンが口を開く。 「……専門医に、任せるべきじゃないか?」 「…………」 一睡もせずに彼女を見張っていたクレアが、テーブルに腕をついて頭を支えながら、声には出さずゆっくりと頷く。 が、それはあくまで、相手の至極もっともな正論に頷いたまでだ。 「まぁ好きにすりゃいいが、でも彼女……とてもお前に心を開いているとは思えないんだが」 まだ、鈍い動きでクレアが頷く。 「……まぁ……好きにしろ」 呆れたようにもう一度繰り返して、リンが再び昼食に手を伸ばしたとき、大きな音を立てて乱暴に部屋の扉が 開かれた。 「万莉亜が起きたぞ」 彼女の部屋で見張っていた瑛士が、乱れた息を整えながら少しふてくされた口調で告げる。 そんな彼の態度など意にも介さず、クレアはゆっくりと立ち上がると、そのまま仁王立ちの瑛士の脇をすり抜けて 出て行った。しばらく躊躇った後、結局堪えきれずにその後を少年が追う。 「おい、今起きたばっかなんだからな。あんまりひどいことすんなよ」 「……ひどいこと?」 「俺は見たんだぞ。昨日、嫌がる万莉亜に、お前が水攻めしてる所をな」 「みずぜめ……」 ひどい誤解だ。 水分を取ろうとしない彼女にコップ一杯でもと思って少し強引に差し出したところ、 抵抗した万莉亜の腕がコップをはじいて中身をかぶっただけだ。そもそも水浸しになったのは彼女じゃなくて自分だったのに。 ――まぁいいや…… 万莉亜贔屓の少年に、今更弁明するだけ時間の無駄だろう。 さっさと諦めてクレアが万莉亜の部屋の扉に手をかける。 先ほどまでピタリと背後にへばりついていた少年が足を止めて、部屋に入ろうとするクレアから一歩後退した。 てっきり勢いに任せてついてくるものかと思っていたから、少し意外に思って視線だけ後ろの彼に向ける。 「……じゃあ、俺はほら、仕事、あるから」 視線に気付いた瑛士が、歯切れも悪くそう告げて走り去っていった。 彼なりにわきまえているつもりなのだろうか。 そんなものはいらないのに、とクレアがその後ろ姿を見つめる。 瑛士は、このまま日本へ残して置くつもりだ。 彼に芽生えているらしい万莉亜への妙な忠義を利用させて貰う。まだまだ異端の残る日本には、それに通じる 者の護衛が必要だと考えての決断だった。 万が一、万莉亜にとってあの少年が心休まる存在になったとしても、それはそれで、良いと思う。あれは頭の良い少年だ。 側に置いておいて、損する事もないだろう。 そんなクレアの心中に気付いていないわけでもないだろうに、ここへきてクレアに遠慮する瑛士を見て、思わず感心してしまう。 多分、そうは言っても、もしあのまま我が物顔で部屋に入ってきたとしたら、まず間違いなく、自分は少年を睨んだ挙げ句 閉め出しただろう。 それを本能でもって察知した彼は、そうなる前にとさっさと逃げた。 それほど長い付き合いではないというのに、こうまで気持ちよく見透かされると、腹立たしいのを通り越して素直に感心してしまう。 ****** 「ひぃふぅ……今日の所はざっとこんなもんか」 日の暮れてゆく海面が一望出来る断崖に、鎖で雁字搦めにされた男たちが横に並べられている。 それを書類と睨めっこしながら幾度も数えて瑛士が呟くと、隣にいたサングラスの男、アルカードの春川が頷いた。さらにその横には、 疲れ切った表情のリン・タイエイが両手両足を放り投げて寝転がっている。 彼らは、突然出来た暇を持てあます事もなく、春川から得たアルカードに所属する第四世代のリストを元に、こつこつと 同族狩りを始めていた。 本来ならば、それほど害もないだろうと野放しにしておくつもりだったが、リンが日本にいる以上、彼の 圧倒的な力を使わない手はないと、他でもない彼本人からの提案だった。 日本をちょいと掃除する、と言ってホテルを出た彼は、実に鮮やかに、血の一滴も流すことなく易々と 格下の相手を操り自ら拘束させることに成功した。 「全部が全部こうは行かないさ。最近生まれた第四世代はおそらく食った肉の量が少ないのだろう。供給源は ヒューゴのみだからな。おかげで楽が出来た。昔はそれこそ一匹捕まえるのも一苦労で……」 「……?」 早口の広東語で捲し立てる彼に、瑛士がひたすら首を傾げる。 見かねた春川が本日何度目かの通訳を買って出たのち、ようやく相手が謙遜している事を知った瑛士が、嫌な奴だな、と日本語で 言ってやると、すかさず拳が飛んできた。 「ニホンゴ、わかるよ。おまえ、クソガキ」 「やっぱ嫌な奴っ!!」 殴られた頭部を手の平で覆いながら少年が捨て台詞を吐いて彼から距離を保つ。 それを見て、可笑しそうにリンが笑った。 気に入らないが、彼は本当に強かった。 いや、強いと言うよりも、生物として優れている、と言った方が正しいだろうか。彼と比べると クレアのあの絶対的な能力ですら生ぬるく感じてしまう。 「ヒトひとりに、ヒト、ひとつたべる。ほんとうにカンペキは、ヒトひとりに、ヒト、ひとつ」 「…………」 「クレア、は、ウデひとつ。ワタシ、カラダ、はんぶん」 男たちを縛り上げている鎖に石の重りを巻き付けながら、たどたどしくリンが繰り返す。その姿を、 まるで化け物でも見るような思いで瑛士は見つめた。 もし目の前の男が、第二世代の体を丸ごと喰らっていたら、一体どんな化け物が生まれていたのだろう。 想像しただけで背筋が寒くなった。 それは、第二世代そのものと、一体どう違うのだろうか。 青ざめていく少年を視界の隅に捉えながら、リンがひっそりと口元に笑みを浮かべた。 随分と正直な少年だ。クレアが気に入っているのも何となく分かる気がする。 ――『人、一人に、人、一人分の肉』 これは、かつてクレアが漏らした言葉だった。 あれはいつだったろうか。どういうわけか日本からやってきたと言う若い彼が、 同世代を狩っている最中、ふと呟いたあの言葉。それが妙に印象に残った。 出会ったときからクレアは、この体に関する奇妙な知識を持っていた。あえて追求こそしなかったが、 彼の言葉の端々に見え隠れするその古い知識に、不信感を募らせることもあった。 ずっと気にしないよう努めてきたが、一年ほど前、あの男が約束を破って香港を訪ねてきたとき、 リンはついに目を背けていた真実に気付かされる。 ――「お前だけが狙われる理由がきっとあるんだな。絶対言うなよ。聞きたくないからな!」 ――「無いよそんなもの。あるわけないだろ」 あの時、嘘の上手い男が、へたくそな嘘をついた。 全く忌々しいと、リンが舌打ちをして重りを縛り付けた体を順に海へと放り投げていく。 ゆっくりと魚の餌にでもなればいい。金庫に詰めないのは、クレアとはまた違う、リンの甘さだった。 じわりじわりと生まれ変わる中で、若い世代の考えが改まる事を願い、一つずつ、放り投げる。 人、一人に、人、一人分の肉。 増えるはずのない、種だった。 少なくとも、そう考えていたはずだった。 目を開けたあの瞬間、三十人の飢えた獣を前にして、始まりの種は、何を思ったのだろうか。 Copyright (C) 2008 kazumi All Rights Reserved. |