ヴァイオレット奇譚2

Chapter14◆「ヴァイオレット奇譚【1】」




 静かな夜、特に言葉もなく、万莉亜は窓の外の月を見上げていた。

 ほんのさっきまでは、涙が止まらなくて、でも今は、妙に落ち着いた気分だった。今なら、 色んな出来事をきっと冷静に思い返す事が出来る。でもあえてそれをせずに、ただ闇夜にぼんやりと浮かぶ白い月を眺めた。
 再会してからずっと、探り探りだったクレアとの関係も、今は穏やかに見つめる事が出来る。まだ歩み出したばかりだけれど。 それでも、彼という人が少しだけ近くに感じられるようになった。単純だと、ハンリエットは笑うだろうか。

「万莉亜?」

 いつの間にかベッドを抜け出し薄手の寝間着で窓辺に立つ彼女を見つけ、クレアが呼びかける。振り返った万莉亜に、 彼は少しだけ躊躇った後腕を伸ばし、背中から抱きしめた。その冷たい体に、万莉亜は顔を埋める。
 たまに襲う悲しみと痛みは、発作のようなもので、それが襲うと大抵はこんな風に眠れなくなってしまう。それでもクレアは 根気強く彼女に付き合った。

「どうしたの」
「今日で日本ともお別れだなぁって思うと、なんか感慨深くて……」
「……」

 ふと見上げれば、何とも複雑そうな顔を浮かべているクレアがいて、万莉亜は胸の上で組まれた彼の手の上に そっと自分の手を重ねた。

「大丈夫です。ちゃんと納得してます。……でも寂しいのは」
 止められない。
 小さく囁いて、目を閉じる。回された腕の力強さが心地よい。この腕を選んだ事を、後悔はしていない。 万莉亜は彼に抱え上げられるがまま、再びベッドに閉じ込められて、まだ慣れない肌の質感や、その体の重みを 受け入れた。
 時折紡がれる愛の言葉が、ゆっくりと傷口に染み渡る。全身で彼女を慈しもうとするクレアの心に触れる。 本音を伝える事を何より苦手とする彼の、その情熱的なキスは、言葉よりもずっと雄弁に複雑な愛を語っていた。



******



 浅いまどろみから目覚めて、寝返りを打つ。戯れのようなキスを繰り返すうちに眠ってしまった万莉亜を見つめていたはずなのに、 いつの間にか一緒になって寝入っていた。

 明日の出発の段取りを知りたいとルイスが言っていたのを思い出す。特に話す事はないように思えたが、 生真面目な従者はいつまでも指示をくれない自分にヤキモキしているだろう。
 そう思ってそっと腕の中で眠る彼女から身を起こし、妙に冴えた頭で部屋を見渡す。違和感は、目覚めた時からあった。クレアは そっと気配を伺い、音を立てないようにベッドを抜け出す。脱ぎ捨てたシャツを拾い、袖を通すと、彼は迷うことなく部屋を後にし、 滞在が延びに延びたホテルを出て、ひらけた玄関前に並ぶ植木の向こうを見やった。

 月夜の下に佇む男性は、その輪郭が白くぼやけ、怪しさここに極まれりだなと、クレアは苦笑する。

「やあ」

 妙に身長の低い男が、暢気な声でそう挨拶する。クレアは肩をすくめただけだったが、彼は特に気にした様子もなく、 嬉しそうにニコニコと微笑んでいた。

「行ってしまうんだね。クレア」
「……日本には、お前がいる。分かるだろ。もう僕たちは、ここにはいられない」
「そうか。行ってしまうのか」

 彼が小さくため息をつくと、そのたびにどこからともなく現れる白い花びらが宙を舞った。ふわりと 漂うそれは、地面に落ちると雪のように消えてしまう。

「クレア。憎しみは、どこへ行ったのだろう」
「……」
「答えを、聞かせて欲しい」

 一瞬眉をひそめた後、相手の言わんとしている事に気付いてクレアが俯いた。
 昔彼に、問われた事があった。あれは、いつだったろう。

 こんなにも苦しみながら、なぜ生き続ける事を選ぶのか。
 憎しみにとらわれたまま、死ぬのは嫌だった。アンジェリアを、許したかった。出来ることなら、 もう一度愛してやりたかった。それを聞いて、セロが悲しそうに笑ったので、自分は酷く間違えているのだと知った。 あの時の答えは、きっとそんなに形を変えずに、今もまだここにある。

「お前が僕を気にかけるのは……僕があの日、ルイスを作った事と同じだろう、セロ」
「……」
「ハンリエットを作り、シリルを作ったあの日の僕と、あなたは同じだ」
「……」
「でも答えは、そんなに簡単に掴めるものじゃない。憎しみはまだこの胸にある」
「この胸に」
「でも死なないよ。万莉亜が泣くから」
「万莉亜が」
「さよなら、セロ。いつかあなたが、答えを見つける事を祈ってる」
「さよなら」

 さよならクレア。永遠にさよなら。

 いつだってお前に、正しい道を説いてやる事が出来た。
 それをしなかったのは、過去を立ち向かわんと足掻くお前の姿があまりに美しく、悲しいほど愚かだったから。 きっとお前は呆れるだろう。でも聞いて欲しい。

 乗り越える様を、見せて欲しかった。
 それは、この心をいくらか慰めてくれるだろうと思っていた。

 消えない怒りと、募る憎しみを、持てあましている私は、お前の背に希望を託した。
 クレア。本当に正しい道など、私にも分からないよ。けれどこの空虚な胸の内は、 いつだって答えを知りたがっている。

 クレア。人生とは、そうまでして生き続けなければならないものなのだろうか。
 その通りだと、言って欲しい。
 憎しみは、その胸にくすぶり続けているのだろうか。
 その通りだと、言って欲しい。

 新しい想いを、その胸に宿し、生きていくと君は言う。

 ずっと、その答えが欲しかった。


 さようならクレア。君の紫の瞳に、思慕は募るだろう。
 臆病で、勇敢で、誰よりも美しい、最後の同胞だった君の、その生き様に私は夢を見た。



PREV     TOP     NEXT


Copyright (C) 2009 kazumi All Rights Reserved.