手のひらに音楽



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 ヒイロは、ふいに立ち止まった。
 彼は何かを確かめるように、一度息を吐いた。
 その息は、春へと気候変化したこのコロニーに何らかの形を残すことはなく、静かに二酸化炭素となって空中に霧散した。今はもはや彼の後方に遠退いた表通りの騒がしさは、冬季からの解放感を滲ませ、人々の笑顔も晴れやかに咲く。
 ヒイロの立つ道の両側には、似たような窓辺が続いていた。その中のどれかから、子供の声がもれていた。
 並立するアパートメントの間には縦長に区切られている空がある。精巧なポログラフィーの青空を、1羽の黒い鳥が横切った。すい、と空中を泳いだその姿に、ヒイロは既視感を覚えた。
 すい、と。黒い影は彼方へ消える。飛行機雲のような跡を残さない鳥の飛行術は、彼には、どこかしら密やかな行為を彷彿とさせた。
 その日暮らしを繰り返しているヒイロの思い人は、年が明けてよろず屋まで始めたらしく、「迎えに出られなくなった。」というデュオにしては珍しい完結なメールが、彼がこのコロニーに向かう1日前に届いた。
 空港からそう遠くはない場所に住居を構えているデュオは、発着場まで出向くつもりで居たのだ。そんなデュオらしい心遣いは、冷艶としたヒイロの面差しに多少の喜色を浮かばせた。
 当たり前の事ながら、彼が到着した空港にデュオの姿はなかった。ヒイロは自身が気落ちしていることに気付くと、何となく辟易した。「恋は人を変える。」とは共通の友人であるトロワ・バートンの言だが、まざまざとそれを見せ付けられた気がしたのだ。
 狭い路地に靴音が鳴る。ヒイロが黒い鳥を見送り、再び歩き出した為だった。
 彼の中には、依然淡泊な灰があった。そこに根を張り、肥料など与えた記憶もないのに蕾を付けた花もあった。
 咲き綻ぶことを主張し始めた感情は、ヒイロの自覚しうる限りで2年近くの間心の中揺れている。それは過去デュオの吹かせる風と戯れたし、デュオの鳴らす雷に幾度となく打たれた。
 それにケリを付ける来訪であるために、ヒイロは少なからずも緊張している。
 歩く度に縮まる身体的な距離は、彼の中に恍惚感と呼んで差し障りないものを生んだ。
 伴って、むずかゆいような感情のベクトルが発せられたが、それらはヒイロの心の底に近い部分がすうっと地に足をつけるような、奇妙な安定感をも連れていた。
 例えば、詩人はそれを恋の美酒と唄い、また身を焦がす激情を知った若者の姿に笑みを零してみせるかもしれなかった。飴蜜のような衝動は肉を満たすであろうし、血を潤すであろうし、破れたとしても、その花弁の美しさを見よと。
 地球のJAP地区に似せたのか、それとも地理的な関係か、その時、細道に洗うような突風が吹かれたのは、きっと全くの偶然である。
 思慮深げな深い色の瞳が、前方を睨み据えた。
 吟遊詩人が憧れた甘い恋の味に酔いしれるほど、ヒイロの先にあるものは柔らかではない。彼が慣れ親しんでしまった精神的恐慌と、ゼロシステム以上に心身を創痍される戦場が、この道の果てで待っている。
 無自覚なデュオの雷撃に曝され続けたヒイロの恋は、もはやガンダニウム合金のごとき強度を誇り、そこから沸き上がるのは相手を撃ち落とす鉛玉である。
 元は愛らしい花弁だったのだろうそれも花開く前に起きた災害で、さながらマンドラゴラにでも変化していた。得体の知れない恐怖の花はジャックナイフの煌めきを湛え、今まさにデュオの喉笛を狙っていたのである。
 しかしながら、こうなったのはヒイロの責任ではない。
 彼は清々しいまでに責任転嫁を済ませ、また事実としてヒイロの責任は無いに等しかったが、デュオを思えばこそ、ここ1年で癖と化した溜息を吐いた。それは恋の悩みとはいささか懸け離れた、諦観の念さえも読みとれるものであったが、彼はただ毅然と進み続ける。
 愛らしい微笑みが、ヒイロの脳裏を横切った。
 脳天をぶち抜いてやろうか。ヒイロが幾度となくそう思ったデュオの笑顔は、いつ何時も、戦いの火蓋を鎌で切り落とす。




 遡ること数ヶ月前、後の歴史書に「マリーメイアの乱」と著される大々的な反乱は終結を迎えた。
 デュオ・マックスウェルが「オレ女になる。」とにっこり笑って宣言したのは、祝賀会も佳境に入り皆が皆ほろ酔い気分になってきたときのことであった。
 ジョークと捉える者が大半だった中、密やかに安堵の溜息を零す人間は、会場内外含めて片手で足りた。しかし何を図り間違ったか、ヒイロ・ユイもまたその息を吐いた者の1人だったのである。
「女になるもなにも、貴様は初めから女だ。」
 デュオは、胸中そう毒づいていたヒイロの腕を引き「今まで協力ありがとさん。」と奇妙なほどさわやかに礼を言った。あの瞬間、ヒイロの利き手がピストルに伸びていたことなど、デュオは一生知る由のないところである。
 少なくとも、過去ヒイロが経験した火花を散らさんばかりに神経を磨り減らされる日々は、あの場でデュオを亡き者にしても確かにおつりが来るだろうほど苦いものだった。
 万物すべての物事に契機というものが存在するならば、ヒイロのデュオに関する契機は事実の露呈としても、また感情の認識としても、バルジでの一連がそれであった。
 当初よりヒイロが抱えていたデュオに対する喉の奥に留まるような不可解さは、独房の青眼にあっさりと解かれた。彼に襲いかかった滲み出るような淡い衝動と、内心表面化した感情の急激さは、燻っていた海辺の流木に電光石火の炎を灯したのだ。
 ヒイロに救われたデュオの痩身は、酷薄な暴力が骨を傷付け、肉を抉っていた。
 彼は治療のためデュオの黒衣をはだき、無抵抗のハイネックとタンクトップを鋏で裂いた。
 翌日、目覚めた彼女の言動は、ヒイロの恋の初風をより一層強い暴風で宇宙の彼方へ吹き飛ばしてみせた。それらに代わって奏でられ始めたのは救いのないヒイロの苦悩であったが、得てして音色を紡ぐオルゴールは葛藤する人物に与えられないものなのである。
 人間の性差というものは、各々の性ホルモンの働きにより発現し始める。10歳頃からそれらは分泌量が増え、二次性徴を促す。
 推定年齢15歳で未だ排卵を行わない豪毅な身体を持つデュオは、その性ホルモンの分泌を薬剤で抑えていた。少女らしい凹凸など知らない真っ平らな肉体は、デュオを男にしない代わりに女にもさせていなかったのだ。
 目覚めたデュオは、ヒイロへの性別露呈を思いの外気にせず、それどころか基本的に恐怖に直結するはずの恥じらいさえも持たなかった。掴まれれば柔らかい肉はデュオにとって隠匿の対象ではあったが、女性の意識を育むものでは決してなかったのだ。
 彼女のヒイロに対する契機もまた、これら一連であったことに変わりはない。
 しかし、デュオは少しばかりの誠実と、芽生えた友愛を殊更強調するだけで、ヒイロの精神的大異変を小指の先程も察知することはなかった。
 デュオが認識したのは変化ないヒイロの無表情であり、デュオ本人への無関心だった。それが外面であることなど、彼女は思いもしなかった。
 冷静な眼と淡々とした治癒の手は、デュオのヒイロへの信頼を生むに留まった。死神を名乗る少女の掌ではいつだってオルゴールが鳴っていたが、デュオがその存在に気付くことはなかったのである。
 蛇足だが、意外なことにデュオはOZ兵達によって性的な暴行を与えられていなかった。ヒイロがその事を知るのは当時より数年先のこととなるが、理由としては簡単である。
 身体チェックにより明示されたデュオの性別に、喜ぶ輩は多数存在した。デュオ自身、それは予想の範囲内のことであったし、やはり色魔にとりつかれた男達の手は彼女の幼児のような胸に触れ、人種特有の白い肌を舐め上げた。デュオにしてみれば理解できないことこの上ないが、男達は性的な興奮を確かに得ているようであった。
 手始めに、勃ち上がったそれを口に含めと強要され、デュオは大人しく従ってみせた。愉悦を口元に乗せる兵士を軽く睨み、だがそれは捕虜の一時の矜持と一笑に付される。しかしその笑みは次の瞬間、泣き声を孕んだ悲鳴へと変わった。
 デュオは銜えた男の物を、食いちぎらんばかりに噛んだのである。
 以来、肉体への暴虐は更なるものとなったが、卑猥な行為に及ぶことは決してなかった。
 閑話休題、そのようなデュオであるからして、掌のオルゴールにこそ気付かないまでもその鳴らし方は絶妙に上手かった。オーケストラもかくやという大音響を奏でることもあれば、小鳥の歌声のように細い音を振るわせることもあったのである。
 時過ぎてピースミリオン搭乗時、ヒイロの精神的困憊は峠を迎えた。彼は登りたくもない山の頂を目指し、そしてついに山頂に行き着いてしまった。
 彼が自らのために行えた打開策といえば極力デュオに近づかない、話しかけない等の疎遠策であったが、デュオは高笑いでもするかのようにヒイロのその努力を気泡に帰した。
 距離を置きたがるヒイロとは反対に、デュオは彼を構った。事実を知られているというのは彼女にとって気楽なことであったし、またヒイロへの信頼感はそれを助長させた。
 つまるところ、デュオはヒイロのことを性別隠蔽のための手段として用いることも少なくなかったのである。彼女の警戒の対象に上げられるのは洞察力に優れたトロワ・バートンが最たるものだったが、共同生活においての危機をデュオは数少ない協力者達の助力によって難なくクリアしていった。
 デュオの性別を知る人物で、ヒイロの他にはハワードが居た。デュオはハワードに懐いていたし、ハワードもまたデュオのことを可愛がった。アロハシャツを着た彼女の旧知は、笑顔でデュオの頼みを聞き届けた。
 身体的なスキンシップと、それ以上にヒイロが困窮したのはシャワールームにおける彼女の我が儘だ。デュオはささやかな事実隠匿の手段として最奥を使用し、その横にヒイロを置いたのである。
 隣から響く水音は、彼に扇情的この上ない上半身を彷彿とさせたし、髪の長さに手間取られるのか時間も掛かった。時折聞こえる鼻歌にヒイロが殺意を覚えたのは、一度や二度のことではない。
 かき鳴らされた音色に悟りを開けそうなほどの苦行を強いられ、ヒイロの天を仰ぐ日々は戦争終結まで永遠続いた。
 それを思えば、確かにデュオの無遠慮極まりない感謝の言葉は、撃ち殺されても文句の言えない物であったかもしれない。




 ヒイロが気配を殺していなかったせいであろうか。
 彼が扉の前に立つと、インターホンが鳴り終わる前にそれは開かれた。彼女の能力を卑下するわけではなかったが、その無警戒さにヒイロは一瞬眉を顰めた。
 裸足がドアを押し開け、デュオの半身が覗く。そして現れた姿に、彼は物の見事に固まった。
「結構早かったな。市場でも見てくりゃよかったのに。」
 デュオは青い瞳を綻ばせると、中に入るようヒイロを促した。茶色の睫毛に象られた碧眼は彼を歓待したが、しかしヒイロは自らもう一度扉を閉めた。
「......ヒイロ? おーい、ヒイロさん? 何? 何で閉めんの??」
 部屋の中からどんどんと乱暴に叩かれる薄い板一枚を挟んで、ヒイロは深い深い溜息を吐く。そう、戦いは始まっている。
「なー、どうしたんだよ? ご近所の人に変な目で見られるだろ? 何かオレがお前のこと締め出してるみたいじゃん。」
 薄いといっても扉によって隔たれている為か、少しばかりくぐもったようなデュオの声が響く。ガチャガチャとうるさかったノブが静かになり、気配がお互いにお互いの不機嫌さを伝えていた。
「服を着ろと何度言わせるつもりなんだお前は。」
「えー? ちゃんと着てんじゃーん。」
 デュオの呑気な答えは更にヒイロの逆鱗を撫で回したが、彼は自身の理性の冷水を燃え上がった感情に容赦なくぶっかけた。マグマの怒気に北極の理性が応対しじゅーじゅーと立ち上った水蒸気を、ヒイロは意識から払い落とす。
 抑えこまれた声色は反対にヒイロの怒りの深さを物語るが、デュオにしてみれば聞き慣れているそれなど、まったく効いた様子がない。
「ともかくさ、開けろって。今更気にするような仲でもないんだし。」
 だが、ヒイロとしてもそのようなデュオの戯れ事に耳を傾ける気など毛頭ない。そもそもショーツに寝間着代わりのワイシャツ一枚では男の前で服を着ていることになどなりはしないのだ。どちらかといえば「喰ってください」と、意気揚々に挑発している事をデュオは分かっていない。
 また、彼女の言う「仲」がまったく色気を含んでいないことも相まって、草臥れ肌を透かした薄い布地と、見ろとでも言わんばかりにさらけ出された両脚に、ヒイロはひっそりと戦意を喪失しかけた。
「とにかく、ジーンズでも何でもいいから着ろ。」
 ヒイロの心情的には「頼むから着てくれ。」という方が正しかったが、長年の口調は彼の困窮を見事に覆い隠し、デュオに彼の羞恥を悟らせることはない。
 また悲しいかな、ヒイロはこの数ヶ月、先のようなデュオの姿を見慣れていた。
 彼女の生活スタイルはある意味で分かり易く、仕事場での顔と自宅での顔はその服装にも現れる。デュオにしてみれば、自らの住まいでぐらいのんびりさせろ。ということなのだ。
 つまるところ、L1とL2の時間軸の差から、デュオのリラックスタイムに回線を鳴らすことの多いヒイロは、その度に彼女のあられもない姿を見ていることになる。
 いい加減怒鳴りつけるのにも飽き飽きしてきたヒイロは、地道に彼女の意識改革を待つことにした。根本的に馬耳東風とした性格を持つデュオは、結局のところヒイロと同じように他人の言うことなんざ聞いていないのだ。
 諦めたように何事か呟きながら、デュオはソファーに掛けたままのジーンズを履いた。
 玄関の向こうに鎮座するヒイロの機嫌は変わりなく、デュオは眉間にしわを寄せる彼を思い出し、「以外とうるさいなあいつは。」と女としてもヒイロの心情としても些か見当違いな感想を抱いた。
 着古されたジーンズは、部屋着の中でもデュオが愛用する物だ。
 寝間着にしろシャツにしろ、少し草臥れていた方が気安いというデュオの品評は、彼女の戦友達に同意を得ることが出来た試しがない。
「おーい、ヒイロ? 着たからさ、玄関開けろよ。久々なんだし、いつまでも外になんて居ないでさ。」
 デュオのその招きに、ようやっとヒイロはドアノブを握った。
 ビジフォン越しでならともかく、マリーメイアのイブ以来の再会であることに変わりはない2人だ。プリベンターの誘いを尽く断りジャンク屋兼何でも屋を営んでいる彼女は、喜ばしい多忙に悲鳴を上げる毎日であり、またヒイロもL1に学生として在籍して毎週授業に追われている。
 時折受ける火消しの依頼は少なからずヒイロの時間を圧迫しており、自由に動ける時間は限りある。土日と祭日の重なったヒイロの3連休に、同じくデュオも自宅休暇が取れるなど珍しいことで、それを思えば、ヒイロとしてもデュオの髪や瞳が恋しいのだ。
 それが一方通行である、という事実は、何とも淋しげにヒイロの背中に北風を吹かせるのだが。
「あ、ちょい待ち。ブラ付けてなかった。」
 捻ったノブに込められていたヒイロの力が抜ける。
 「付けた方が良いんだろー?」という室内からの言葉に、「当たり前だバカ女!」とヒイロが口中怒鳴り返したのは言うまでない。
NEXT.

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