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「コーヒーしかないけど構わないよな? 腹減ってる? てか泊まるのか? にしてもお前美人になったなぁー。」
 脈絡というものを持たないデュオのおしゃべりは、多分この先何年経っても変わらないだろう。
 玄関をくぐり、ヒイロは午後の光が差し込むリビングに通された。
 2DKの住居は西向きに作られていて、朝は寒い作りになっている。そのくせ、デュオは四季通して自宅での服装に大差なく、彼女の主張としては長袖長ズボンは寝にくいということだったが、元工作員の体力を変なところで活用していた。
 生活臭とでも言うのか、ヒイロはデュオの気配が至る所に浮遊している室内に一瞬当惑した。彼女の性格から彼が予想していたような惨状はなく、そしてまた、デュオは家の中にお金を掛けるタイプだったのだ。
 二人掛けのソファと、食卓代わりの足の短いテーブル。どちらも少女らしいとはお世辞にも言えないインテリアだが、デュオらしいといえばらしい室内だ。
「Lucy? ルーシー? どこ行った?」
 狭いキッチンで、デュオは飼い猫の名を呼んだ。
 以前、ヒイロはビジフォンを通しデュオの黒い猫を見たことがある。その時、自慢げに笑う主の膝で、ルーシーは不機嫌そうに彼を睨んだものだ。
「ルーシーの奴、どこ行っちまったんだろ。生の愛らしさ見せたかったんだけどな。」
 湯気を上らせるマグカップを持ち、デュオはヒイロにソファに腰を下ろすよう言う。デュオはどうするのかとヒイロが見ていると、彼女は極々自然にフローリングに座り込んだ。
 時計の針は16時まであと少し届かず、デュオは机の上に出っぱなしになっていたチョコレートを一つ口に含んだ。
 少しばかり伸びたデュオの三つ編みは、毛先が光を受けて蜂蜜色に輝いている。いまだ猫を探している双眸は常の群青よりもいくらか薄く、紫の色が濃い。
 実の年齢よりもデュオを幼く見せる頬のラインが顎を作り、玄関を凝らすように見た仕草のせいで小作りの顔が前髪に少し隠れた。多少未練がましく小さく猫の名を呼び、彼女はもう一欠片チョコを口内に放り込む。
 デュオよりも高い場所からその様子を見遣っていたヒイロは、手に持っていたコーヒーを些か低い位置にあるローテーブルに置いた。
「でもヒイロさ、お前この4ヶ月と少しでまた育ってんじゃねぇ? 身長とか、いろいろ。」
「薬品摂取を止めて1年だ。ある程度は成長するだろう。」
「そんなもんかねぇ、オレタッパもう少し欲しい。筋肉だってもっとあった方が楽だし。この1年で脂肪滅茶苦茶増えてさぁ、五飛がいうとこの修行が足りてないのかね?」
 性ホルモンの抑制を止めたのだからそれは自然の摂理なのだが、デュオは酷く解せないという顔をした。
 脂肪が増えたというデュオの言い様はさておき、つまりは出るところが出てきたというだけのことだ。二次性徴を促す性ホルモンを長い期間押しとどめてきたのだから、そもそもデュオはまともに成長するかも分からない状態だった。
 身体的な不都合が出なかったのは幸いであって、むしろ修行なんぞで再び成長を止められたものなら、プリベンターの専属女医が心労で倒れかねない。
 また彼女の身体は外的特徴こそ現れ始めたものの未だ初経を迎えておらず、戦後1年、胸はふくよかに膨らみ、腰回りも骨の形を覆い隠すぐらいには丸みを帯びたが、デュオ本人の女としての自覚など、夢のまた夢というのが現状だった。
「サリィがぼやいていた。お前が健診に来ないと。」
「ヒイロ行ってんの? 真面目だなぁ、お前は。」
「うるさかったから行った。」
「サリィにはお世話になってるからなー。でもさー忙しかったんだよ。仕方ないだろ? 本部にいちいち行くのも面倒だし。」
 苦笑して見せたデュオを少し睨み、ヒイロは訪問の理由をどのように切り出すか思案した。デュオは目前の男の心中などまったく解さずに、常と同じく非難の視線をさらりと受け流す。
 彼女は、目の前の男が何らかの任務中で、その間の借宿なのだろうと見当を付けてしまっていた。納得の出来る解答に、もはやデュオは理由への興味を抱かずにいる。気遣いとは言えない彼女のずぼらさを、ヒイロは目を細め推察した。
 デュオはヒイロを好いている。ヒイロはそれを事実として認識している。
 デュオの好意は、ヒイロが彼女に対して抱いてる感情ほど欲を含む物ではなかったが、てらいもなかった。戦中も戦後も、ヒイロは彼女の特別だった。
 そしてその特別を疑念視するのは、ヒイロの性格に起因しない。
 デュオは黙り込んだ男を見上げ、そしてやはり、彼の黙する理由に意識を配らなかった。
「仕事でも入ったのか?」
 珍しいヒイロからの言葉に、デュオはその意味を拾い上げる。ヒイロの合いも変わらない仏頂面に微笑んで、そんなことを気にするようになった男に、彼女の中にはしみじみとした感慨が浮かんだ。
「もう終わるぜ? カトルから直々に頼まれちゃ、断れないだろ。流石に。」
 デュオは先程電源を落とされたばかりのパソコンを指した。
 重ねるが、デュオはプリベンターに所属していない。そんな彼女ではあるが、カトルのお強請りには良く応えていた。
 戦時中、好意と好意のベクトルが最も重なり合っていたのがカトルとデュオであり、純粋な交友という意味で、一番良好だったのもこの2人だ。
 カトルにそれ以上の含意があったのか否か、それは未だに分からない。
 少なくとも過ぎた友情である感は拭えなかったのだが、デュオのカミングアウト以来、件の御曹司は友愛と恋愛の違いが更におぼつかなくなっている。
 しかも、「何処の馬の骨ともしれない男がゴミの如くうろつく宇宙を飛び回せるなど言語道断」という前時代的な、しかしながら普遍的な父性本能を刺激されているらしいカトルは、プリベンターを敬遠する彼女に私事として何かと気を回していた。
 デュオがそれに気付いているのか否か、これもまた分からない。だが彼女には戦時中好意の上で胡座をかいていた負い目がある。デュオはカトルの我が儘に強く出ることが叶わない。
 ヒイロを慎重にさせるのは、デュオのあっけらかんとした特別が彼だけに向けられているわけではないと、このように公言されているからだ。
 デュオのヒイロへの無防備は、カトルへの甘受と同質だ。
 彼女の仕草は、ヒイロの目にそう映った。随分と気弱な洞察であったが、彼はそれが間違っているとは思わなかった。にこにこと笑むデュオの特別は数少ないが、それの方向性は彼にさえまったく読めない。
 加えて、まかり間違いヒイロが下手な手を打てば、デュオはさっさと逃げ出した。
 考えるよりも先に自己防衛本能が働く彼女は、ヒイロのデュオに向く不埒を察知した途端、瞬時に行方をくらますだろう。
 例えば、掌に乗っているオルゴールを彼女が発見したとして、デュオは持ち前の好奇心ゆえに工具でそれを弄り回す。そして、予期せぬ正体に気付いたら最後、小箱を放り投げて知らぬ存ぜぬを突き通す。
 彼女の無関心とも取れる無防備は、アンコンシャスリーな高慢だ。彼女は何事が起こっても、ヒイロから、果ては世界のすべてから上手に隠れることが出来ると思っている。彼女は「嘘は吐かない」とひとひらの誠実を置き手紙に、尾のような三つ編みを翻す。
 それはデュオの酷く無意識的な、しかしながら、だからこそ一番底辺にある彼女の在り方なのだ。ヒイロにとって腹立たしいことこの上ないが、事実として、彼女はまんまと逃げ果せるだろう。
 ヒイロが二年近くの間、デュオの身勝手なVery Likeに甘んじ待ったのはこのためだった。
 告白をして逃亡を図られては堪ったものではない。しかもデュオは十中八九彼の言葉を吟味せず、ただただ逃げるに違いないのだ。本能のさせる行為とは言え、ヒイロとしては頭が痛い。
「そんでさ、表通り挟んだとこにちょっとした工場があるんだけど、そこのエドが良い奴でさー。この頃よく飲みに行くんだ、弟のアルは酒ダメみたいだけど、エドの恋人のウィンリィがけっこーいける口なんだよ。」
 デュオは先程から楽しげに、他愛ない日常を話している。ヒイロは無表情に、コーヒーを口に含む。
 彼女の性癖を理解してから、ヒイロは黙々と投網作りに従事した。宇宙という広大な夜の海を、貴様は鰹かというスピードで止まらず泳ぎ続ける思い人に、力の限り投げ付ける投網だ。潮が満ちるのを待つように、そしてまた来遊路を値踏みするように、漁船で眈々と退路を塞ぐ日々。
 そして、ヒイロが待った甲斐はあった。
 好きな宇宙を飛び回り、気の良い仕事仲間と酒を飲み、衣食住にも困らないとなれば、彼女にとって手放しがたい魅力が今この場には充ち満ちている。ヒイロが、デュオにしてみれば唐突に愛の告白をもたらしたところで、それらは安易に捨てられるものではない。
 どちらかといえば、彼女は今の生活を守るために何らかの答えをヒイロに叩き返すに違いなのだ。それもまた、デュオの気質の1つである。
 ヒイロにしてみればまずそれが第一段階なのであって、デュオの返答如何によって彼の後の行動も決まる。
 掴みきれない彼女の真意を、彼は釣り上げてから捌くことにした。また彼の作った投網の中でなら、デュオが逃走しても足はつく。
 デュオは確かに能力が高い人物だった。だが反対に、これ以上なく詰めが甘かった。
「オレが女だってばらしたときの反応、面白かったぜー。エッジなんて開いた口がふさがらないって感じでさ。ま、そりゃカトル達もいい加減愉快なリアクションだったけどな。」
「当たり前だ。」
「だってヒイロはそこまで驚いてなかったじゃん。「何だ、結構ばれても平気?」とか思ったけど、やっぱお前が異常だったんだなー。あのトロワもびっくりしてたし、まぁそこらへんはヒイロさんのおかげだけど?」
 デュオは軽く首を傾げた。彼女が見上げた先、ヒイロは眉間にしわを寄せる。その不機嫌さだけは昔から隠さない表情に、デュオは満悦した。
「そう思うなら、露出癖を何とかしろ。」
 ヒイロは、比較的誠実な下心をもって忠告した。傲慢なデュオは、ヒイロの理性が命綱であることをまったく理解していない。
「何言ってんだ、ヒイロ以外にあんなカッコで回線開くかよ。お前オレが女だってこと忘れてねぇ?」
 最も忘れているだろう人物に変な顔をされ、ヒイロは何度目かも分からない溜息を吐いた。どの口がそんな台詞を吐くのか彼は敢えて見たくもなかったが、沈黙を返答とする。
 デュオの特別扱いが、彼女の意図せぬ恋なのか、それとも遺伝子に組み込まれた甘さなのか、まったくヒイロには判断つかない。
 デュオは溜息を吐いたヒイロを、軽く睨め付けた。その身体中の呆れを表すかのような嘆息が、彼女にしてみれば何とも好かないのだ。
「一番忘れているのはお前だろう。」
「失礼な。確かに凹凸なんざ無かったけど、何しても無反応だったお前にだけは言われたかねーな。」
「好いた女に懐かれて、欲情しない男が居るとでも思っているのかお前は。」
 既製の光は、夕刻の色を濃くし始めていた。
 カップの底で、ほんの少しばかりの飲み残しが冷えており、空になったチョコレートの箱がローテーブルの上にいまだ置かれている。
 いくらでも取りようのある男の返答に、デュオの瞳が一瞬表情を堅くした。
 デュオの窺うような視線に、ヒイロは同じく視線を返す。
 茜色をした時間が迫った。デュオの部屋に、柔らかいオレンジと黒が入り込む。
 まるであつらえたような情景だ。ヒイロは夕刻の部屋で見つめ合う、男と女を考えそう思った。
 結局、デュオが一度としてその音楽を聴かなかったオルゴールは、ヒイロの手によって閉じられた。彼女は小箱を奏でる術を熟知していても、存在を認知していなかったのだ。ほんの一瞬の接近だったとしても、閉じられた蓋は開かない。
 デュオは、投げられた網に戸惑った。そして、彼女は今更、ヒイロをソファーに座らせたことを悔いた。上から観察されている今の状況は、デュオを酷く焦らせていた。
 スピードを増して過ぎ行く光と共に、デュオの内心の混乱も拍車が掛かっていく。ヒイロは彼女の言葉を待った。
 既製の光は、夕刻の恋を濃くし始めていた。
NEXT.

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