Page.3 デュオは、初春の夕陽に照らされているヒイロの髪を見た。そして瞳を見た。 そこには彼女にとって、常と同じ、冷静で頑強な意思しか見つけられないように思えた。そこから這い上がった一抹の疑心は、デュオを当たり前に警戒させた。 ヒイロはデュオの、剣呑さを表し始めた表情を見遣ると、思いの外安易に視線を外し、チョコレートの空箱をダストボックスに放った。 デュオはひとまず唇に笑みを乗せ、彼女自身の馬鹿らしい妄想にいつもの通り納得のいく説明を付加した。しかしながら、今回のこれには男の方のいらえが必要だった。 「何のジョークだ? それとも、誰かからラブ・メッセージでも頼まれたのかよ。」 「いつから、俺はそんな親切な人間になったんだ。」 ヒイロは、予想範囲内の彼女の逃げ口上に笑みを持って返した。再び落ちた夜の市場のような沈黙に、デュオは焦るなと、一言自分に言い捨てた。ヒイロは、彼女に対して徹底的な言葉を囁こうとしていた。 デュオは胡座を崩し、立ち上がった。冷めたコーヒーを取り上げキッチンに向かう。 彼女がソファーの横を通り過ぎる際、ヒイロはデュオの自由な左手首を取ろうとした。しかし、察知し始めたデュオは、当然ながらそれを許さなかった。 「冗談でも伝言でもないなら、気を付けた方が良いぜ。色んな意味で勘違いされるセリフだ。」 急激に振られた身体に、デュオの持っていたカップの中コーヒーが跳ねる。座っている男から距離を取り、彼女はヒイロの伸びた腕をそこにある含みごと流そうと試みた。苦し紛れの軽口など徒労であることにデュオは勘付いていたが、ヒイロと色恋の緊張感を味わうなど、どうにも彼女は信じられなかったのだ。 焦心を隠すように彩り始めた好戦の眼差しは、ヒイロが抱え続ける思惑にも火を付ける。 彼女特有の居丈高に細められる瞳が虚勢であったとしても、そういったもの自体が、趣味の悪いことに彼の征服欲を煽るのだ。 ヒイロは、彼女が見積もった間合いを検分した。そして、デュオが迂闊にも彼の身体的成長をすっかり見落としていることに気付いた。 じゃれ合いのような先の捕縛に、デュオは過去の距離感を適応させてしまっている。彼は、ソファー脇の中途半端な位置に立つデュオを見つめた。 「苦しいぞデュオ。お前の無駄口も、唐突な告白に品切れしたか?」 ヒイロの右腕が再度彼女に伸びた。デュオは顔を顰め、焦燥の根元から逃げようとした。 「育ったからな。身長や、色々。」 真似られた言葉遣いは、カップの転がる音と共にデュオを捕まえた。 陶器の破壊音さえもない、夕刻に相応しい静かな囚縛の一幕だった。デュオのもつれた足音と、驚きが招いた喉の伸縮だけが、起こった事態を物語る。 5秒にも満たない荒事は、ヒイロに軍配が上がった。 デュオは自身の失態を罵り、ヒイロに奪われた両腕を取り返そうと藻掻いている。経緯としては安直であったため、彼女は己が犯した安全圏の読み間違えを心底恨んだ。 始め、囚われたデュオの左手は彼女が反撃するいとまもなくソファーへと引かれた。そのとき腕置きの縁に正面から腰骨をぶつけ、彼女は痛みよりも、苛立たしさから眉を顰めた。また今度こそシャツに掛かった少量のコーヒーが、デュオの火に油を注いだ。 カップから離れた右手を、これ幸いとヒイロは左手と一括りにし、そしてそのまま片手で掴み上げた。腕力に覚えがあるからこその力業であって、それを軽々としてのけるヒイロに、デュオはいつも嫉妬する。力比べになり、今も昔も、デュオがヒイロに叶うはずがなかった。 「くそっ、放せ!」 上半身をソファーに乗り上げている姿勢から、デュオは捕縛者を足蹴にする事が出来ずにいる。香りの逃げたコーヒーの染みは拡がるばかりで、彼女の右肩に近い鎖骨を汚していた。 ヒイロは彼自身が行った乱暴を気にした様子もなく、怒れるコバルトブルーを覗き込んだ。 「放せば逃げるだろう。」 「当たり前だ、この馬鹿力!! なんなんだよさっきから! お前任務か何かで来たんじゃないのか?!」 「違うな。」 目の前で吐かれる暴言に、彼は酷く無体な返事をした。デュオはいよいよ迫る窮屈な包囲網に慌てる。懸命に力の込められるデュオの腕を片手で諫めながら、ヒイロは背けられた彼女の顎を取った。随分と近しい位置にある2人の顔は、彼を喜ばせる。 美しいヒイロの凪いだ瞳に、デュオはやはり、これは彼独自のジョークの1つではないかと思った。しかし、ヒイロの束縛は決してそんなものではないと、デュオはちゃんと解してもいた。 反対に、見つめ合った途端、急に大人しくなった彼女の身体をヒイロは訝った。しかし怒気ばかりが膨れ飽和していたような女の眼が、困惑と諦観の色を濃くする。頃合いだろうかと、ヒイロは感じた。 彼等は、お互いに息を吸い、吐く、密やかな命の営みを聞いた。 「愛している。」 ヒイロの薄い唇が開かれ、そして、デュオにとって居心地が良いのか悪いのかよく分からないセリフがもたらされた。 デュオは思わず、下方に視線を遣った。再び上向かされるかと危惧したが、ヒイロは彷徨う視線を許した。それでも、彼女の耳朶を擽ったあまりにも感慨のない「愛」という単語は、やはりヒイロの心だった。 「愛している、誰よりも。多分、出会った頃から。」 ヒイロは、デュオの頭突きを警戒しながらも伏せられた彼女の前髪に口付けた。容易になされたそれに、ヒイロはほっとした。 騒ぐでもなく、罵倒するでもなく、デュオは彼女らしくもない沈黙ばかりを守った。夕暮れも佳境が過ぎ、あとは薄闇に任せるばかりの空気が流れていった。 「とりあえず、腕放せヒイロ。」 さして長くもない静謐の後なされた要求に、ヒイロは従った。 デュオは膝をつくと、腰骨をぶつけた縁に額を預ける。ヒイロからは頭部しか見えない姿勢で、彼女はまた口を噤んだ。デュオの毛先がフローリングの上で、力無い蛇のようなポーズを取った。 張り詰めていた空気が、2人の互いにピントのずれた困惑へと変化する。過敏にそれを感じ取ったデュオが、口を動かすことで精神安定を図ることにしたのは、ヒイロが彼女に声を掛けるよりも数瞬早かった。 「......あーもう、なんなんだよ。なんなんだよお前は。突然訳わかんないこと言い出すなよ。ぶつけた足の小指痛いしさ、コーヒー気持ち悪いし、変なふうに腕引っ張るなよ。」 布地に吸い込まれる大半の音は、それでもヒイロの耳に届いた。疲れ切ったような情けない声色だったが、彼は心なしかほっとした。 だらりと彼女の脇に下がったデュオの両腕は脱力したままだ。困っているのか、怒っているのか、折半しているような揺れる弁舌に対して、ヒイロは反応の仕方を知らなかった。 「何で今更愛の告白なんだよ、こっちが混乱するだろうが。畜生、カトルに頼まれたプログラムが頭ん中回り始めやがった。もしかしなくてもオレあのプログラム見るたんびにこのこと思い出すのか? そうなんだな? 勘弁してくれホント。」 告白した側にとっては手酷いことを、デュオは喋り続ける。はにかみではない純粋な混乱が、彼女をそうさせている。 可愛い返事など決して期待していなかったヒイロだが、あまりにもあんまりなデュオの答えに、何故自分がこんな女に惚れたのかよく分からなくなった。かれこれ2年近くの間勘弁して貰いたかったのはヒイロの方なのだ。 「シャワー浴びてくる。」 のろのろと立ち上がった彼女の捨て台詞にヒイロは開きかけた唇を閉ざし、唯々諾々と頷いてやった。所詮は惚れた弱みだった。彼は、デュオが扉を閉ざすと密かに息を吐いた。 ヒイロはソファに座り直すと、途端に手持ち無沙汰になった。彼は文庫本でも持ってくるべきだったと後悔し、テレビの上に置かれている新聞を手に取る。しかしそこに書かれている記事はヒイロが飛行中目を通したものと大差なく、数分も経たぬ内に元の位置に戻された。 黄昏の時間もすでに夜へ近づきつつあったが、窓の外は未だ喧騒を残している。彼はデュオへの沸々と湧いて出る怒りを必死に抑え込もうとし、気を紛らわす道具が見つからずに困った。 デュオのリアクションは、ヒイロを少なからずも傷付けていた。また落ち込ませてもいた。ヒイロ自身がそういった機微を理解しているかどうか怪しいが、落胆という形でそれが現れていることは確かだ。 彼はおもむろに立ち上がるとキッチンに向かい、小型の冷蔵庫を開いた。そこには氷とビールの6缶パックが置かれているだけで、他は何もない。彼は、デュオの食生活が本人の言うほど健康的なものではないと判断した。ヒイロは猫の餌皿を避け、流し場下の戸棚を暴く。そして、そこに置かれているウイスキーを拝借した。 数十分も過ぎ、一方のユニット・バスでは湿気と気重な雰囲気が夜の薄雲のように高度を保っていた。洗面台の上には無造作にワイシャツが投げられており、そこから染み抜きの意思は窺うことができない。先程まで鳴っていた水音は、今は吸水口に吸い込まれていくくぐもったものに変わっていた。 「ヒイロがねぇ。」 女がその細身の脚でマットを蹴った。デュオは湯上がりの火照った身体を拭った。 もれた彼女のセリフはどこかしら品定めするときのそれに似ていたが、口の悪さがそういった音を踏むだけで、デュオが彼を軽視しているわけではない。ただ、先の攻防は彼女にしてみれば、これ以上なく突飛な出来事だったのだ。 濡れ髪もそのままに、デュオはバスタオルを胴に巻き付ける。常ならば、鏡に映る自身のその扇情的な所作に、「イイ女。」と冗談の感想をもらすところだが、今回、デュオはそういった生活臭を楽しむ余裕がないようだった。 使われなかったバスタブに腰掛け、デュオは溜息を吐く。ヒイロが執行猶予として与えたバス・タイムを引き延ばしすぎたために、彼女は湯に当てられた身体を億劫げに扱った。 「何で今更。」 デュオは俯いた。彼女の中で、ヒイロとの関係は完結していたからだ。それは非常に心地よいスタンスであったし、ヒイロにとっても適当な温度なのだとデュオは思っていた。 逃げてしまおうと、デュオはシャワーを浴びている最中幾度となく決心した。彼女個人にだけ降りかかる面倒ならば、デュオは無視しほっぽり出す癖がついてしまっていた。 しかし、彼女はヒイロから逃げおおせる自信ももはや持てなかった。以前ならばともかく、あの男がアクションを起こしてきたということは手遅れということなのだと、デュオは不承不承ながら理解した。突然彼女の生活に踏みいったヒイロを心中罵り、デュオはその行為の空しさに気付いていた。 水の重みに、長髪がデュオの肩口を滑る。彼女はドライヤーを当てようとしたが止めてしまった。 一晩ぐらいとんずらこけないかと、諦め悪くデュオは企て、そして何処に逃げ込んだとしても迎えに来るだろう男を想像して辟易する。デュオにとっての最終兵器カトルに強請ろうとも、端末はリビングだった。 「何で今更。」 縮められた間合いを取り戻すのは困難と判断し、それでも彼女は悪態を吐く。戦闘よりも疲れると、不謹慎にもデュオは感じた。その疲労感をヒイロがどれ程の間味わってきたか、彼女は未だ連想を働かせられない。 返答を考えあぐね、デュオには余裕がなかった。しかし、それがヒイロに分かり易い態度で現れるのは彼女としても癪だった。バス・ルームの窮屈な空間に、デュオの溜息がいくつも転がり落ちていった。 デュオは前髪を掻き上げ、やおら腰を上げた。負けん気の強さが彼女の行動を促し、そして半ば自棄を起こしている感もあったが、デュオは扉を後にするとそう長くもない廊下を進み、リビングへ出る。そしてヒイロに対する配慮に欠けた彼女の習慣は、見事彼の怒髪天を突いた。 「お前な、人の酒を勝手に開けてんじゃねーよ。」 デュオは、彼女の疲弊の元凶であるヒイロが呑気にウイスキーを傾けていることに怒った。ソファーまで大股で歩き、彼が持つグラスを奪い取る。未だ雫を落とす茶色がヒイロの右手とスラックスを濡らしても、デュオは気にしなかった。 細腰に手を当て、彼女は先程まで男が飲んでいたウイスキーを呷る。氷に冷やされた酒をデュオが飲み終えると、気持ちよさげにされた深呼吸がバスタオルに覆われただけの彼女の胸元を上下させた。 そのとき、ヒイロは彼自身の脳内で何かが切れる音を聞いた。それはつまり、堪忍袋だとか理性だとか、そういった類の防塞装置だ。彼は、度を超したデュオの妄挙にアルコールによって収束しかけた憤怒が爆発したのが分かった。 「おい、どした?」 デュオは、ヒイロが物音1つ立てず臨界点を突破したことに、気付かなかった。 |
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