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You have probably slid down the rainbow, because you made misunderstanding. It is good there were people who didn't notice your wing. I met you. And I noticed it. |
春に支給された制服が、やっと彼女の身体に馴染んできたような、そんな時分だった。 日本列島の南の端から段々と梅雨前線が這い上がり、関西の雨音が他人事でなくなったのは、先週の終わりのことである。梅雨入り直後の関東地方は、見事に傘と曇りのマークで埋め尽くされ、昼夜とも変わらず降水確率四十パーセント以上を記録していた。時折の晴れ間を除けば、週間予報も一日分も、天気図は停滞の様相を見せる。この時期、早朝にどのような晴天が広がろうと、人々の抱える小さな不安は、折り畳み傘という形で顕現化するものだ。とかく紫陽花の花の色よい季節が、曇天の下に訪れていた。 混雑の激しい朝のプラットホームは、構内放送すらもその慌ただしさが滲み出る。加えて、雨の影響は少なくなく、電車に数分の遅れが出ることも毎年のことだった。望美は中学からの電車通学でそのことを心得ていたし、だからこそ、梅雨の期間は僅かに出発時間を繰り上げている。 彼女の住むワンルームマンションから最寄り駅までの雨水を、その身一つに受けた傘は、先端からとめどなく雫を垂らす。彼女は、それを何度かホームに軽く打ちつけたが、その程度では幾ばくの変化も期待できなかった。白地に細かなドットの入った傘を、くるくると回し止め具でまとめる。そして、望美は案内板を見上げた。彼女の常に利用する電車よりも、一本早い時刻が、二番線を示す数字の次に表示されている。車両がホームに滑り込むまであと数分といったところで、望美は髪に指を通し、僅かに乱れた長髪を梳いた。 望美の実質的な社会人としての一歩は、四月に踏み出されたばかりだった。彼女は高校の終わりに理学療法士を志し、四年間という短くはない修業課程を看護学部で過ごした。看護学部全体の生徒数から見れば、外部と内部の差はあろうとも、院に進む人間が他大学よりもずっと多い傾向にある。もしくは製薬会社などの一般企業に就職先を決めるものも多数を占め、彼女のような専門資格取得者は、資格試験を通過しても就職先が決まらないというケースが毎年数人にあてはまった。望美当人が同大学の大学病院へと無事就職したのは、もう桜も盛りを過ぎてしまった頃である。 資格試験自体が四月初旬に行われるせいもあって、望美も含めた新人は皆一様に証明書の発行を待つ期間、歴の長い専門医や理学、作業療法士の補佐につく。証書は六月も半ばを過ぎて合格者達の手に渡るが、彼女の勤める大学病院では、それに加えて三ヶ月から半年の間、補佐という名の研修を続けることが義務付けられていた。 望美はリハビリテーション科で、熟練の理学療法士に師事している。彼女がつき従っている人物は達識で、加えて非常に寡黙な人間だ。ちなみに、望美はその男のことを、敬意を込めて「先生」と呼んでいる。 大学へは鎌倉の親元から通学していたが、就職を機に望美は部屋を借りた。それが、現在の彼女の自宅である。リハビリテーション科へ勤務するにあたり、二時間弱の移動時間が重くなったためだった。望美の年下の幼馴染は、一人暮らしという話題を聞いてから、しきりに衣食住の内「食」を強く懸念したものだった。望美にも自覚はあったが、彼女はキッチンに住む何かに嫌われているのだ。 引越しに使われたダンボールの最後の一つが、ゴミ収集車によって運ばれていったのと同じ頃、望美は毎朝の苦難であった髪を結い上げるという作業に手間を取られなくなった。初めこそ自宅のドレッサー前で四苦八苦していた望美だったが、今は毎朝スタッフルームで櫛を片手に編み込みをし、まとめられるようになっている。多分、それらの示すものが、彼女にとっての二ヶ月という長さだった。 予定の時刻から二分遅れて、電車がホームへと到着する。降車する人々の波が自動扉の個数分だけ生まれ、駅構内の階段前から一つの潮流になっていた。その流れに押されてしまわないよう乗客は岩のように密集し、そして発車を知らせるベルと共に乗り込んでいく。望美もそれに倣い、肩に掛けていた鞄を左手に持ち替えた。 望美は乗り込んですぐ奥へ進むと、車両の中ごろで吊革を握った。望美の目の前の座席には、小さく折畳んだ新聞を読むサラリーマンの男が座っている。急行電車の利用率は高く、座席の前の二列の間に、押し込まれた乗客のしわ寄せだろう数人が入り込んだ。若干歪な三列が出来上がると、車体は段々と負荷を掛けながら前進する。望美は左手の鞄を抱え、小さく息を吐いた。上部から扇風機の風が送られているが、雨の日の湿気はまったく取り払われない。人口密度に対して、文明の利器はただ無力だった。 車窓の向こう側は変わらない雨模様で、ガラスにまるで細い傷のような雫の軌跡ができていく。朝だというのに薄暗い風景は、暑苦しくはないが涼を感じさせるものでもなく、寧ろ閉塞的な状況に暗鬱さを加える。目覚めた瞬間の雨音は優しい恵みに感じられても、息苦しい車内では、望美を憂うつにさせるものでしかなかった。 彼女にとって、この車線での水無月は五度目である。しかし、望美は大学の時分、三十分ほど揺られた先の大きな連絡駅から下り電車を利用していたから、朝のラッシュにそれほど悩まされることはなかった。朝のこれさえなければと、望美はいつも思う。ほんの十二、三分ばかりの乗車時間だったが、やはり苦しいものは苦しかったし、乗り場所の感覚を掴めていなかった当初、彼女は人と手すりに挟まれて痛い目にあった。 他人の濡れた傘がふくらはぎに当たり、望美はその感触から逃れようと小さく身じろいだ。同じタイミングで、丁度カーブに差し掛かった車体は、伴った重力で彼女の細い身体を後方へ押した。吊革を握っていた右腕に力を込め、彼女はその力に耐えようと試みた。望美の臀部に何かが触れたのは、そのときだった。 「すみません」 後ろの様子が窺えず、望美は小さな声で謝罪をした。彼女の真後ろに押しやられた女性のハンドバックを、背で潰したのだと判断したからだった。 車内の上方から「この先、カーブが続きます」という機械的なアナウンスが流れる。なだらかな曲線を描く線路に沿って、ゆっくりと電車は運行している。しかし、ハンドルが切られるたびに加わる負荷に関して、残念ながら車掌の心遣いはまったく比例されなかった。結局、何人かの耐え切れなくなった乗客の体重を受けて、望美は前のめりになった。すると、彼女が体勢を崩す瞬間を見計らっていたかのように、再び、左腰の下部に意図的な密着がある。 生理的な理由で、彼女の身体は爪の先まで緊張感に支配された。予感めいたものが望美の脳裏を通り過ぎる。それと同時に、理性は「まさか」と言って、それを否定しようとする。確信のなさが、彼女の選択肢を狭めた。例えばそれは、鞄の角が当たっているだけなのかもしれなかったし、もしくは傘の柄のつまらない接触かもしれなかった。だからといって、一度抱いた嫌悪感は、彼女の身体と感情からなかなか離れることもなく、望美は酷く困惑した。 望美の心中など知らぬ車体は、またゆっくりと斜めに傾いだ。そのスピードに合わせ、接触は腰のさらに下へと進む。薄手のジャケットの上からだったそれは、彼女の膝丈のスカートへと、まるで蛇のように移動した。嫌らしい触感は、生地の薄いスカート越しにねっとりと望美の臀部を撫でさすった。密着の主は体温を持っている。そのことが、望美へ彼女の放り込まれた事態を明確に伝えた。 望美は、ちらりと左脇に視線を送ると、その恥知らずを視界に捉えようとした。しかし、抱えていた望美本人の鞄も邪魔をして、死角の人物を見つけることは難しい。 車内でのこういった経験を、望美は今まで幸運にも味わったことはない。中高時代で混雑の場にあるときは、彼女と今も親しい幼馴染が、自然その体躯で望美を庇っていた。事態はあまりに唐突で、彼女にとって不可解なものだった。不逞の輩の手首を捕えようと彼女が右手を吊革から外すと、まるでお見通しとでも言わんばかりに接触は退いた。その稚拙でありながら物慣れた様子が、さらに望美の怒りを誘った。 中途半端に空中にあった右手を、彼女は吊革へと戻した。すると、もう擬態をなすのに必要性を感じなくなったか、痴漢はゆっくりと彼女の腰を撫でた。望美は、そのしつこさに辟易し、愚劣さに苛立ちを覚える。 一度強く両手を握り締めると、彼女は波立っている感情を静めようと試みた。望美の下車駅まで残り一区間である。単純に耐え切るという選択もあったが、それは好色漢に屈したようで、望美にとって腹立たしいことに変わりはなかった。彼女は胸中の憤然とした感情に任せ、きつく眉根を寄せる。 痴漢の手の甲が、望美の柔らかなふくらみを下から上に押し上げ、また上から下へと形をなぞる。僅かに曲げられた指の関節が割れ目を辿り、望美に吐き気を催させた。焦燥感に襲われ、彼女は固い面持ちで窓の向こうを見やる。 車線と平行して大きな道路が一本走っていた。交差点から手前へ伸びた道と、線路は立体交差する。駅と隣接しているバスのロータリーが望美の視界に入った。彼女の降車駅だった。駅前では色とりどりの傘の花が咲いている。電車は構内へと滑り込み、窓を叩いていた雫も遮られた。ふと、それまで傍若無人に振舞っていた相手の手が、怯んだように止まった。彼女は鞄が落ちるのも取り合わず、痴れ者の手首を左手で捕まえ掲げた。 「この人、痴漢です!」 たいして大きな揺れではなかったのだが、男が一人、自重を支えきれなかった様子で弁慶の肩にぶつかった。満員電車では日常的なことであったから、彼は特にそれを気にすることもなく、腕時計に視線を落とす。時計の長針は、四の字の上を僅かに過ぎたところだ。弁慶の予定に狂いが出るほどの遅延は起きておらず、少々丁寧すぎる運転にも彼は目をつぶった。 彼は医師である。整形外科医として現在の大学病院に勤め、四年になる。元々の強い希望から私立の医学大学に進み、さらに国立大学で修士課程を修めた後、母校でもある現在の勤務先に落ち着いた。研究職に興味がなかったといえば嘘になるが、彼はもう少し直接的に、医療に係わることを好んだ。 座席の乗客にぶつからないよう、彼は腕にかけていた濡れ傘を持ち直す。右手で掴んでいる吊革の位置が、弁慶の身長と僅かに合わないせいもあって、彼は車体が揺れるたびに右腕に変な力を入れなければならなかった。毎朝のことながら、辟易しているのが事実である。しかし、各駅電車に乗っても、結局乗車率は改善されない時間帯であるから諦めるしかない。急行電車は通過駅を一気に走り抜け、また雨模様の線路を前進する。 弁慶の下車駅まで、もう二駅ある。しかし、どちらも停車駅ではないから、実質的には残り一区間だった。弁慶は大学病院へのバスダイヤを思い浮かべると、一日の予定を組み上げることで暇を潰す。 足元から伝わる電車の振動に加え、車体がゆっくりと傾いだ。ジョイントの通過とカーブが連続する関係で、左右の振幅が大きくなる。弁慶の身体はすでにその動きに慣れてしまっていたから、抗うでも、また流されるでもなく、車内の負荷に対応している。僅かなざわめきと、車外から届く小さな雑音に混じり、窮屈そうな非難の声が上がる。しかし、それも走行中の車体の中では、押し合う人々の隙間へ追いやられ、封殺されてしまう。 「すみません」 その謝罪の言葉は、彼の右手側から放り投げられた。受け取る相手も判然としない状況だが、弁慶の向けた意識の先で、声の主であるうら若い女性が後方に視線を投げていた。彼女の細い体躯は重力のおもちゃにされ、僅かにのけぞっている。艶やかに流れる長い髪が、満員電車という窮屈な空間に、酷く不似合いだった。 彼はとても単純に、大変そうだなという感想を抱いた。他人事の意識が強かったが、男よりも体力や腕力の劣る指先が、きゅっと吊革を掴んでいる姿は、彼に小さな庇護欲を芽生えさせる。電車に慣れていないのか、それとも路線に慣れていないのか、弁慶にはわからなかったが、彼女は危なっかしく、右腕で自身の体重を支えている。乗客へ注意を促す車内放送が流れると、それからいくらもしないうちに、再び彼女は前のめりに倒れこんだ。 予想した通りに弄ばれている様子を見ながら、弁慶は、彼の行っていることが比較的趣味の悪いことだとふと気付いた。心配しているというには、彼女に向ける慈善的感情が足りなかったし、そうなれば弁慶の視線は盗み見に他ならなかった。人を観察する癖がついているのだ。彼は、胸中で一言、詫びの言葉を呟く。しかし、弁慶が意識を外そうとした矢先、彼女はゆっくりと唇を引き結んだ。それは、明らかに当惑だとか、不快だとか、そういった感情を含む仕草だ。彼女が一瞬にしてまとった鬱屈とした空気は、弁慶に車外に降りしきる五月雨を思わせた。季節の降らせる長雨が、その土地を水分で包み込み、またじっとりと人々に密着している。その緩やかな侵略の息吹は、彼の勤め先にも、市の公園にも、勿論この電車という密閉空間の中にも入り込んでいる。心地よい時季でないことは確かで、しかし、彼の見つけてしまったそれの原因は、事実として走行する車体から与えられる圧迫感だけではなかっただろう。 彼の視界の隅で、彼女の右手が、突然吊革から離された。僅かな時間、奇妙な場所で停止した手のひらと、戻された指先の強く握られる様が、聡明な彼に、いくらか予想のついていた答えを与えるに十分な様相となった。弁慶の右隣、乗客同士の間隙で起きている事の次第は、単純で下劣だ。 弁慶は、それに気付いた時点で、それとなく視線を外す機会を、失したようなものだった。 先ほど弁慶にぶつかった男だ。男の右手は奇妙に何かをまさぐっており、それの行っていることがれっきとした犯罪行為に含まれることは確かだった。角度が変われば、いまだ少女にも見えるだろう彼女の柳眉は、ひどい恥辱を受けているのだと言っている。 車体は段々と減速していた。彼の降車駅が近づいているのだ。弁慶は、男の握っている吊革を見ると、その流れのまま、窓の向こうへ視線を投げた。駅前は、通勤時間特有の十分な賑やかさを抱えており、人々の咲かせる傘の花が、その健康的な都会の姿に色を添えていた。 そんな風景を視界に映しながら、弁慶は彼自身の横に立つ不埒な男に対して算段をめぐらせる。この後のことを考えると多少面倒という気分も起きたが、彼は彼自身が思うよりもずっと生真面目な性格をしていたし、彼の自認する通りに、痴人一人いなすことなどは容易以外の何物でもなかった。 連れて降りるしかないだろうな。 彼はそう心積りをすると、内心で嘆息した。痴漢行為を立証するには、被害者の同行も必要なのだが、それは致し方なかった。自身が、そういった欲の対象になっていたということ。多くの場合、女性というものは、それを周囲に知られることを好まないのだ。 車窓を愛らしく叩いていた雫の音も遮られた。駅名のアナウンスが繰り返され、弁慶は吊革から手を離すと、さも当然のことのようにすぐ真横にあった男の手首を掴んだ。男の感じた動揺が、その手首を通して弁慶にも知れた。しかし、弁慶が微笑んでその男ともども降車しようとした矢先、更なる衝撃は被害者であった女性、つまりは望美から与えられたのである。 「この人、痴漢です!」 高々と掲げられた彼女の左手には、無礼を働いていた男の右手がしっかりと掴まれている。 左手を弁慶に、右手を望美に掴まれた男は、侮蔑の対象というよりもむしろ滑稽だった。望美の鞄は先ほどまで新聞を読んでいたサラリーマンの膝に落ち、しかしこれら騒動の一幕を目の前にして、彼とて刷られた社会面など読んではいられなかっただろう。車両の注目を一身に浴びた彼らを尻目に、電車の自動ドアだけが、酷く機械的に開放された。 さて。 三者三様に予想外であった事態に対して、皆押しなべて驚いた顔をしていたが、最初に平静を取り戻したのはやはり弁慶だった。彼は、望美に一度笑いかけると、彼女の落とした鞄を拾い差し出した。そして、男を連れたまま、周囲に「すみません」と謝罪しつつ車外を目指す。 僅かに逃げようという意思を見せた痴漢の腕を捻ると、弁慶は慌ただしげな駅構内を見回し、駅員の姿を探した。若い男女に左右から両手首を掴まれている男というのは、その男女を含めて異様である。三人を避けるようにしてできた改札口に続く群集の流れの中、良心的な乗客の知らせを聞いたのか、それとも逸脱した光景に不審感を持ったのか、係員が二人、三人に近づいた。弁慶はちらりと望美を見遣ると、二人の男性職員に手短にいきさつを説明する。望美がいまだに若干の混乱をしていることは彼にも見て取れたし、何より彼女自身の口から次第を説明させるのは、気が引けたからだった。 対して、望美はといえば、彼の見た通りやはり平常の精神状態とはいえなかった。雨に包まれたホームを満たす涼しい空気に頬を撫でられ、彼女は今必死に、奇天烈な状況下を飲み下している。 彼女は不測の出来事という衝突事故に見舞われたようなものだ。ただし、目まぐるしく二転三転した事故現場で、それでも加害者だけは逃がすものかと捕まえているのは、恨みと元々の性格との半々が要因だったろう。元々、事の当事者は望美なのだから、弁慶の行っていることは、通常彼女のすべき行為だ。頷いていた係員から、望美に向けて投げられた視線に同情めいたものを感じて、彼女は自分の口から屈辱を語らずにすんだのだということを知った。望美は、彼女にとって見ず知らずの他人、つまりは弁慶に助けられたのだと、ようやっと理解した。 「書類に、記入をお願いしなければなりませんので」と、彼ら二人のうちの一人が望美に同行を願い出た。恐縮を前面に出した姿に、彼女の方がむしろ申し訳ない気分に陥る。望美が了承すると、彼女がされたのと同じように、弁慶にも詳細の確認が求められた。すっかり大人しくなってしまった渦中の男は、二人の職員に挟まれ、二人の前を歩く。 「あの、ありがとうございました」 望美は横手の弁慶を見上げると、深々と頭を下げた。次いで、礼が遅れたことを詫びる。その様子に、弁慶は歩を促しながら、やはり微笑んで答える。弁慶に、望美に対する悪感情はなかったのだから、ある種当然の受け答えだった。 「いいえ、お気になさらず。むしろ、余計なことをしてしまったかな」 二人によって、結果的に両手を空中へと上げていた痴漢の様子を思い出し、弁慶は口元を抑える。万歳というよりも、状況を慮れば「捕まった宇宙人」に近かった。巻き込まれたと表現するには、あまりにも弁慶が楽しそうに笑うから、望美も笑みがこぼれた。弁慶のそれは不謹慎にも見えたが、その分望美には丁度よかった。 「大丈夫ですか?」 望美が笑ったことを確かめると、弁慶は僅かに声のトーンを落とす。言葉の中に複数含まれた意図を見て、望美は「大丈夫です」ともう一度笑った。その表情が、やはり年端も行かない少女の笑みを思わせたから、弁慶はやはり、彼女の今朝に対して同情を禁じえなかった。 「本当に、助かりました。捕まえようとすると逃げられちゃって、どうしてやろうかと思ってたんです」 「どうしようじゃなくて、どうしてやろうかと考えてたんですか」 勝気な台詞に思わず弁慶が聞き返すと、望美は一瞬返答に詰まった。しかし、短い逡巡のあとちらりと弁慶の様子を窺うと、彼女は随分と飾り気のない口調で是と答えた。続けて、肩口にたわんだ髪を後ろへと流し、そして前髪を少しだけいじる。何かを言い募ろうとしている様が、あまりにも素直に表現されていたので、弁慶は彼女の言葉を待った。 「だって、悔しいじゃないですか」 僅かにふてくされたような音を踏んだ望美のそれに、彼はまた微笑する。そして、含笑のまま呟く。 「……やはり、余計なことをしてしまったようですね」 愉快そうに望美を見る弁慶へ、彼女は懸命に台詞を繰ろうとした。しかし、すでに駅長室に入ろうというところであったから、彼女の申し立ては実現せずに終わってしまった。 警察への引渡しは、望美の予想よりも遥かにスムーズだった。痴漢があっさりと行為を認めたせいもあるが、目撃者である弁慶もいたから、元々申し開きが出来なかったというのもあった。室内には女性の係員もおり、彼女達は望美に対して、先の弁慶と同じような気遣いを見せた。思えば、望美は初めて痴漢行為を受けたのである。彼女は、もう少し取り乱してもよかったのかもしれないが、元々の性格や喜劇に分類されるような一幕もあったせいで、それらはすでに若干笑い話の気配を含んでいた。 作業が終わったのは、午前八時半を過ぎようという頃だった。望美は駅構内の大時計を、弁慶は彼自身の腕時計へと視線を走らせ、その仕草から互いに時間がないのだと悟った。改札口を出ると、連結している駅ビルの前に噴水がある。常ならば、それは真水を吹き上げているのだが、雨天のせいか水面に途切れることなく小さな波紋を泳がせるだけで沈黙している。 「それでは、僕はこれで失礼します」 「はい。本当に、ありがとうございました」 弁慶は、傘を片手に望美に会釈をした。それを見送る形で、望美が頭を下げる。望美のかしこまった仕草に、弁慶は僅かに困ったような表情を浮かべたが、礼儀正しい様子をそのまま受け取ることにしたのだろう。二人の間に、もうそれ以上の会話はなかった。 改札口は、駅ビルの中二階にあったから、バスターミナルへ行くには望美も階段を降りる必要があった。噴水を通り過ぎ、正面部分のエスカレーターを下る。通常、彼女は病院前に停車するバスを利用しているのだが、如何せん本数が少ない。彼女はダイヤを確認すると、すぐに踵を返した。望美にとって初めての方法だったが、住宅街に進むバスを途中下車するしかなかった。 楕円を描くロータリーに沿って、望美が乗り口を探している内に、バスが一台、彼女を追い越していった。それは、望美から数えて五つほど先の駐車位置に止まると、後方から人々を吐き出し、前方から人々を飲み込んだ。桜ヶ丘という住宅密集地と、駅の間を往来しているバスである。 望美は小走りになると、僅かに息を乱したまま、バスステップを登った。乗客は少なく、運転手は乗り込んだ望美へ機械的なあいさつする。それでも、彼女が病院に近い停留所を聞けば、すぐに返答が返った。バスという乗り物自体に、彼女はいまだ不慣れである。望美は、天井近くに張り出されている停留所一覧を見上げ、知ったばかりの名前を探した。 「よくお会いしますね」 目的のものを探し出す前に、望美へと話しかける声があった。望美が驚いて視線を投げると、文庫本を片手に持った弁慶が吊革を握っていた。彼の方も多少は驚いた素振りで、しかしそれでも、柔らかな表情に変わりはなかった。 「え、あれ?」 望美は、思わず素っ頓狂な声を上げる。その様子を見るにつけ、弁慶はくすくすと笑みを深くした。 言わずもがな、降車するべき停留所は同じである。 |
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