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It's the thing which can preserve God and us,all the lonely people don't get sad and tear. You smile pointing to a rainbow. |
「ゆっくり。ゆっくりね」 そう囁くと、望美は浮き上がった静脈の目立つ年老いた右手をきゅっと握った。 老女の左手は、壁伝いに伸びた手すりを掴んでいる。優しい口調に穏やかな表情で一つ頷き、彼女は百メートルほどの長さがある歩行ラインを、望美と一緒に一歩一歩不安定に歩いた。しかし、やはり左脚を患う以前は、まったくの健康体であった老人にとって、上手に動かない足は強いストレスであるらしい。歩き方に微かな性急さを感じ取って、望美は「いち、に。いち、に」と、緩慢というよりはのんびりとしたリズムを取った。 「おばあちゃんは今、足を治してる途中なんだから。悪いものを取っちゃった後の治療はね、急がなくていいんだよ」 老人の右手後ろ側から、望美はにこにこと笑いながら話しかける。表情が見えなくとも、その雰囲気だけは伝わったのだろう。老女はまた一歩右脚を進めた。だが、そこで真っ白になった眉を寄せると、彼女は首を傾げるようにして望美を振り返った。 「でもねぇ、望美ちゃん。もうちょっとまともに歩けないと、一人で売店にも行けないのよ」 「焦って怪我しちゃうよりずっとマシだってば。とりあえず、あのスロープのとこまで、歩いてみよ?」 望美の指差した先には短いスロープと、そのスロープを折り返して三段の階段がある。リハビリテーション用の小さな用具だ。患者の抱えるもどかしさを宥めるように、彼女は軽く背を押すと「ね? あそこまで」と再度囁いて促した。 リハビリテーションのための運動室は、病棟二階の広いスペースを陣取る。中央には八畳分のマットが敷かれており、数人が簡単なマット運動をしていた。柱と壁には手すりが設けられている。小学校の校庭や体育館に見られる器具が多く、背筋台・腹筋台のほかにも、ろくぼくといった遊具に近いものも置かれていた。骨折や外傷における治療段階が、最終に差し掛かった子供の患者は、ほぼ遊びの感覚でリハビリルームへと訪れているから、室内では時折笑い声さえ響く。 雨水の代わりに強い陽光が降り注ぐようになり、春に芽吹いた新緑は力強さを備えて、からりと晴れ上がった空へとその両腕を伸ばしていた。大輪の花を咲かせるひまわりが頭を垂れてしまうまで、学生はあと一月ばかり、各々の制服を着ることもない。緑の影が白い病棟の壁を舐めて、体感気温には似合わない爽やかさと涼気を誘っている。 研修期間とも言うべき補佐の立場から、一人の理学療法士として働けるように、段々と彼女は仕事を任されることが多くなった。それは単純に喜ばしいことで、事実彼女の周囲や望美本人も嬉しさを隠すことがなかったのだが、最も慶事として受け止めているのは望美の「先生」に他ならなかっただろう。 当初の目的地まで歩き終えた老女は、微かな憂うつさを込めてため息を吐いた。白髪を撫で付ける仕草に疲労を感じ取り、望美はスロープ利用者がいないことを確かめると、彼女を階段へ座らせた。次いで、望美自身もその横へと収まる。 「ごめんね、望美ちゃん。すぐに疲れちゃっていやだわ。このぽんこつの足ったら」 「いいのいいの。無理をしないって言うのが大事なんだから」 皴の多い左手で、老女は軽く自身の左脚をはたく。望美が止める間もなかったのだが、彼女は叩かれた細い足をゆっくりと撫で「ダメだよ」と今日初めて、老人に向けて柳眉を顰めてみせた。 「いじめちゃだめ。頑張った左脚は褒めてあげなきゃ」 爪の切り揃えられた細い指先と手のひらが、寝間着越しに老人の足をさする。親身にされて悪い気を起こす偏屈な人間は少ないから、老女も口元に苦笑を浮かべると、素直に「そうね」と頷いた。同意を得られたことに、望美が笑う。彼女が患者に好かれるのは、こういった人好きのする行為を、自然とできることも要因なのだろう。 通例、手術後は体力も筋力も落ちるものだ。さし当って老人に必要なのは、それらの回復なのである。気分転換も兼ねて、望美はそのまま、お喋りに興じた。 「おい春日、交代」 数分も経った頃、望美と同じ診療着を着た男が、彼女達の前に無造作に立った。療法士の一人で、望美とは懇意の男だった。その気安さからか、望美は不満げな声を上げると、老女の右腕にきゅっと抱きつき、意思を示す。 「仕方ねぇだろ、時間決まっちまってんだから」 「あと少し」 「わがままいうな。さっさと飯食って来い」 掛け合いを聞いていた患者たちがくすくすと笑った。それに気付くと、いまだしゃがみこんでいた望美の頭部に男の軽い平手が落ちる。暴力ではなくスキンシップだ。子猫にするような軽い叱責で、望美にしてもまったく痛みなどなかったが、それはそれ。わざと両手で頭を覆うと、彼女は男を睨み上げる。 「そら、笑われたじゃねぇか」 「私だけのせいじゃないじゃない」 遊びの延長戦にある口論はむしろ微笑ましい。事実、望美の横に腰を下ろしている先の老女も「元気ねえ」と笑う。祖母と孫ほどの歳が離れているせいもあって、愛着がわきやすいのかもしれなかった。 男は、診療カルテで肩口を叩きながら望美を見下ろす。そして、どうやら最終手段に出ることにしたらしい。カルテを足元に置き、望美の両肩を掴むと力任せに無理矢理立たせ、ついでとばかりに彼女の額を弾いた。半分以上は笑っている望美の悲鳴と、半分も本気で怒ってはいない怒声が重なり、賑々しい一幕はようやっと終わりを告げる。 望美が立ち上がろうとする老女に手を貸すのと、男が床に置いたカルテを拾ったのは同時だった。左脚を庇うため、老人は右手を取った望美に体重をかける。それを支えながら、騒がしかったことを望美が詫びれば、彼女は笑って首を振った。 「んじゃばあちゃん、今日もよろしくな」 「ええ、ええ。お願いね」 「ばあちゃんの左脚はぜってー治る! 俺様にまかしとけ」 悪童のような笑みと溌剌とした口調で、老人を元気付ける姿は、やはり望美にとって見習うべきものだ。ほんの少しの間、ろくぼくの方へと向かう彼ら二人を見送ると、望美も踵を返した。まず、彼女は財布と昼食を取りにいくため、スタッフルームへと戻らなければいけない。 土曜の午後は来院棟も閑散としている。診察が行われていないことが大きいが、事務職員の内、出勤している人間が少ないことも理由の一つだろう。望美は、ふとその場で足を止め、人影の少ない反対側の棟を中庭越しに見つめた。 「望美」 聞き慣れた呼びかけに、望美が振り返る。朔である。彼女は僅かに早歩きになって望美へ追いつくと、一度深呼吸をして息を整えた。 「よかったわ、追いついて。リハビリルームにいったらもういないと言われて、探していたのよ」 「あはは、追い出されちゃったんだ。でも、どうして?」 朔は、金曜の晩が宿直である。だから、彼女は多くの場合土曜の朝から自宅に帰り、そして日曜に出勤する。すでに太陽が天高いこの時間まで、彼女が院内に残っているというのは稀なことであった。化粧で誤魔化しているが、朔の目元には薄く隈ができている。心配げに顔を歪めた望美に、朔はふんわりと微笑んだ。そして「なんてことはないのよ」と続ける。 「調べ物をしていたら、こんな時間になってしまって、それならあなたと一緒に昼食でもと思ったの」 言葉の通り、朔はすでに制服である真っ白な看護服から、品のいい普段着へ着替えている。膝丈のワンピースにカーディガンを羽織り、首から院内証を下げている姿は学生にも見えた。望美は朔の手を取ると、満面の笑みと共に頷く。 「喜んで」 多分、親しい人間の手を取るというのは、望美の癖なのだ。 幼少の頃から、彼女は同い年の幼馴染に手を引かれ、そして年下の幼馴染の手を引いて育った。だから、単純な刷り込みで、愛情と手をつなぐという行為がつながっている。幼く、少々不躾な癖ではあるのだが、元来の悪意のなさが、人々にそれを咎めさせないでいる。 元々、昼食を院内で摂るつもりのなかった朔であるから、当然のことながら、彼女は食事を持参していなかった。結果、二人はあまり行き慣れない食堂へ赴き、窓際の席に落ち着いた。大きめに取られたはめ込みの窓からは、院内のバスのロータリーが見える。遠くに都心のビル群が僅かに覗いていて、ほかは道路と、整地されてない林と、喧騒を厭ったような人家しか、目ぼしいものはない。 券売機の前で一通り悩み、結局無難に日替わり定食を頼んだ朔は、思いがけない盆の上の全体量に目を丸くすることとなった。食が太いとは冗談でも言えない彼女だから、すでに視覚からして満腹感に襲われただろう。とりあえずといった風に箸をつけながら、それでも朔の小さな胃に、それら食物が全て収まるとは、望美から見ても思えなかった。 「つらくなったら、私が食べるよ」 「そうね。……行儀が悪いけれど、残すよりはマシかもしれないわ」 礼儀や作法と言った問題以前に、現実的なものがある。 安穏とした時間が流れ、土曜の午後という長閑とした空気も手伝い、満ちるのはとりとめのない会話ばかりだ。夏の熱気もガラス一枚向こうのことでしかなく、冷房機具の十分効いた室内では、季節の風物を楽しむ余裕が溢れる。心なしか、春よりもずっと濃くなった青空に飛行機雲がすっと伸びていく。膳の上のものが半分になり、望美の弁当が残すところ三分の一という頃になって、ふと朔の声が僅かに潜められた。 「ところで、望美」 唐突に低くなった会話のトーンに、望美は小首を傾げることで答えた。ほんの数ミリ寄せられた朔の頭に、同じく小さな頭を寄せて、彼女は目を合わせる。そして、反射的な危機感を覚えた。 望美の視線の先、朔の双眸は稀な輝きを見せていて、こういった場合の親友の微笑に、望美は心当たりがあるのだ。朔の浮き足立ったようなそれに対して、彼女は極力、冷静に笑い返した。 「最近、藤原先生と親しいのですって?」 「親しいというか……まぁ、会えば話をする程度で」 ピンキッシュな威圧感をまとう朔に逆らえず、望美はしどろもどろに無難な回答を選ぶ。しかし、望美のそのいらえに対して、まるでわざとらしいまでに朔は目を丸くして見せると、楽しげな空気のまま言葉を紡いだ。 「あら、毎朝同じ電車に乗ってると聞いたけど」 「え、嘘っ。それは嘘だよ! 毎朝なんて時間も合わないし!」 「では、何が本当なの?」 聞き返され、咄嗟に上手い言い訳もできない望美は、結局いつもこういった手段で朔に色々と告白させられてしまう。ころころと口元を手で覆い、朔が笑った。 思えば、望美がぽろりと幼馴染二人のことを話した折も、朔は写真を見たいといって聞かなかった。朔は既婚者である。そのたおやかな外見とは異なり、意外なまでに意思の強い彼女は、大学を出て就職すると同時に、当時駆け出しの画家であった現在の旦那様と結ばれた。永久の蜜月から脱していない朔は、望美にそういった色恋の気配を感じ取ると、まるで十代の娘のように嬉々として手を貸そうと試みるのだ。彼女は常に優麗として頼りになる女性だったが、望美にとって、まだそういった話題はこそばゆい。何者かの故意か、生来の気質か、彼女は恋愛と疎遠に生きてきた。惚れた腫れたの物事は、まったくもって望美の器量の範囲外で、問いかけられても、彼女はいつだって返答に困った。 「そうね。……じゃあ、望美は藤原先生のことをどう思っているのかしら?」 望美が答えあぐねいていることを十分承知している上で、朔は質問の形を変えてみせる。単純な好悪ならば、望美だって言葉を選ぶ必要などないのだが、朔のそれには明確な意図が含まれているゆえに、彼女は口ごもった。それでも、彼女が何らかの台詞を繰らない限り、朔は引かないだろう。 望美は何度かうなるように言葉を濁したが、ちらちらと色んなところへ視線をやった後に、朔へと向き直った。 「どうって。うーん、……いい人だなぁとは思うけど、時々、意地悪じゃない?」 「まあ、望美。あなた、意地悪をされているのっ?」 「あ、あ、違う、違うの朔!」 まるで今にも立ち上がりそうな親友の剣幕に、むしろ望美の方が焦った声を出した。加えてテンションの高くなった朔は思わずと言った風に声を上げてしまったから、数少ないとはいえ食堂にいた職員達から、二人は怪訝な眼差しを向けられた。それを受け、さすがに正気づいた朔も若干頬を赤らめる。一緒になって肩を寄せ合い、二人は再び声を落とした。 「ごめんなさいね、望美」 「ううん。私も誤解させちゃうようなこと、言ったし」 苦笑した望美に、やはり朔も微苦笑を返す。 望美は、語彙を探す間、また僅かに黙り込み、そして、いまだ言葉を見つけられない風情のまま口を開いた。 「意地悪というか、反応に困ることを言う、というか」 「例えば、どんな?」 朔の言葉は当たり前のもので、それなのに、やはり望美は答えにつっかえてしまう。 鮮明に思い出されることは望美の中でもすでに多く、彼女は窓の向こうの木立に視線をやると、ふと眦を紅に染めた。それは、今日と同じような土曜日のことで、望美はさらに黙りこくると、それを誤魔化すために弁当のアスパラガスを口に含んだ。 七月の初旬。時刻は、紫がかった濃紺によって、ようやっと一番星以外の星々が、世界に知らしめられた頃合であった。 段々と薄闇に飲まれていく外来棟の待合室では、一人の少年が、望美の膝を枕代わりに穏やかな寝息を立てている。すっかり寝入ってしまった小さな肩を、ぽんぽんと宥めるように叩きながら、彼女はさてどうしたものかと若干途方に暮れていた。 元を正せば、望美が子供を連れ出したようなものだった。事の起こりは、少々時を遡る。 その日、午後の三時を回った時分、いつもの通り小児病棟へ足を運んだ彼女が見つけたのは、常ならば飛びついてくる少年のベッドに潜り込んで小さく嗚咽する姿だった。慌てた望美が、子供を抱きしめながら「どうしたの」と尋ねると、彼は痙攣し震える舌で「木が伐られている」とそれだけ呟き、彼女の胸元に深く額を押し付けたまま、またいとけない泣き声をもらした。 梅雨の長雨に打たれすぎて、根腐れを起こしてしまった中庭の樹木が、切り倒されているのだ。それは望美も知っていることで、彼女はさらさらとした子供の髪を梳くと、しゃくり上げる背中をゆっくりと撫でさすった。彼は、今年十を数えたばかりである。加えて、生まれた頃から繰り返される入退院のためか、どことなく浮世離れした挙措をしていた。大きなチェーンソーの音と、幹の上げる悲鳴は、感受性豊かなこの少年に毒となったのだろう。彼女はそう判断すると「音の聞こえないところに行こうか」と言って、彼と病室から抜け出したのだ。結果、大人しく望美に手を引かれた彼と、彼の安心できる場所を探して、待合室にまでたどり着いてしまったのである。 怯えた子供は、恐怖の原因である音から隔離されても、変わらず微かな興奮状態を示した。それを落ち着かせるために、望美が歌を聞かせているうち、彼は泣き疲れて眠ってしまった。 春、いまだ経験浅かった望美へ、最初に懐いたのはこの少年であった。以来、彼はひたむきすぎるほどの一途さで彼女を慕っており、それは雛鳥が親鳥を追う姿にも似ている。そのせいばかりではなかったが、穏やかな寝息を乱すことも憚られて、望美がもう少しと二の足を踏んでいるうちに、すっかり時刻は黄昏時を迎えてしまった。 望美は、赤くなってしまった幼い眦を指でなぞり、再びどうしようかと考え込んだ。彼女とて、子供一人抱えて病棟へと戻ることができないわけではなかったが、安定感のない女の腕力では、結局彼の目覚めを誘ってしまうことも、また明白だった。かといって、消灯時間までに彼を送らなければならないことに変わりはなく、そもそも、夕食の時間になっても戻らない少年を、周囲がいぶかしみ始めているだろうことも容易に想像がついた。 「ごめんね、起こしちゃう」 望美は小さな声でそう囁く。しかし、子供の手はむずがるように彼女の制服の裾を掴んで、また、望美のためらいを誘った。 ふいに、彼女の耳へ靴音が届いた。ゆっくりとした歩調で、しかし確実に、それは望美たち二人の方向へと進んでいた。廊下を照らす白熱灯と、非常灯の緑のランプ以外は、すでにどの診察室も沈黙した後である。来院棟の中でも奥まった場所とはいえ、唯一僅かに人の気配漂う待合室へ、その人物が近づいているのは察して余りあった。 「ああ、こんなところにいたんですね。探しました」 「藤原先生」 長椅子に座したまま、望美は声を上げた。彼女にしてみれば、不思議な居合わせであったが、弁慶は特に疑問でもない様子で平然としていた。実際のところ、彼は二人に関する目撃証言を、小児病棟の子供たちから得ていた。弁慶は、望美の目の前で僅かに腰を曲げる。そして、熟睡している少年にふんわりと笑った。 まずは患者の容態を確かめる医師に、望美はひどく申し訳が立たない気分に陥る。彼女は、彼女自身の我儘が過ぎたことを自覚していたし、自覚していたとするならば、なおさらすぐに行動を起こさなかったという点で責められるべきであった。 「……すみません。また、ご迷惑をおかけしたみたいで」 弁慶が視線を上げると、反対に、望美は若干顔を伏せた。そして、小さく謝罪の言葉を告げ、細い肩にきゅっと力を入れた。すっかり咎めを待つような体勢を取る望美であったが、抑えられた声音の気遣いは、わかりやすく少年に向けられていて、加えて、子供の手は彼女の看護服を掴んだままだ。弁慶とて、それに気付いていないはずもなかったのだが、彼はひとまずといった風情で、望美に合わせた低いトーンを返した。 「そうですね。今回の件については、みんなすごく心配していました」 男のそれは、怒るというよりも、やんわりと諌めている口調だっただろう。しかし、その分望美にとって、叱られるよりも胸に響いた。給食の時刻になっても戻らない患者に、やはり小さいながらも心配する声は多かったのだ。 「どうしたんですか? 理由がおありなんでしょう」 弁慶は一度背筋を伸ばすと、望美に問いかける。彼からは、頭頂部しか見えなかった望美の頭が上げられた。問い質すといったきつい口調ではなかったが、望美からすれば、むしろ説明しないことこそ非礼だった。口を開き、彼女が事のあらましを話し終えると、弁慶は小さなため息と苦笑でもってそれらを水に流した。 帰りが遅くなったのは、勿論彼女の落ち度であろう。しかし、だからといって本気の叱責をできる話でもない。 「失礼します」 弁慶は一言告げると、少年の小さな手を望美の衣服から外し、両腕で抱え上げた。右腕に座らせるように抱くと、子供の頭部が丁度弁慶の肩口で安定する。今まであった重みを唐突に失って、望美はほんの少しの肌寒さを覚えた。子供の体温は温かく、またそれだけ長い間、彼女は少年に膝を貸していたのだ。 「あ、ありがとうございます」 「いいえ。帰りましょうか。今度からは、気を付けてください」 先の言葉に比べれば、ずっと望美をたしなめる色の濃い台詞であるというのに、弁慶は小さな微笑を添えるだけで、それを柔らかなものにしてしまう。 立ち上がり、望美は素直に「はい」と答え頷く。好ましい態度を得て弁慶が踵を返すと、望美もそれに倣った。 彼女達が待合室を出ると、中庭側にしか窓のない来院棟の廊下は、すっかり夜の気配をまとっていた。大きなガラス戸のある待合室からは、いまだ暮れなずむ西の空を窺えただけに、望美は僅かに驚いた。病院側の省エネ対策として、土曜日の来院棟の廊下には、等間隔でしか蛍光灯が灯らない。影となっている部分は、もう真っ暗と表現して差し支えないだろう。 弁慶はゆっくりと歩を進める。それは、眠る子供を起こさないためであったし、歩幅の違う望美を気遣ってのものでもある。物音一つしない院内では、靴音だけでも十分響いた。それに気を取られて、随分と慎重に歩く望美を彼が見つめると、その視線に気付き、望美は顔を上げた。 「君は、今日は当直かなにかなんですか?」 内緒話のような声音で弁慶が問えば、望美は男を見上げたまま、左右に首を振る。そして、同じようにひそめた声を出す。 「いいえ。何でですか?」 「今の時間まで残っていらしたので。では、こんな遅くに一人で帰られるんですか」 「遅く」という弁慶の言葉に、望美はきょとんと口を閉ざす。確かに、これから帰り支度をして帰途につくのでは、彼女が自宅に着くのは早くても九時前といったところだろう。しかし、それは望美にとって、通常の帰宅時間であったし、場合によっては深夜を回ることもある。 「遅い、でしょうか?」 「早くはないでしょう」 「まあ、仕事柄仕方ないのかもしれませんけれど」。弁慶はそう続けると、それでも納得しきれないような表情で、望美の眼差しに応える。彼女の双眸には不可思議さと、驚きと、僅かな当惑があって、彼にしてみれば、つい一月前の電車でのことを忘れてしまったのかとも思う。他人よりもずっと無防備にできているらしい望美に気付いて、弁慶はお節介が過ぎることをわかっていながら、それでも言い募った。 「ご両親に、迎えに来てもらっては」 「一人暮らしなんです」 そうであれば、なおさら遅い帰宅というのは感心できない。 直接的な意味合いでも、間接的なことであっても、現代社会は十分物騒だ。少々旧態依然の思考であるという自覚はあったが、弁慶は感情のまま、少しだけ渋い顔をした。そのことから、どうやら返答を間違えたのだと望美は察したらしい。そういった感情の機微が、すぐに表情へ出てしまうことも、加えて弁慶の老婆心を煽った。 「では、恋人に」 一瞬の間が空く。 返事に窮するようなことをいっただろうかと、弁慶が疑問に思ったのと同じタイミングで、望美は少々ぎこちなく答えた。 「……いません、から」 弁慶は、彼らしくもなく数秒の沈黙に徹した。対して、望美は気恥ずかしさから前を見据え、黙々と足を運ぶ。 「失礼しました。美しい方なので、当然いるものだと」 「いいんです、フォローしなくても」 得手でない話題への敬遠からか、望美は僅かに早口になった。苦笑と、微かな紅を頬に乗せて、彼女が笑う。 病棟へ戻る渡り廊下に、西日が入り込んでいた。あと数分の輝きであるのに、ただそれは眩しい。望美は、右手から彼女を襲う茜色に、目を眇めた。照らされた部位は世界の中で最も輝いているのに、影は果てしなく濃く、暗い。 少年の頭を左の肩口へと移し、弁慶が一歩前に出た。弁慶の体躯に守られることによって、居心地のいいコントラストが、彼女の元へ戻った。望美は、光に驚いた自身の瞳孔を、瞬きをすることで落ち着ける。ついで、再び男を見ると「ありがとうございます」と微笑んだ。 「とても、可愛らしい人ですよ。君は」 弁慶が静かに笑った。先の話題から続いた台詞なのだと気付いて、望美は、戸惑いから少し怒ったような表情をした。しかし、彼女を見ている弁慶の眼差しが意外なほどに真摯で、望美を驚かせる。望美に向けられた弁慶の左側の顔は、強い夕日を受けて、彼女による直視をうまく避けていた。 「からかわないで下さい」 「本心ですよ」 驚いたこともあって、望美は強い語調を弁慶に投げた。彼は、そんな望美のことをあやすように、からかいを十二分に含んだ音で返事をする。 廊下を渡りきり、望美はもう一度、見直すように弁慶を見上げた。すると、やはり穏やかな微笑が彼女に落とされる。弁慶の浮かべた微笑みは、すでに何らかの感情で強められているものではなく、何となく、望美はほっとした。 塩茹でしたアスパラガスを咀嚼し飲み込むと、望美は続け様ペットボトルを口につけた。そして、それらが時間稼ぎだとわかっていながら、ゆっくりとほうじ茶などすすっている朔を見つめ、望美はやっと台詞を選んだ。 「可愛い、とか、いってくれるんだけど。でも、とても本心とは思えないんだよね」 「あら、望美は十分可愛らしいわよ」 のんびりと返された親友の言葉に、多数の意味合いで返答に窮し、望美は再びうなり声を上げる。先の事柄をすべて話すのは、なぜか憚られて、彼女は挙動不審に両手を組んだり、離したり、また握ったりした。 「だからね。どう思ってるのかっていうと、不思議な人だなぁって」 若干、まくし立てるように言った望美を窺い、朔は微笑する。 「そうなの?」 「そうなの」 朔の浮かべる意味深な笑みに、望美は困り果てて情けない顔をした。いじめが過ぎたことを詫びるため、朔が望美の頭を撫でる。それでも、やはりこらきれないといった風情で、彼女は小さく笑い声を上げた。 「やっぱり、望美は可愛いわ」 |
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